坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷(えみし)討伐に当たり、陸奥国国府多賀城、さらにその先の地まで出張っていっていた延暦二十年(801年)頃、駿河国ではこれと全く別の大事件が起こっていたようで。曰く、富士山の延暦大噴火であると。
半世紀余りのちの貞観の大噴火(864~866年)では富士北麓を大量の溶岩流が流れ下り、現在では青木ヶ原樹海として知られる溶岩台地を作り出すとともに、大きな湖であった剗の海(せのうみ)が埋め尽くされ、わずかな残骸として西湖、精進湖が残された…てなことは、これまでに知るところとなっておりましたが、延暦の大噴火の方は知りませなんだ。
この時はもっぱら東や東南の方向に多大なる影響を及ぼしたようでありまして、当時の官道・東海道は箱根越えのルートで無しに、現在のJR御殿場線に近い足柄峠越えの道筋で相模国へ向かっていたところが、噴火によって使えなくなってしまったそうな。
また、足柄峠手前の横走駅(現在の御殿場市でしょうか、駅は後の宿場のようなですかね)は相模国へ抜けるばかりでなく、北へ甲斐国に繋がる道との分岐点だったことから、大いに賑わいのあるところだったものが厚い火山灰に埋め尽くされて、横走の手前、南側に位置する長倉駅(現在の長泉町かも)では黄瀬川沿いに流れ下った溶岩流に飲み込まれてしまったとは、確かに大噴火であったのですなあ。
延暦大噴火より遥か昔、1万年ほど前の大噴火ではやはり流れ出た溶岩が現在の三島市にも到達していて、その名残りは三島駅前にある楽寿園の園内でも見ることができますので、荒ぶる富士の御山に思いを馳せるよすがにもなっておりますな。
噴火と言う点では、宝永大噴火(1707年)以来静まっていると思しき富士山。死火山に分類されていない以上は、この後ももしかして荒ぶる姿を露わにすることがあるのかもしれませんが、それがいつとは知れるわけでして…。
と、実に前置きが長くなりましたですが、延暦の大噴火を目の当たりにした横走駅と岡野牧の人たちを描いた澤田瞳子の小説『赫夜(かぐよ)』を読み終えたところだものですから。
冒頭で触れた蝦夷征討と富士山の大噴火はそれぞれ別の地域の出来事であって、相互に関わりがあるように思えないところながら、富士山南東麓にあったという岡野牧という官牧を舞台とすることで、軍馬供給の点で両者の結びつきが生み出されるあたり、プロットづくりの巧さが見られるものと思った次第でありますよ。
これを、版元・光文社のHPに曰く「歴史パニック長編」と言ってしまうのは妙に安っぽい話にしてしまうようで、なんだか残念な気がしたものです。富士の御山が決して静まりきったわけではないとすれば、その点でも(昔々に建てられた遭難碑から教訓を得るように)読む価値ありと思いましたですよ。