JR中央線の吉祥駅南口を出て少々、木立の中へと下りていきますと、井の頭公園に到着しますですね。桜の季節はとうに過ぎ、つつじも終わりか、はたまたアジサイはこれから…という、花暦的にはあまり見るもののない中を、井の頭池を右手に眺めつつ進んでいきますと、池の水は川となって流れ出していくところに出るわけです。

 

ここが神田川の源流です。神田川は善福寺川、妙正寺川と合流して隅田川に注いでいます。

ということで、玉川上水ができる以前はこの神田川を神田上水として使って、江戸市中の水需要を賄っておったのですなあ。つまりは清流であったということでしょう。

 

で、そんな神田川の始まりのところのちょいと先には京王井の頭線の井の頭公園駅がありまして、ある程度の年齢層の方なればご存じのとおり、TVドラマ『俺たちの旅』の舞台でもあるわけですなあ。駅前あたりを見てもあまり往時を偲ぶよすがはないような気が。結城美栄子演じる時江さんが売り子をしていた改札口脇の売店ももはや存在しておりませんしねえ…。

 

と、井の頭公園界隈を巡って懐かしがるのが今回ぶらりの主目的ではありませんで、駅からほど近いところに作家・吉村昭の書斎が移築されて、昨2024年から公開されるようになっていたのだったということを、ふいと思い出したわけでして。先日、映画で見た『雪の花』(実際に読んだのは『めっちゃ医者伝』なのですが)でもって原作者・吉村昭に辿り着いた絡みでありますよ。

 

 

文学館とか記念館とか名乗らずに「三鷹市吉村昭書斎」という施設名になっているのが奥ゆかしいところといいましょうか。こぢんまりとした施設であることの遠慮かもしれませんですね。で、上の建物は書斎そのものではなくして、ガイダンス施設(交流棟というらしい)ですな。元はこのあたり(のどこかしら)にある自宅の離れとして建てられ、ここに移築されたという書斎はこちらです。

 

 

それこそ文学館とか記念館とかいう形で新たに設けられた建物ではありませんので、凝った建築てなことではありませんが、それはともかくとして、正面に見える本来の入口は現在使われておらず、書斎を覗くには交流棟を通り抜けて裏側から回り込む形ということでありますよ。ともあれ、まずは交流棟へ。

 

 

中には、吉村昭とご夫人・津村節子の著作がずらり。施設名には吉村昭しかありませんが、作家どうしのおしどり夫婦として知られたお二人だけに、著作の紹介も年譜の展示もお二方を並べて展示してありましたな。

 

 

ただ、おしどり夫婦とはいっても、仕事部屋たる書斎は別々(元はひとつの部屋で、使いにくかったようす)にしていて、ここの離れは吉村昭が使っていたということですな。

 

 

作家の書斎と想像すれば、本で溢れかえっている…と思うわけで、予想を裏切らないところは感じられますが、「どの題材でも現地での徹底した調査を重ね、証言者や専門家への取材を行い、図書館や古書店をめぐって資料を収集し」たという実証的な作風であるわりには、溢れ方が少ない。『桜田門外ノ変』を書くにあたっては襲撃当日が本当に雪だったのかをさまざまな史料から掘り起こしたりもした…てなことを聞き及んでおりますだけに、膨大なものを思い浮かべましたが、その謎解きは展示解説に。

執筆の資料として集めた書籍は、作品を書き終えると古本屋に売りに出したと言います。ある古書店主から、古書は必要としている人のために市場に戻すべきだと教えられ、それを自分の流儀としました。

そうでもなくては書斎がいくつあっても足りないてなことになりましょうねえ。ただ、(例えば江戸川乱歩の土蔵書庫のように)まるまる蔵書を眺められると、こんな本も、あんな本も読んでいたのであるか?!といった思いがけなさに出くわすこともあるのではありますが…。

 

ともあれ、またまた思い返せば、生涯で初めて買った文庫本が吉村昭の『戦艦武蔵』であったことからして、個人的な指向性とかぶる題材が多い作家であるなと思い、交流棟にずらり並んだ著作の数々には、あれも読んだ、これも読んだと思う一方、あれもこれも読んでないとも。徹底して記録に基づく取材を重ねるも、それを文学として成立させるところに個性を開かせた吉村昭作品には、これからも折々読んでいくことになろうかと思ったものでありますよ。

