先に新田次郎の『富士山頂』を読んだついでで、富士山本をもうひとつ。富士山に関わる本は比較的最近にも延暦大噴火を背景とした澤田瞳子『赫夜(かぐよ)』を読んだり、噴火の歴史を振り返りその痕跡を写真で辿る『10万年の噴火史からひもとく富士山』を眺めたりしてきているですが、このほど手にした『富士山噴火の歴史 万葉集から現代まで』はやはり噴火の歴史を辿るにせよ、ちと変わった趣向(?)でありましたよ。

 

 

富士山は地学的な研究によって何度かの大噴火が知られておりまして、延暦噴火、貞観噴火、宝永噴火などがあるわけですけれど、ここではそうした大噴火そのものを扱うのではなくして、大噴火と大噴火の端境期、富士山が大なり小なり噴煙を上げていた時期(あるいは噴煙を上げていなかった時期)はいつ頃であったろうかということを考察しているのでありますよ。

 

ヒトの感覚では大噴火の兆候を窺えず、静かな山だな…と思っていたところが突如大爆発!なんつうことも、2014年の御嶽山のように現実にあるわけですけれど、大抵は「まだまだ大噴火する気概を失ってはおらないけんね」という意思表示を、日頃の噴煙という形で表している山もありますですね。鹿児島の桜島とか関東では浅間山とか、箱根の大涌谷あたりもですかね。

 

この手の意思表示がある山ではそれなりの警戒心を持って臨むことになりましょうけれど、およそ富士山に噴煙とはぴんと来ない現状になってはいるものの、かつてはそうではなかったであろう、何しろ大噴火していたわけだし…ということで、いったいいつ頃の人たちは富士山の噴煙を見ていただろうかというわけですね。

 

古くから科学的な見地に立った観測記録が残るでなし、いったい何を拠り所に?と思うところですが、タイトルに「万葉集から…」と添えられておりますように、いわゆる古典籍、古文書の中の記載を頼りに見当していこうと、まあそういうことのようで。

 

ですので、先史時代のことは当然わからないわけですが、その後のことをざっくりと言ってしまえば、延暦噴火、貞観噴火のあった平安期は結構噴煙を上げていたようでありますねえ。もちろん、この時期は歌集が多く編まれたり、例えば『更科日記』など文章も多く残されているので、記載事例そのものが多いともいえましょうけれど。

 

ちなみに『更科日記』では父親・菅原孝標の任地であった東国・上総国から京へと還る道すがら、噴煙立ち上る富士の山を作者は眺めていたようで。こんな記載だそうです。

富士の山はこの国(駿河)なり。…山のいただきのすこしたひらぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火のもえたつも見ゆ。

日が暮れると火柱も見えるほど、荒ぶる富士の姿が思い浮かぶところではありませんか。平安時代を通じて噴煙を上げ続けていたとは言い切ることはできないものの、その頃には富士と言えば噴煙を上げているものというのが一般的な認識だったようですな。そのことは数々の歌に詠まれているところから想像されると。

 

平安期に和歌にはいわゆる恋の歌が多いわけですが、恋に燃え立つ心の様を富士に擬えて詠まれていたといいます。例えば『古今和歌集』にはかような歌があるようで。

人しれぬ思いをつねにするがなる富士の山こそわが身なりけれ よみびとしらず
君といへば見まれ見ずまれ富士の嶺のめづらしげなくもゆる我がこひ 藤原忠行

その後、鎌倉時代に至るも燃え立つ富士は一般的であったようながら、室町期にかけてだんだんと沈静化していき、宝永噴火を予測させるのように江戸の初めにはまたもくもくするも、やがて富士に煙の見えるケースは失われていったようで。

 

19世紀になって富士の姿をあちらからもこちらからもと、葛飾北斎が描いた『富嶽三十六景』や『富士百景』にはいっかな噴煙を上げるようすは現れないですしね。もうずっと、富士と噴煙が無縁であるように現代人が思うのは、自ら実見することが一切無いばかりでなしに、江戸時代という古い時代の絵を見ても穏やかな(?)富士しか見られないことによるのかもしれませんですね。

 

