「あれこれと研究が進むというのは、こういうことなのであるなあ…」とまあ、そんなふうに思ったのでありますよ。

 

巨視的には、果てしないと思ってしまうほどに捉えどころの無い大きさの宇宙の、端の端の方で何が起こっているかが分かってきたり。それこそ、先日地上波で再放送されたNHK『コズミックフロント地動説 〜謎を追い続け、近代科学を生んだ人々の物語〜』で、宇宙のありようを世の中の人に納得させてしまい、それが故に長い長い間、天動説が信じられることになってしまったプトレマイオスの時代には、及びもつかない観測ができるようになってきている。

 

一方で微視的には、人体(だけではありませんが)の最小単位を細胞として、その働きのあれこれを大阪・高槻のJT生命誌研究館の展示で先年知るところとなりましたが、今やその最小単位たる細胞の中にぐぐいと迫って、中で動き回る数々の物質を調べるようなことになっているのであると。これまた先日の『NHKスペシャル 人体III 第1集 命の源 細胞内ワンダーランド』を見ていて、「う~む」となったわけで。

 

ちなみに(と番組の受け売りですが)ここで「物質」といったものには、いわゆる「命」は無いわけですね。ですが、動物たるヒトが生命を持って動き回る元の元が「物質」の働きによるのであるとは、ついつい考え込んでしまうところではありませんでしょうか。

 

物質の働きというと、(例えば混ぜ合わせるとか、人が手を加えることなどによって起きる)化学反応といったものを思い浮かべるも、物質そのものは動くものであって、動かされるものであろうと思うわけですね。それがさも動いているように見えるのは、番組で登場した風の力が動力減となって動いている(さも自立的動いているように見えるも、風に動かされている)模型を例として示しておりましたな。

 

つまり、自立的動くのかどうかが「命であるか」「命を持つものか」の分かれ目ともいえるわけながら、一個の人体として自立的に動き回っていると思っているヒトは、細かく細かく見ていきますと、生命を持って動いているとは言い難い物質の作用によって成り立っていることになる…となれば、ヒト、人体もまた動かされているということになってくるような。

 

人はそれぞれに「何かしらのことをやりたい」という欲を個々に抱えていて、それぞれの違いは「そりゃ、人それぞれでしょう」と思うわけですが、その根っこには自らの意図の及ばない、というかヒトの意図というものが形成される遥か以前、極小単位の物質が何かしらの作用として働いた結果の、最終的発露ということになりましょうかね。

 

人の抱える欲の中には「生きたい」というのがあって、このことは生命の根源と関わるような気もするところながら、生命の根源には生命でない物質があって…となりますと、いったいどこからが生命であるか、どこらへんで生きたいと思うことになるのであるか、結局のところはヒトという外形は生かされているのでは?とも。

 

そんなふうに思い至りますと、しばらく前にNHKの夜ドラで放送されていた『超人間要塞ヒロシ戦記』の人型要塞を思い出してしまったりも。もそっと知られたところに擬えれば『マジンガーZ』とか『機動戦士ガンダム』とかでしょうか。ともあれ、これらは皆、内部で人間が外形(人っぽいかロボット然としているかはともかく)を動かしているのですが、結局のところヒトとは動かす方ではなくして、動かされる方であったかと、思えてきたりするのですよね。

 

番組の中では、取り上げた科学的知見に触れるにつけ、「科学者ながら、神の存在を考えてしまうような…」的なことを山中伸弥京大教授がつぶやいていましたが、どうでしょうねえ。個人的にはそんなふうに思うことはなかったですなあ。それよりも、神がいるならその神はいったい何でできているのであるかと思ってしまいましたですよ(笑)。

 


 

 

というところで唐突ながら、野暮用がありまして(というわりには長いですが)明日(5/3)からしばしのお休みを頂戴いたします。予定としましては、5/9(金)に再登場かと。どうぞ皆さま、GW(の後半)を楽しくお過ごしくださいませ。

 