 

余談ながら、著作の並ぶ棚に新潮少年文庫の『めっちゃ医者伝』が無かったのは少々残念。ひっさしりぶりに手にとって見たかったのでしたが…。

ある作家が生み出した小説の登場人物があまりに魅力的(個性的?)であるがために、後の書き手が数多くパスティーシュを生み出すといったことはままあるにせよ、取り分けシャーロック・ホームズほどに新たな創造を掻き立てる存在である例は珍しいのではないですかね。1887年に『緋色の研究』で登場して以来、すでに138年が経過しているにも関わらず…と、そんなふうに思いましたのも、昨年(2024年)刊行の森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』を読んだからでありまして。

 

 

後の書き手たちによる作品には、本来のホームズものが推理小説であることを踏まえた謎解きミステリーであるものもあれば、そうでない(冒険小説っぽいといいますか)ものもありますですね。シャーロキアンとまでは言わずとも、ホームズものと聞いてついつい手を伸ばす読者の期待はおそらく前者にあろうかと。

 

あまりやりたい放題の展開にすると、怒り出す人たち(取り分けシャーロキアンか?)がいたりもするのではなかろうかと思うところですが、本書はかなり際どいような気がしたものです。登場人物はそのままの名前で、ホームズもワトソンもハドソン夫人もモリアーティ教授もアイリーン・アドラーまでもが出てきますけれど、彼らが動き回る舞台がなんとヴィクトリア朝京都であるというのですから。ホームズの住まい、すなわちハドソン夫人の下宿はベーカー街221Bならぬ寺町通221Bであったりして。

 

ワトソンがメアリと結婚してベーカー街を離れた後、ハドソン夫人の下宿に入ってくるのが自らの研究が絶望的に行き詰まっているモリアーティ教授で、絶不調のスランプ状態にあるホームズと互いの傷をなめ合うように同居するというあたり、原典から借りてきている器が多いだけに、まあ、読み手によってはにやりとする部分もそこここにある一方で、「いやはやなんとも」の感覚を抱くことにもなりましょうねえ。

 

ですので、あまりに原典との関わりを意識しすぎるのは本書の読み方としては適当ではないのかもと思うところです。希代の推理力を誇るホームズもスランプに陥ることはありましょうから、その人間らしさを小説として描くということがあってもいいのでしょうし、それ以上にホームズ譚の書き手であるワトソンの逡巡を描くこともまた小説としてあり得ることであろうと。

 

その点をさらに言えば、ホームズ譚を書いているワトソンを、登場人物として描きだしているコナン・ドイル自身の逡巡といいますか、もうひとレイヤー重ねるならば、ワトソンを書いているコナン・ドイルを想起させるように書いている森見登美彦の存在も想像の範囲に入ってきそうですし。

 

個人的にはストーリーそのものの面白さはともかくも、書き手(を書く書き手を書く書き手…)の悩ましさ、別の例で言えばエルキュール・ポワロという探偵役を決して気に入ってはいなかったアガサ・クリスティーのことを思い出したりもしますが、そんな要素のある物語を、原典から借りてきた登場人物たちをヴィクトリア朝京都という異相空間に落とし込んでどう落ち着かせるかに、興味を持ったと言えましょうかね。

 

ホームズという超有名人にはいろいろな活躍をさせたいといいますか、超有名人だから名前を借りてくればそれなりに面白くなりそうというか、ホームズがヴィクトリア朝ロンドンとは全く時空の異なる場所で活躍する話は、つい作りたくなるところなのでしょうか、ふと気づいてみれば『歌舞伎町シャーロック』なんつうTVアニメもありましたっけ。本書よりもさらにシャーロキアンの方々は怒りだしそうな話でしたけれどね。

 

ともあれ、京都に現れたり、新宿歌舞伎町に現れたりとシャーロック・ホームズの神出鬼没ぶりは時空を超える状況であるわけですが、ホームズを滝壺に落として一端はけりをつけたコナン・ドイルも、やがて復活させざるを得なかったわけですが、それ以上に、130年あまり後にもホームズ譚を書こうとする作家たちがいるほどのキャラクター創造をしたのだとは思っておらなかったでしょうなあ。しかも、そうしたパスティーシュが、映画やドラマなども含めてそれなりに人気を呼ぶことになろうとは…。