ただ、本書に曰く北斎作品にも富士の噴煙と思しきものが描き込まれている作品があるということでして、それが『新板浮絵忠臣蔵』の「初段鶴ヶ岡」であると。本書所載のモノクロ図版ではうすぼんやり感が漂っていましたので、「浮世絵検索データベース」を覗いてみることに。

 

同サイトにこの作品はいくつかのバージョンがアップされていましたが、富士山自体を消してしまっているものもある中、姿が見える方では火口から直接ではないものの、空にむかってもやもやと噴煙が上がっているように見えなくもない。

 

本書では、葛飾北斎が富士の噴煙を実見したわけではなくして(幼少の頃の可能性が全くないわけではない)、赤穂事件が起こった頃(18世紀初頭)には噴煙を上げていたと伝え聞いたことによるのではとも紹介されておりましたな。富士そのものが描かれないバージョンがあるというのは、後々、この絵を見る人たちの時代には富士の噴煙は一般的でなくなっていて、カットされたのかも…とは勝手な想像ですが。

 

てなことで、今や富士と噴煙は全く結びついてはおらないわけですが、気象庁HPには富士山が日本に111ある活火山のひとつであることが示されておりますね。そもそも地震学者であるという本書の著者によれば、東日本大震災の四日後に富士山直下でマグニチュード6.4の地震が発生していたのだとか。

 

未曾有の大災害を前に、富士山直下地震には全く気付いておりませんでしたが、眠れる富士(のように見える状態)を揺り動かして目を覚まさせる要素はあるのかもしれませんですね。あまりとやかく言いだすと不安を煽るデマみたいになってしまいますので、この辺にしておきますけれど…。

これまでに凸版印刷が手掛ける印刷博物館には何度か立ち寄ったことがありました(そのうちの何度かはトッパンホールの演奏会ついでですが)。が、業界トップに並びたつ大日本印刷の方にも資料館のようなものがあるのではなかろうかと思っていたのですよね。

 

銀座にグラフィック・ギャラリーを持っているとは知っておりましたけれど、本社のある市ヶ谷に「市谷の杜 本と活字館」なる施設があるとは、先ごろになってようよう新聞で見かけたのでしたか…。ですので、都心のサントリーホールに出たついでに覗いてみたのでありますよ。

 

 

聳えたつ本社ビルの手前、レトロな洋館風の佇まいを見せているのが本と活字館でして、そもそもは大日本印刷の前身会社が1926年(大正15年)に建てた印刷工場の表玄関というべき建物とか。

 

 

「戦時中の空襲にも耐え、ずっとこの地にあり続けました」という紹介は、ことのほか印象的なような。何せ、市ヶ谷だけにすぐ近くには防衛省(かつての陸軍省)があるものですから…。ともあれ、中へ入ってみましょう。

 

 

先に大日本印刷の前身会社が云々といいましたですが、元々は秀英舎と日清印刷という二つの会社が1935年(昭和10年)に合併してできたのが大日本印刷であると。ですが、元の会社のひとつ、秀英舎の「秀英」というところに「ん?!」と。お隣のコーナーですぐに謎解きはされるのですけれど。

 

 

そうそう、フォントの名称でしたですねえ、「秀英体」。秀英舎の秀英でしたか。基礎的な活字書体として現在は数多くあるデジタルフォントにも影響を与えたという秀英体。それだけにこの施設が「本と活字館」という名称で、本の制作過程を紹介するに展示は「作字」から始まることになるのでしたか。

 

 

それにしても、印刷技術はグーテンベルクが15世紀半ばに活版印刷術を発明して飛躍的に進歩したわけですが、以来500年にもわたって活字造りが続けられてきたことになりますな。印刷が便利になったとは思っても、活字造りの大変さまでには余り思いを致したことはなかったような。「1文字ずつ、原図を描いて「型」をつく」ることから始まるのですものねえ、大変な作業でしょう。

 

 

描かれた原図を基に、活字パントグラフ(母型彫刻機)という機械で活字の原板?を作るそうですが、機械の肝心要の部分に寄ってみますとこんな具合です。

 

 