さてはて、東京・小金井市の江戸東京たてもの園で覗いてみた特別展『江戸東京のくらしと食べ物』(会期は6/15まで)を振り返っておるわけですが、4章立ての展示構成のうち「第1章 華開く江戸の食文化」「第2章 食文化の文明開化」とがそれぞれに長くなってしまいました。あとは「第3章 戦中戦後の食事情」と「第4章 外食産業の発達と食の多様化」が残っておるところながら、ここはちと足早に。

 

ここまではどんどんと日本の食生活が豊かになるといいますか、多様になってきたようすを窺い知ることになりましたけれど、戦中戦後の食事情となりますと、「食」以前に「食料」そのものが乏しくなっておりましょうから、推して知るべしの感はありますですね。

長びく戦争によって物資が不足する中、1942年(昭和17)、米をはじめ塩や味噌、醤油などが次々と配給制となり、食卓に暗い影を落としました。

 

解説パネルを見ますと、食料品を中心にマッチや衣類までさまざま、日常生活で用いる品々の使用が制限されたことが分かります。太平洋戦争開戦以前にしてすでに、このように米の節約を促す隣組回覧板が回っていたようで。

 

3日に1食はうどんやそば、パンなどを食べるよう呼びかけるほか、必ず実施することとして「完全に咀嚼すること」「過食しないこと」「残飯を出さないこと」を求めている。

「隣組」と言えば、♪とんとんとんからりと隣組~と、妙に明るく歌われる戦時歌謡を思い出して、歌詞の続きに「廻して頂戴 回覧板」などと地域の相互扶助を表しているようで、その実、時局に鑑みた相互監視組織ともなっていたのであったなあと。余談ながらこの歌の旋律をそのままに、TV番組『ドリフの大爆笑』(1977年放送開始)のオープニングで使われていたことを思いますと、そこはかとなく戦争の頃の空気といいましょうか、そんなものが残る時期でもあったのであるかと思ったり。

 

ともあれ、戦時中の食糧逼迫は大変なもの(といいつつ、軍部の倉庫には食べものが唸るほど蓄えられていたとはよく聞くところですなあ)であったわけですが、戦後になってもすぐに状況が好転するでなく、そこへ持ち込まれたのが米国からの小麦粉でもあったのですよね。

 

 

農林省(当時)からして輸入食糧をうまく使う方法を伝授しようとしていたと。小麦粉を活用したパンの作り方やトウモロコシ粉の利用法が記されておりますな。個人的に、こうした状況を色濃く反映していたのは学校給食であるかなと。

 

昨今の学校給食は米飯が出てくるのが当然のようになっておりましょうけれど、1960~70年代前半(?)くらいはもっぱらパン食でありましたな。やけに耳の部分が固い食パンが毎日出されたものですから、目先の変わったコッペパン(砂糖をまぶした揚げパンであることが多かった)が出ると、些か色めき立ったような。やはり粉もので「ソフトめん」なるうどんまがい?のものも出てきたような。

 

後の時代のこととしてドラマや映画の『おいしい給食』に描かれるほどの魅力を、当時は全く感じておらなかった(個人の見解です)ものの、食生活の点では米飯一辺倒から多様化を促すという効果は確かにあったことでしょう。

 

そうした流れを受けて、国も減反政策を展開して現在に至る。このところ急浮上している米不足は、結局のところこの流れの果てに生じたものでもありましょうか。で、各家庭では自発的に(なにせ米の値段が高いので)粉ものへの傾斜度を増しているとは、「歴史は繰り返す」と言っては言い過ぎでしょうけれどね。

 

で、展示の最終章(第4章)は「外食産業の発達と食の多様化」と。米飯一辺倒ではなくなっていったこともあり、日本の食事情は多様化の一途をたどりますな。外食を含めて、日本にいながらにして世界じゅうの料理を味わうことができるようにもなっていく。先駆けとしては紹介されていたはファミレスとファストフードの展開でありましたよ。ちなみに、スカイラーク第1号店は1970年に、マクドナルドの第1号店は1971年にオープンしたと。

 

 