どうした具合でありましょうかねえ、どうにも風邪の抜けがよろしくないような…。やたら暑くなったかと思うと、それが落ち着けば体感的にはひんやりして…なんつう日々だからでもありましょうが、もしかして、またしてもコロナだったんではなかろうかとも。

 

このところ東南アジア方面ではまた新型コロナが再流行しているてなニュースを耳にしたりもしますし、これまでとは感覚的に症状が異なる気がするものの、相変わらず変異株(現在はオミクロン株に由来するXEC株とやららしい)が暗躍しているようですのでね。本当にコロナだったとすれば個人的には四度目の罹患ということになりますので、「いい加減にしてよ」と。

 

と、ひとしきりこぼしてしまいましたが、どうも今年2025年に入って腰痛やら風邪ひきやら、なんやかやでひたすら「養生に努める」時期が断続的に生じ、結果的に(ただでさえ運動不足をこじらせているのに)酷く体力が低下しておるなという事態なのですな。それだけに、多少なりとも動き回る(何せヒトは動物ですし)ことで回復を図らねばと思っておる次第です。で(やっと本題ですが)取り敢えず最も近くにある美術館を訪ねてみたというお話なのでありますよ。

 

 

覗いてきましたのは、東京・立川のたましん美術館(「たましん」とは多摩信用金庫のこと)で開催中の『対話する美のかたち~さあ、その眼で触れてみよう~』展というものでして、「コレクションと対話するようにして作品の鑑賞を体験していただきたいとの思い」が反映した企画であるそうな。

 

それにしても、「美術作品を鑑賞するというとき、私たちは何を、どのように見ればよいか戸惑うことがあります」とフライヤーに書かれているあたり、そもそも展覧会へ足を向けるかどうかの敷居になってもいようかと。そこへ、何かしらのヒントが与えられるとすれば、その敷居はいささかなりとも低くなり得るとは思いますし、洋の東西を問わず、古い作品と向き合うときには予め一定の知識を持って臨んだ方が理解しやすくなるのは事実でしょうなあ。

 

さりながら、この点にあまり気をまわし過ぎますと、知識を仕入れておかないと美術館に行けないてなことになってしまったりもして、にわとりが先か卵が先か、それが問題だとばかり、結局美術館に敷居を跨げないことにもなるような。

 

かねがね美術作品と相対するに、何をどんなふうに思ったとしても見る側の勝手と割り切っていいと、個人的には感じておりますだけに、あまりヒントに頼りすぎるのもなんだなあ…とも思ったり。その時々のヒントがよろしくないわけではなくして、ヒントが無いと分からないというふうになるとしたらどうよ?と。

 

今回のような展覧会を仕掛ける側としては、まずはヒントを頼りに作品と向き合ってみて「ふ~ん」とか「へえ」とか何かしらの感興が湧いたならば、次からは作品を見るにあたって自らヒントを創出して眺めてもらうようなことを考えているのかも。確かにその思惑に乗っかる鑑賞者も出てこようとは思いますが、何につけスマホでパパっと結果を求める傾向が世の中じゅうにあることからすれば、ヒントそのものを自分で創出するような方向に行くかどうか、少々危ぶんだりもするところでありまして。

 

同じようなことはクラシック音楽を聴くことにも通じておるように思いまして、この曲は…とか、この作曲家は…とか、この楽器は…とか、この形式は…とか、分かっていた方がより理解が深まるにもせよ、その音楽を聴く、あるいは美術作品を見るのは必ずしも「理解を深める」ためにやっていることではないはずですよねえ。

 

曲にしても美術作品にしても「ああ、きれいだな」「おお、すごいね」といった感情の揺らぎを入口にして、何かしらの思いが湧き起こったならば入口としてはそれで良いのではと。そういう点ではWikipediaの「芸術」という項目にある、こんな説明には「なるほど」と思いますですよね。

芸術(げいじゅつ、旧字体:藝術󠄁)またはアート(希: (η) τέχνη, tékhnē、羅: ars、英: art、仏: art、独: Kunst)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。