今ならばコンピュータ利用でささっと…てなふうにもなりましょうが、コンピュータの無い時代ですから精密加工技術の極みで作り出していたのでしょう。にこだわりを見せている由縁だったのですなあ。

 

母型ができると実際の活字を「鋳造」する段階に。であったとか。その際に肝心なのが活字の高さを均一にするということ。「高すぎると文字がつぶれ、低すぎるとインキがつかずに文字抜けの原因とな」ってしまうということで(ちなみに、普通「インク」といいますが業界用語的には「インキ」だそうです)。

 

と、ここまでの活字作りは印刷作業の下準備ですな。実際の印刷に掛かる最初には「文選」という作業があると。いわゆる、活字拾いですな。

 

 

熟練の職人さんの文選を見て、活字拾いをやってみようコーナーみたいなのがありまして、なんとはなし、単純作業だし簡単なんじゃあないかという想像はとんでもない誤りでしたですよ。とにかく活字の量が膨大で、「使用頻度ごとに区分され、文字種・部首順に棚に配列され」ているとはいえ、見つけるのに時間がかかり過ぎてあっという間に降参!です(苦笑)。

 

で、拾った活字を印刷物のページの形にくみ上げる作業が「植字」ということで。サンプル、1ページ分として仕立てのがこちらになります。

 

 

「印刷すると余白になる行間や文字間も、すべて金属で埋め尽くし」、1ページ分まとまると崩れないように外枠をタコ糸で縛るのだそうでありますよ。

 

 

版ができたら、いよいよ「印刷」。「校了した組版を、8ページや16ページなどの複数ページ分を印刷機に組み付け」ると。これは次の工程になる「製本」にも関わる点でしょう。こちらは、その「製本」の作業自動化に力を発揮した糸かがり機だそうで。

 

 

「印刷した用紙を折ってページ順に並べた「折丁」の背に糸を通し、1冊分の本を縫い合わせる機械です」ということですが、どうにも縫製工場の機械としか見えませんですなあ。「糸かがり綴じは上製本に多く用いられ、開きやすく、耐久性のある本ができ」るのであると。

 

 

てなことで、本のできる工程を興味深く見て回ってきたですが、実はこの施設は2階にも展示があるのですなあ。お次はそちらの展示を振り返ることにいたしましょうね。

古代史に興味があって、時折古墳を訪ねに出かけたくなる…と、今ではそんなふうに言ってしまうのですけれど、元々古代史に興味がある、だから古墳にも行くという流れでは無かったのだったなあと、今さらながら。

 

古墳を見に行くようになって古代史への興味が高まったというのが実際でして、では何故に古墳に出かけるようになったのか、そのきっかけは?と思い返せば、実はそこに日本の歴史とはおよそ関わりないものがあったわけなのですね。

 

今を去ること13年前ですので、2012年の夏に北欧、スウェーデンへ出かけた折りのことです。首都ストックホルムの近郊にウプサラという古い大学町がありまして、大学図書館に展示されている「銀文字聖書」を見に行ったりしたのですけれど、そのほんのついで、ガムラ・ウプサラ(ガムラは「古い」という意味ですので、古ウプサラですな)というスウェーデン古代の遺跡にも立ち寄ってみたわけです。

 

そこで見たものはただただ草っぱらが広がるところに大きな土饅頭がぽこっとぽこっと連なっている。それだけといえばそれだけなんですが、なんだか妙に「遠くから来た甲斐があった」と思えたものだったのですなあ。で、その後になってようやって日本にも古墳というものがあったではないか…と、日本の古墳を見に行ってみたという次第。だから日本の古代史への興味は後付けなのでありますよ。

 

ともあれ、一方では北欧古代史にも些かの興味を抱いたとなれば、気になるのは(言葉としてはよおく知られる)ヴァイキングですな。で、翌2013年の夏に今度は、ノルウェーのオスロでヴァイキング船博物館を覗いたりも。

 

とまあ、そんなこんなのこともあってヴァイキングにもまた関心がある…という背景を長い長い前置きにしましたけれど、ここからが今日のお話。Amazon Prime Videoで『VIKING バイキング 誇り高き戦士たち』てな映画に行き当たり、見てみたということでして。