外食には「おでかけ」的なお楽しみも伴うことで伸びが見られた一方で、自宅での食事もまたバリエーションも富むものとなっていきましたなあ。江戸時代ではありませんが、そこに寄与したのはやはりレシピ本、グルメ雑誌の数々でもありましょうね。

 

 

 

 

 

今となっては、かかる情報はインターネット経由で得ることから雑誌そのものの存続が危ぶまれることになってますが、それはまた別の話。本展冒頭の「ごあいさつ」にはこんな一文がありましたなあ。

今日の日本の食文化は、江戸庶民の食が西洋料理と出会い、うまく混ざり合って新しい食文化へと進化し、多様化してきたものです。人々の「おいしい」の変遷に思いをはせていただければ幸いです。

日本の文化受容にはブラックホールのようなところがあって、食文化にも同様のことが言えましょう。それだけに、これから先さらにガラパゴス的進化が起こっていきそうに思いますが、果たしてどんなことになっていきますかね…。

昨日はいい日和に釣られて立川駅界隈をぶらりと。いつも人の多い町ではありますが、この日はこの他「出てるな」感がありまして、加えてお日様が高いうちから昼飲みに繰り出しているような…。気付いてみれば駅南口からほど近く大がかりなイベントが展開していたのでしたか。

 

 

以前からGW時期に開催されているという『立川フラメンコ』。知ってはいましたですが、遭遇するのは初めてでありましたよ。さりながら、何故に立川でフラメンコ?とはやはり首をかしげるところかと。

 

元は立川駅南口に連なるすずらん通り商店街では商店街祭り的なイベント「すずらんフェスティバル」を開催していたそうな。かつてはおそらく(ギャラのさほど高くない)芸能人やら大道芸人やらを呼ぶという、そこらにある商店街祭りと変わりないものだったのではないですかね。

 

そんなありきたりな(?)イベントに変化が兆したのは2002年、地元立川出身のプロ・ダンサーを招いてフラメンコ・ライブを行ったのであると。こういっては何ですが、一般の人たちがフラメンコを直接目にすることはあまりないであろう一方で、フラメンコ教室に通って踊る機会を望んでいるアマチュア・ダンサーたちにとっては「ここぞ!」という舞台が提供されることにもなって、規模が拡大。今では、上のフライヤーにもあるとおり「壮観!500人の舞!」でストリート・パフォーマンスが繰り広げられることになったというのですなあ。

 

 

出くわしたのはまさにそのストリート・パフォーマンスの場面でして、奥に見えるスペイン国旗のところにステージが設けられていて、舞台上ではカンテ(歌う人)とトケ(ギター演奏)とが陣取っておりましたが、バイレ(踊る人)の方は、いやあ、すごいことになってますなあ。

 

 

静止画像では(失礼ながら)盆踊りと区別がつきにくいとは思いますが、展開していたは紛れもなくフラメンコ。想像するに、各地のフラメンコ教室の教師が受講者を引き連れて参加しているのではと思うわけですが、「あ、この人は先生かも。あっちは初心者だあね」と、素人目にも分かりやすいのは手と指先の動きへの気の使い方であろうかと。

 

近隣のライブハウスなどでは屋内でも少し修練を積んだ踊り手のパフォーマンスが見られるようでしたが、そちらは混んでるだろうなと近づかず。それにしても、そもそもの発想は映画『レディ加賀』的なるものと思いますが、浅草のサンバカーニバルには及ばないにもせよ、あちこちにある「阿波踊り」などよりは独自性もあり、踊り手も観客も増えているようですから、一定の成功を収めているとは言えましょうかね。ですが、すずらん通り商店街の「す」の字はどこへやら?という具合なのは、主催者側も痛しかゆしといったところでしょうか。

 

と、かような喧騒に包まれた「立川フラメンコ」の会場から、今度は駅の北口へと向かってみることに。こちらはこちらで続々と、国営昭和記念公園へと向かう人の流れが出来ていて、また大層な人出(昭和の日だっただけに?)。さりながら、その流れから離れたとある商業ビルでひそやかに別のイベントが開催されておりましたよ。

 

 