必ずしも「わかる」「わからない」が肝心な点ではないと思い至りますと、それだけで美術展やら演奏会の敷居が低くなるような気がしますですよ。その上で、少しずつ少しずつ経験値と知識を(結果的に)積んでいけたらよろしかろうと思うわけで。

 

と、今回のたましん美術館の展覧会にはどんな作品があって、どんな印象であったか…てなあたりには全く触れずにおりますが、この展覧会に足を運んだ甲斐のひとつは、ここまで書いてきたあれこれを思い巡らしたということでもありましょうね。まさに覗いた甲斐はあったと思ったものなのでありますよ。

何か新しめの時代劇映画でも…とAmazon Primeで探りを入れたところ、「今年の初めに公開されたばかりかあ、出回るのが早いねえ」と思いつつ出くわしたのが、映画『雪の花-ともに在りて-』でありましたよ。

 

 

天然痘が猛威を振るった幕末の日本で種痘に普及に尽力した医師・笠原良策を主人公にしたお話ですけれど、そんなあらすじ段階ではピンと来ていなかったものの、いざ見始めてストーリーを追っていきますと、「ああ、この話、昔むかしに本で読んだなあ」とふいに記憶が蘇ってくることに。中にあった挿絵?までがぼんやりと浮かんできたのでありますよ。

 

本作の原作は吉村昭の小説『雪の花』であって、それを昔むかしに読んだとは思われず、浮かんできた挿絵からもおそらくは子供向けの読み物だったのだろうなあと、その詳細を思い出すことの方に神経が集中してしまい…。

 

当然に映画を見終えた後にはネット検索にかかったわけですが、その結果「おお、そうであったぁ!」ということが判明したのでありましたよ。昔むかしに読んだというのは「新潮少年文庫」というシリーズの一冊だったのですなあ。

 

文庫といいつつ文庫判ではなく、かといって岩波少年文庫のような新書判(?)でもなくして、いわゆる「本」然としたハードカバーでしたですね。そうはいっても、企画としては岩波少年文庫の柳の下に二匹目のどじょうを見出す感あるものだったのではなかろうかと。ただ当時、世に知られた作家による書下ろし作品(たぶん?)を並べて、学校図書館の常備図書にしてもらおうという思惑だったろうかとも。

 

で、そんな新潮少年文庫の初回配本(1971年11月)の3冊のうちの一冊が、『雪の花』の主人公・笠原良策を取り上げた『めっちゃ医者伝』で、これを子供のころに読んだのであったというところにたどり着いたわけです。作者はやっぱり吉村昭で、なんとこの子供向け読み物を後に大人向けの『雪の花』に仕立て直したのであったとは。

 

ちなみに、初回配本の他の2冊、星新一の『だれも知らない国で』と三浦哲郎の『ユタとふしぎな仲間たち』もそれぞれに読んだ記憶がありますですよ。さりながら、1973年までに計10点が刊行されたその後の配本にはとんと覚えがない。時期的に子供向け読み物を脱しつつあった頃なのかもしれません。

 

とはいえ今に続く読書体験の、個人的な礎ともなったのが新潮少年文庫であったともいえそうだと、今になって思うところです。子供の頃から本好きで…とは目されつつも、その実は各種の図鑑を眺めてばかりいて、(絵本ではない)お話を読み切るという習慣の確立しておらなかった読書オクテとしては、このシリーズに感謝せねばならないと今さらながらに思ったものでありました。

 

とまあ、かような昔ばなしを思い出させた笠原良策の生涯、映画の方を思い返してみますと、漢方医として立っていた良策がやがて種痘法に辿り着くきっかけは、蘭方医・大武了玄と出会ったことにあるのですが、これまで信じてきた漢方とは全く異なる理屈に則った蘭方に目を開くことになる思考の内側がどうも釈然としないように思ったものでありますよ。仮に、素直に「これ」と思ったものに取り組んで憚らない柔軟性が良策にあったのなら、そこあたりの人物像を描く必要はなかったろうかと。

 

ま、冷凍保存といった方法の無かった幕末、種痘の苗は人から人へ移し継いでいかなければならない中、少しでも早く越前に(遅まきながら申し上げると笠原良策は福井の人)種痘所を設けたい良策の取った熱血行動あたりが映画としては見どころなのかもしれませんですけどね。日本の医療の夜明けともいうべきところであるのもまた。