 

 

タイトルからして当然に?いわゆる北欧の歴史の一端に触れるものと思っていたですが、のっけから思惑違いと知らされることに。手っ取り早く「映画.com」の紹介を引いてみますとこんなふうで。

大国ロシアの礎を築いた男たちの壮絶な戦いを描き、2016年ロシア映画興行収入第1位を記録した歴史劇。西暦800年代後半。リューリク一族率いるバイキングがキエフを制圧し、その地をルーシと称するように…。

リューリクといえば、ロシア史の始まりの方で必ず目にする名前ですけれど、「この人、ヴァイキングだったの?」と。なんだかイングランド史のノルマン・コンクエストにおけるノルマンディー公ウィリアムみたいではありませんか。

 

と言っても、イングランドの場合は後継者争いを力でねじ伏せ片を付けたようなものですけれど、ロシアの方はスラブ人同士の争いが絶えない中、スラブ人の側から頭にいただく人物をという求めに応じてやってきたのがリューリクであったとも(神話の域を出ない話でもあるようですが)。

 

そんなリューリクの時代から100年ほど後、キエフ、ノブゴロドといったスラブ人の地はヴァイキング由来の統治者が大公として統べていたわけですが、三人息子を残してスビャトスラフ大公が亡くなると、兄弟の間では血で血を洗う争いとなっていく…というあたりは、この映画のストーリーでありましたよ。

 

いつの頃からか、古代史題材の(外国の)映画ではどばどばと血が飛び交ったりする残虐シーンが多々見られるところですが、本作もまた。ま、アクションといえばアクションとも言えるでしょうけれどね。ロシア映画(結局のところ、本作はロシアの映画だった…)でも同様ということかと。

 

こういっては何ですが、「そもそもそうだったのであるか?!」という点では「ほお!」だったものの、映画としての出来がよろしいかといえば、「うむむ…」でしたな。三人息子の末弟、勝ち残ったウラジーミルがそれまでの戦いのあけくれを倦んで?正教会に改宗することになって、平和の道筋が示されましたとさ…となる流れはもそっと描きようがあったろうなと思いますし。

 

それにしても、スラブ人の地にある程度の安定をもたらして聖公ウラジーミルとも呼ばれる統治者と、同じ名前を持つ人物が今のロシアの大統領なわけですが、スラブ系の人たちの暮らす土地の安定を導く術は現状のような形しかないのでしょうか…。

 

ロシアでは2016年に公開されて「興行収入第1位」とフライヤーにありますけれど、聖公ウラジーミルのふるまいを見た、多くのロシアの人々にしたら、別のウラジーミルの行いがどう映っているか、気になるところではありますねえ。

このところ例年のことかもですが、さわやかな季節のいい頃合いというのが無いまま、あっという間に梅雨の走りでありましょうかね。いやはや。

 

昨日は曇ってはいても夜まで降り出さなかったのをこれ幸いと、サントリーホールへと出かけたのでありました。以前、サントリーホールでは月齢的に、オルガンプロムナードコンサートという無料企画を設けておりましたですが、これが2025年度から有料(といっても1000円)の新企画に様変わりする…とは前に触れていたですな。題して「サントリーホール Presents 伊集院光と行く! 奥深~いオルガンの世界 トーク&コンサート」と。「はて、どんなことになりましょうかね」と、シリーズの第1回を覗きに行った次第でありますよ。

 

 

クラシック音楽のことはおよそ知らない…という立場の代表として?昨今はTV朝日『題名のない音楽会』にも出演している伊集院光。素人代表らしいというか、「ボケでやってんじゃあないの?」というようなコメントを挟んでいくトークのコーナーは、それこそ『題名のな音楽会』あたりの公開収録かとも。

 

実際、TVカメラ(らしき大型カメラ)が入っていましたので、何かしらの機会に放送されることがあるのであるか…と、考えてみればサントリーホールのお隣は(『題名のない音楽会』を放送している)テレビ朝日であったわけで(テレ朝のカメラかどうか知りませんけどね)。

 