果たして全国的にどれほど知られている存在なのかは分かりません(失礼!)が、キン・シオタニの個展。作品同様にほのぼのとした空気が漂っておりました。折しも作家在廊中とあって生キンシオに遭遇。TVKの旅番組(?)『キンシオ』で見かける姿そのままに、ファンの方々?と歓談しておりましたよ。

 

本職がイラストであるかはともかく(これまた失礼)、番組では「読めそうで読めない地名の旅」といったニッチな切り口でたまに見てしまうくらいの認識でしたが、翻ってみれば常日頃その作品は目の前にしていたのですなあ。何しろ、個展の会場となっている商業ビルの外壁、入口部分を大きなキンシオ作品が飾っていたのですから。

 

 

ちなみに「FROM CHUBU TO THE WORLD」とありますのは、このビルが「フロム中武」という商業施設だからなのですね。館内には、天井の低い昭和な空間に、占いのブースやら鉱物・化石の専門店やら仏壇屋さんやら結婚相談所やら、独特な店舗が端々に陣取っている。立川には、伊勢丹も髙島屋もあって多摩地域においては新宿感を出している一方、昔ながらのこうした商業施設があるのが地方感を湛えているのが心安いといいますか。それだけに、この中武デパート(後にフロム中武と改称)ともうひとつ、駅のすぐ脇にあった第一デパートが再開発でタワマンになってしまったのは、少々寂しいような気もしたものです。

 

ということで、日和に釣られてぶらりと歩いた立川駅界隈。ややキンシオ的なそぞろ歩きになったかもしれませんですねえ。

ちょいと都心へ出たついでで高島屋史料館TOKYOに立ち寄ってみましたら、『団地と映画 ー世界は団地でできている』なる企画展が開催中でしたので、どれどれと覗いてみた次第でありまして。

 

 

フライヤーに「団地をこよなく愛し、日夜、団地について真剣に探求し続けてきたクリエイターユニット《団地団》を監修として迎え、「団地と映画」をテーマにした展示を開催」とありましたが、団地を愛でるような感覚を持つ人たちがいたのであるか…とは率直なところ。個人的な団地住まい経験からしますと、「しょうがないほどに出ていきたくて」という感覚であったものですから。

 

ただ、こうした感覚は客観的ではありませんが、ユニット「団地団」の主たる構成員の一人が写真家で、いわゆる「工場萌え」の写真集の共著者であることを思えば、団地をひたすらに客観的な目線で愛でるという臨み方はあるのかなと。

 

一方で、やはり主たるユニット構成員である脚本家の方は自ら団地育ちであるも、個人的な感覚に共通するものは無いようですな。これは、少々の年代の違いが団地を取り巻く環境(団地がどう見られてきたかという社会情勢)の違いを写しているところがあるのかもしれません。実際、展示で触れられた団地映画史を見ていきますと、その変遷の一端が窺えるような気もしたものです。

 

そもそも団地以前、東京(を始めとした大都市)では戦後のバラックが復興する傍ら、人口流入が相次いで住宅不足となっていたわけですね。1979年公開の映画『俺たちの交響楽』の頃になってなお、川崎の工場(「こうじょう」というより「こうば」)で働く若者たちは台所も便所も共同、風呂は銭湯へという生活があったりしたわけで、戦後の住宅事情はなおのことでしたでしょう。

 

そんな中、後に大型団地を次々と造成していく日本住宅公団(紆余曲折を経て、現在はUR・都市再生機構)が昭和30年(戦後10年目、1955年)に設立され、住宅供給に着手するわけですが、基本2DKのバス・トイレ付という間取りは、木造アパート住まいであった人たちにとっては「憧れの的」、ともすれば「高嶺の花」とも見えていたと。そのあたり、映画『下町の太陽』(1963年)を見れば、団地を見る当初の視線が分かるようですな。

 

そんな羨望目線のあった時代が過ぎていき、庶民には庶民なりの豊かさが感じられるようになってきますと、むしろ団地には画一的な閉塞感が漂うようになる。これは、周囲からの見られ方以上に団地の内側にいる方からの気分かもしれませんけれど(自ら顧みれば、おそらくはこの時期に該当するのでしょう)。