風邪で臥せっても恢復期となってきますと、ただ寝ているのがしんどくなってきますなあ。そんなときはTVを見るか、本を読むか。このほどはどちらかというと、本を読む方向に行ったわけですが、幸いにもさほどに重くない本を図書館から借りてきてありましたのでね、幸いでありましたよ。

 

先日に東京・小平市のガスミュージアムを訪ねたお話を振り返った際、気象業務150周年に絡む展示のことに触れたですが、150年の歴史をたどる年表に「昭和40年(1965)富士山レーダー誕生」なんつう一項があったのを思い出したり。

 

で、新田次郎の小説に、確か富士山レーダーの建設話があったなあ、そして思い返せば新田次郎自身、元は気象庁の職員であったのだっけと。そんなところから探し出しのが、『富士山頂』という一冊でありましたよ。

 

 

実際のところ、新田次郎は単に元気象庁職員であって…というだけでなくして、昭和38~39年のレーダー建設にあたっては技術系の測器課長としてプロジェクトの中心にいた人物であったとは。文庫の表紙には富士を望んで事務机に着くおじさん職員の姿が配されておりますので、何やらのほほんとした印象が醸されるものの、プロジェクト自体はそんなのんびりムードとは正反対にあったことは、ま、言わずもがなでありましょう。

 

登場する人名や会社名は全て実名を離れたものであるにせよ、実際のプロジェクト・ベースなだけにおよそそれぞれに特定が可能であろうかと。それをこんなふうに書いちゃっていいのかいね?とも思ったりしたものでありますよ。もちろん、あれこれフィクションを織り交ぜているものとは思いますが、うっかりすると全て実録のように受け止められたりもするでしょうしね…。

 

ともあれ、大蔵省(当時)への富士山レーダー予算要求から発注業者選定、着工までを描く第一部では、金を握る大蔵省の偉そうなことと、その利権に群がって「ぜひともわが社に」という業者たちの暗躍(もはやそうとしかいいようがない)は企業小説の面持ちですな。

 

第二部は富士山頂に巨大レーダーをくみ上げるという工事の苦労がさまざまに語られますけれど、とにもかくにも3776mという高所であると同時に、独立峰であるが故の遮るものの無いふきっ曝しの場所であることの困難は山岳小説風も盛り込まれてあるわけです。ここいらの描写には、作者の経験がものを言ってもおりましょう。

新田次郎は昭和七年に中央気象台に入ったが、以降十二年までの間に、毎年三ないし四回、一月交代で富士山観測所に勤務したそうである。滞頂日数は通算四百日にのぼり、富士山についての感懐もひとしおだった。(巻末解説)

完成後には実際の運用に向けて、今度は電波局のせめぎ合い?が生じたりするあたりを第三部で描き、主人公の測器課長は道筋が付いたことを潮に、気象庁を勇退、予て二束のわらじで臨んできた作家一本で立つことを決意するのであった…とは、自伝的要素もまたありかと。現実の当人もレーダー完成後の1966年に気象庁を依願退職してますし。

 

ちなみに2000年3月に放送の開始されたNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の第一回が富士山レーダー建設を取り上げたものであったそうな。「巨大台風から日本を守れ ~富士山頂・男たちは命をかけた~」というサブタイトルが示すとおりに、1959年の伊勢湾台風ほかにより甚大な被害が出ていたことを受けて、一刻も早く台風進路予測を国民に届けるために富士山レーダーは作られたのであると。

 

建設当時、世界最高所に置かれた気象レーダーとなったようですけれど、時を経て現在はもはや気象衛星が富士山よりも遥かに高いところから見張っているような具合。1999年には役割を終えていたのでしたか。

 

今現在は、山梨県富士吉田市に移設されて「富士山レーダードーム館」となっている…となれば、出かけてみようかと思うところですが、富士山周辺は(場所にもよりましょうが)多言語が飛び交う賑わいの中にあるやもしれず、折を見てとしておきましょうか。

 

ちなみに富士山に登る?という点では、もとよりそのつもりもなかったですが、本書を読んでなおのこと、「富士は眺めてこそ良し」と嘯いているだけにしようという気持ちが弥増したものでありましたよ(笑)。