ともあれ、舞台上に置かれたリモートコンソールと舞台正面上方にあるオルガン本体のコンソールとで、同じ曲を弾き比べたり、ストップを押し換えながら音色の違いをあれこれ聴かせてくれたり…という機会は、今回のような企画ならではなのでもありましょう。

 

トークの後のコンサートに並んだプログラムも、こういう機会だからこそオルガン音楽のバリエーションを聴いていってもらいましょう的なものであったような。バロックのJ.S.バッハに始まり、ロマン派のフランツ・リスト、そして現代曲ながらいわゆる現代音楽っぽくないジャン・ルイ・フローレンツ(『アフリカの子』というタイトルの「アフリカ」をイメージしやすい音風景の曲)と続いたわけでして。

 

最後に演奏されたアレクサンドル・ギルマンのオルガン・ソナタ第1番ニ短調作品42(の第3楽章)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した作曲家らしく後期ロマン派の爛熟を思わせる分厚い響きながら、聴き手を煙に巻くことのないあたりは、オルガン曲のバリエーションの広さを楽しむにまさに一興でありましたよ。

 

と、そんなことを思いつつ聴いていたわけですが、昨今になってオルガン演奏会にたびたび出かけていたりしますと、結構な頻度で19世紀末から20世紀、ともすると現在も活躍中という作曲家の作品が取り上げられるケースがあるなあと思ったのですよね。

 

いわゆるクラシック音楽の演奏会が(文字通りの)古典的な名曲集になっていることが多い中で、新しい作品、決して広く知られているわけではない作品(ま、オルガン曲自体が押しなべてそうですけれど)を取り上げる比率の高さは、オルガン演奏会の個性なのかもと思ったりしたものです。

 

かつてメンデルスゾーンがライプツィヒ・ゲヴァントハウスのオケを振っていた時代、演奏会と言えば当時活躍中の作曲家の新曲披露の場であったというのが一般的…とは聞きかじりですが、それを使い捨てられた?古い曲を発掘して披露したのもメンデルスゾーンの業績であったようで。バッハの『マタイ受難曲』の蘇演はつとに知られるところかと。

 

ただ、その功績が影響しすぎたか、今やクラシック演奏会は古典的名曲集になってしまってもいるわけですが、それだけに思いのほか新しい時代の曲を織り交ぜてプログラムにのせてくるパイプオルガンのコンサートは聴き手にとって新発見を得る機会となってもいるように思ったのでありますよ。

 

楽器そのもの、パイプオルガンといえば古い古い楽器と思えるものの、古典的シンセサイザーみたいな機能を持つだけに、新たな曲が次々と生み出されてもおりましょうしね。といってこの日の演奏でいえば、ギルマンのソナタも良かったですが、最初に演奏されたバッハのオルガン協奏曲BWV593も、原曲たるヴィヴァルディのRV522を思い浮かべつつ聴き比べる妙がとても楽しいものであったわけで、やっぱり昔の曲も捨てがたい…(笑)。

先に読んだ『シャーロック・ホームズの凱旋』では、舞台がヴィクトリア朝京都なる異世界に置かれていたわけですが、ホームズやワトソンたちが時に歩き回り、時に辻馬車を駆って走り抜ける街並みはリアル京都であったのでしょうなあ。

 

街中を動き回るようすを追跡するのに、それがどこであるのか、京都の場合には通りの名前やらそこここで出くわすランドマークでもって分かりやすいのはメリットと言えましょうか(御所がヴィクトリア女王の住まう宮殿に見立てられたりしてましたが)。

 

ただ、分かりやすさのほどは人それぞれであって、実際には修学旅行で連れまわされたくらいの記憶しかない京都の町のことですので、おそらくは分かりやすいのだろうなと思っただけで…(苦笑)。ですので、やおら鷹峯と言われても、どのあたりにあって、どんなところなのか、全く見当がつかないままに読んでしまったのでありましたよ。中野孝次『本阿弥行状記』という一冊です。

 

鷹峯は元和元年(1615年)に徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦が移り住んだ所です。光悦はここに草庵を建て本阿弥一族や芸術仲間、弟子、職人衆と共にこの地に移り住み、一時は55軒もの屋敷が並ぶ芸術村を作ったと言われています。(京都観光総合ガイド「KYOTO design」より)