 

 

本展を見た後、付加的に読んだ『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(2012年刊ですので、展示よりもだいぶ古いものとなりますが)には、掻い摘んでこんなふうに書かれておりましたよ。

社会的に見ても団地は、できた当初は憧れの存在として登場して、次には一軒家を手に入れるまでの仮住まいとして認識され、その内にそこで生まれ育つ世代が登場し、今や住民の高齢化が叫ばれるようになっている。

 

先に触れた閉塞感に加えて上の引用(一軒家を手に入れるまでの仮住まい)から察するに、いつまでも団地に住まっているということは、要するに一軒家を手に入れることができなかったということ、てなふうにもなるわけですな。そして、「今や住民の高齢化が叫ばれるようになっている」となってくれば、もはや出たくても出られない迷宮のようなものとも思えてしまいそうです(個人的感想含みです)。

 

取り分け大型団地、近しいところでは多摩ニュータウンなどもそうですが、若い次世代は他に住まいを構えて出ていき、親世代だけが残る。かつて賑わった団地内商店街はシャッター通りと化し、空いているはデイケア施設だったりする。こういってはなんですが、とても愛でる感には繋がらない場所のような。廃墟萌えなんつう言葉もありますが、完全に廃墟化しているわけではないのが反って辛いといいますか。

 

それでも昨今は、近隣大学が学生寮的に使って老若の交流が図られるようになったりするケースもあるようですね。ただ、だからといって大学を卒業してさらにその団地に住もうと思うような、憧れ感はもはや無いというのが現実ではなかろうかと。

 

といって、団地のこの先を見通してどうすべき?みたいなことを論ずるのが趣旨の展示ではありませんので、映画絡みで「ほお、そうだったんだね…」という余談を『団地団』の本の方から。

(『ウルトラマン』など)特撮ものの団地って「やられメカ」の機能もあるんです。当時、一戸建ての模型を作るのは、技術的にも予算がかかるわりにインパクトが薄かった。…でも、それが団地になると金型がひとつあれば、たくさん作って並べられます。そんな大量生産可能なセットとして重宝されていました。

実際に実在の団地がロケに使われ、格闘シーンはセットでということもあったようでして、破壊しがいのあるセットでもあったのでしょう。何しろ大量生産可能ということで。ちなみに、格闘シーンではなんだか何にも無い野っぱらが出てきたりしますけれど、あれは団地が建つ予定の造成地であったりもするのだとか。

 

現実的に初期の「ウルトラ・シリーズ」が放送されていた1960年代後半あたり、広大な造成地があちこちにあったのでしょうしね。『平成狸合戦ぽんぽこ』は(タイトルにこそ平成とあるも)昭和40年代の多摩ニュータウンの造成が題材で、後から考えればこうでもあったと思うことの一方、『喜劇駅前団地』(1961年)は小田急線沿線、百合丘団地の二期造成に絡んで土地成金が出てきたり、農業どうするみたいな話があったり。それがその当時の状況を見る目だったのでもありましょう。

 

つい最近、23区内の団地の雄(?)である高島平団地では建て替えにあたってタワーマンションの建設が計画が示されて、(大幅に家賃が上がり)元からの住人は住めないだろうと言われたり。何十年か前に追い出されたのは狸でしたが、今度は団地住人がその立場に立たされているのですかね。

 

1950~60年代に始まる団地はその後の半世紀で役割も受け止められ方も変わってきて、その変化は今後も続くのでしょうけれど、いったいどんな変化を遂げていくのでありましょうね。そして、そんなようすを描く団地映画も作られていくのでありましょうか…。

江戸東京たてもの園で開催中の特別展『江戸東京のくらしと食べ物』(会期は6/15まで)は4章立ての構成と言って、「第1章 華開く江戸の食文化」の部分だけで振り返りが長くなってしまいました。

 

ともあれ、続く第2章は「食文化の文明開化」でして、他のさまざまな物事同様、食の世界にも西洋が流入してくるわけですね。明治政府の欧化政策は時に極端だったりしますけれど、こんなことまで行われたとは。

…西洋諸国との外交を円滑に進めるために、1873年(明治6)に政府はフランス料理を公式の料理として採用し、そして国民の体位の向上を図る目的もあいまって、長い歴史の中で忌避されていた肉食を推奨しました。

後に「和食」がユネスコ無形文化遺産となるなどとは、明治政府ではゆめゆめ考えることもなく、フランス料理を公式料理にしていたとは、これは知りませなんだ。もっとも、広くあまねく一般家庭までフランス料理の導入を推し進めたわけではなかったでしょうし、庶民向けには肉食を勧めたてなところなのでしょうけれど。

 

ですが、「長い歴史の中で忌避されていた肉食」とはいえ、動物の肉を全く食してこなかったわけではないこともよく知られておるわけで。下の絵は、安政年間に二代目広重が描いた景色(今なら銀座一丁目辺りになると)ですけれど、大きく「山くじら」の看板を掲げた店が見えますし。

 

江戸時代、肉食は忌避される傾向にあったが、まったく食べられなかったわけではなかった。鳥や猪、鹿などの肉が「薬食い」と称して食されていた。文化・文政年間(1804~30年)以降は、猪鍋を出す「ももんじ屋」が出現し、天保年間(1830~44年)頃には獣の肉を食べさせる店もかなり増えた。当時の人々は、鹿を「もみじ」、猪を「山くじら」や「牡丹」などと言い換えるなどして、肉食が行われていた。

とはいえ、日米和親条約に基づいて安政三年(1856年)、駐日領事のタウンゼント・ハリスが下田にやってきた頃には牛を食するところまでは(一部の産地を覗いて)行っていなかったようですな。ハリスにとっては普通の食生活どおり、「牛肉が食べたい、牛乳が飲みたい」と訴えたことから、下田の玉泉寺には「日本最初の屠殺場の跡」というのがあったりするわけで。

 

ですので、ここでの肉食の広まりはおよそ牛肉のことでもありましょう。国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』で知られるように牛鍋屋が繁盛する一方、家庭料理としても肉を使ったレシピ本が出たりするようになるのですな。

 

 

この『西洋料理通』という本は、在留英国人の資料をともに仮名垣魯文が著して、明治5年(1872年)に発表されたそうですけれど、左側ページにはミートパイの作り方が見えておりますね。ちなみに右側の方はいわゆるカレーライスの作り方でして、「十ミニュートの間程緩火を以て…煮る」てな和洋折衷の表現は

明治っぽいですなあ(単に、十分煮込むといえばいいものを…)。

 

そもそもは西洋料理として入って来たものが、そんなこんなの過程を経て広まる中では、本格的な西洋料理とは別に、あたかも擬洋風建築が建てられたように日本独自の受容として「洋食」なるものも誕生してくると。で、明治後期から大正にかけて、」そうした料理のレシピ本もまた広く出回ることになったようおですな。

 

 

当然に西洋料理と洋食、もはや混然一体となって?提供するお店も増えてくることになりますね。解説の中には、今ではすっかり老舗感に溢れた店名が並んでおりますよ。

 

 

ところで、今に及ぶも「洋食」らしい味付けとして想起する調味料が日本で作られるようになったのであると。それが「ケチャップ」と「ソース」ということで。本来はケチャップにもソースにもいろいろなものがあるところながら、入ってきた経緯からして日本では、ケチャップと言えば「トマトケチャップ」と思ってしまいますな。ソースにしても、「ソース」と決め打ち名前のソースは無いものの、日本では容易に「ソース」なるものが浮かんでしまうという。それが反って洋食を洋食たらしめているのでもあろうかと。

 

 

余談ながら、明治末から大正年間には化学調味料『味の素』やマヨネーズが製造販売されるようになったということで、日本における食文化は和洋折衷を消化して独自発展を遂げ続けてきていたわけですが、やがて日本の食事情は極めて貧しい状態に陥ってしまいますですね。展示の第3章は「戦中戦後の食事情」となりますが、それはまたこの次に終章の第4章と併せて振り返ることにいたしましょう。