「ほお、そうでしたか?!」という本阿弥家の拝領地が(時を経て権現様の意向も顧みられなくなったか)幕府によって召し上げられてしまうという危機的状況に立ち至る。これに際して本阿弥家の心意気を残そうということか、光悦の孫にあたる本阿弥光甫によって語り残されたのが『本阿弥行状記』であるようですな。本書は、行状記を語り伝えんとする光甫の姿と語られた内容を組み合わせて、小説化したものということで。

 

それにしても、本阿弥光悦という名前こそ琳派がらみで聞き知った存在ではありますが、「そもこの人は何者?」てな感じも。文化人としていろいろな分野に顔を出す、いわば趣味人かとも思えますし、その一方で家康から領地を下される人物でもあったとは?と。本業は刀の目利き、刀剣の研ぎにありともうっすら知ってはおりますけれどね。そのあたり、本書ではこのように。

そもそもは光悦の父光二と申す者の代にまで遡ることにて、この光二は刀・脇差の目利きと細工にかけては当時並ぶ者とてない名人であったゆえ、諸国の大名衆もこぞってその国々へ召しよせられ、国中の刀・脇差を見てもらおうと望んだものであった。

武士たる者、自らの佩刀は立派な曰くあるものであると権威に証してほしいと思うのでありましょうね。さすれば、大名たちとのかような関わりを通じて、本阿弥家はステイタスも財産も手に入れるところとなったろうかと。ではありますが、そんな本阿弥家の話を取り上げたのが作家・中野孝次、最も知られた著作が『清貧の思想』であることを思い出さねばならないのですよね。

 

早い話が光悦は清貧の人であったとことででありまして、例えば「侘び茶」といったことでも知られる千利休をも「悪風俗」と一刀両断の評価を下したりもしたようで。

利休は千金の値の道具でもつねづねの用に使い、茶道は炉風呂という様式に改めて、行儀・作法・諸道具もみなそれに従うように定めた。かねてから「この道に執心するならば行住坐臥すべて茶の湯である。普段は粗末な道具を使っていて、炉風呂のときのみ珍器を扱うのは、寺院が千年に一度秘仏を開帳するようなものだ」と言い、自身も日ごろから千金の道具を使っていられた。まだ禅学者ぶったところといい、その身の器量はたしかに名人であったが、いろいろ驕慢な面も多い方だったという。

まあ、利休にしてみれば例え千金の値の道具であっても、分け隔てなく普段遣いにも用いることが驕りと離れたものと考えたかもしれませんが、実際には価値が定まった高価なものをこれ見よがしに普段遣いですよと使うこと自体、驕慢でもあったことに気付いていない…てなことですかね。

 

確かに利休もすでに価値の定まった茶器ばかりを用いるでなく、新たに楽茶碗を焼かせたりしているわけですが、新しい(価値が定まっていない)ものであっても利休という名人が「良し」としたものには価値が出てしまうことを果たして自覚していたかどうか。

 

その点、光悦はといえば「書でも焼物でも茶の道でも蒔絵細工でも」自分で作ってしまう。刀の目利きとはいえ、それぞれの分野では素人の手すさびで、もっぱら自分のためのものを自分で作っているわけで、後世になってそれが大きな価値を生ずるのは存外であったと。

「陶器を作る事は余は惺々翁にまされり。然れどもこれを家業体にするにもあらず。只鷹ケ峯のよき土を見立て折々拵え侍るばかりにて、強(たつ)て名を陶器にあぐる心露もなし」

そんな心持で作っていたであろう数々の品。例えば、畠山記念館(現・荏原畠山美術館)で見た赤楽茶碗「銘雪峯」、山種美術館で見た書の「鹿下絵新古今和歌巻断簡」や「四季草花下絵和歌短冊帖」などなど、今ではいわゆる大名物と見られるようになっていること(おそらく価値は計り知れない…)を知ったら、果たして光悦はどんな顔をするでしょうなあ。ついつい想像したくなったりもするのでありましたよ。