宮城県立東北歴史博物館を訪ねて「多賀城1300年」の特別展を見てきたというお話の続き。くどいですが、同展の会期は2024年12月15日で終了してますので、為念。
展示の続きは、多賀城と蝦夷(えみし)の関わりの部分へと入ります。元々、中央では東北方面に支配を広げて、その最前線に多賀城が置かれたわけですが、「ここでは、8世紀後半におこなわれた多賀城の大改修と律令国家による積極的な支配領域の拡大政策、及びそれによって引き起こされたエミシとの軋轢の劇化について紹介する」という展示を振り返ってみようかと。
神亀元年(724年)創建の多賀城は8世紀後半に大改修が行われたとありますが、これは中央政治では藤原仲麻呂の時代でして、仲麻呂によって陸奥出羽按察使に任じられた息子の朝獦(あさかり)が天平宝字
六年(762年)に行った改修であると。多賀城の歴史の中では最も壮麗な姿を誇ったようでありますよ。
さりながら、ご存じのように藤原仲麻呂は孝謙上皇・道鏡との政争の挙句、反乱を起こして敗れ、息子の朝獦もこの時に亡くなってしまいます。中央の政治が穏やかならざるとあれば、辺境支配など覚束ないところでもあろうかと思うところです。
が、それでも東北地方支配強化の手立てとして、多賀城より北方に朝獦が造った桃生城(ものうじょう、現・石巻市)のさらに北、現在の宮城県栗原市に伊治城(これはりじょう)を造るのですなあ。こうしたことが蝦夷を刺激しないわけがないといいますか。
宝亀五年(774年)に沿海地方で蜂起した蝦夷が桃生城を焼き討ちにしたところから「三十八年戦争」とも呼ばれる抗争の時代に入り、戦乱は「現在の宮城県北部から岩手県中央部に広が」ったということで。
(宝亀十一年)780年には栗原郡に拠点を置く伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)が伊治城にて按察使を殺害し、その後、いっせい蜂起したエミシ勢は多賀城に攻め寄せ、政庁をはじめ主要な建物を焼き払った。国府多賀城の焼失は律令国家に大きな衝撃を与え、大規模な征夷の軍勢を陸奥国に派遣することとなった。
これは拮抗するある段階での最前線が赤色破線で示されていますが、地図中の13とある点が桃生城、14が伊治城の位置になります。いずれにしても押しつ押されつ、38年にわたる長い戦いがあったのですなあ(もちろん、ずーっと戦闘が続いたわけではないでしょうけれど)。その中で、「大規模な征夷の軍勢を陸奥国に派遣することとなった」と来れば、どうしたって「あの人」を思い浮かべるのではなかろうかと。そうそう、坂上田村麻呂でありますよ。
桓武天皇と嵯峨天皇の厚い信任を受け、坂上田村麻呂は791年の征東副使任命以降、陸奥国との関係が深まっていった。796年には陸奥出羽按察使と陸奥守を兼任し、翌年には征夷大将軍にも任命されるなど、文武両面で平安京の初期政治に貢献した。
軍を率いた田村麻呂は、数回にわたって激しい戦いを繰り広げ、エミシの抵抗は次第に沈静化していった。そして802年に胆沢城を築いて、軍事拠点である鎮守府を多賀城から移し(同年有力エミシの阿弖流為を服属させた)、続く803年には志波城を築いた。
こうしたことがあって、三十八年戦争の最終局面は弘仁二年閏十二月(812年1月)、時の征夷将軍・文室綿麻呂(文字表記は異なるも、歌人として知られる文屋康秀とは同族であると)が「陸奥北部のエミシとの戦いをおさめる」ことで戦闘終結に至ったそうな。その後は融和的な政策がとられていったのであると。
ということで、もっぱら蝦夷との関わりを辿ってみたわけですが、多賀城の機能に焦点を当てた展示構成となりますと、自ずと律令国家・中央政府の動向との関係を示す方が主眼になりましょうか。それだけに、個人的な期待とは少々のずれを感じたのは残念なところではありましたなあ。ともあれ東北の歴史のその後は常設展示の範疇になってくるわけで。
当然に奥州藤原氏の栄華が語られたりもするところですけれど、そのあたりはまた別の旅の機会に譲るといたしましょうかね。
ただ、奥州藤原氏は平泉の中尊寺に見るように黄金文化で知られておりますな。奥州の金は、10世紀初頭の『延喜式』編纂段階でも「陸奥国の交易品として、金、昆布、アザラシ(海獣)やヒグマの毛皮、ワシの羽、馬などが挙げられ」ておりまして、それよりさらに以前の東大寺大仏造立時、「大仏を荘厳にするために欠かせない金が国内では初めて陸奥国で発見された」ことで無事に完成を見たのだとも。
そんなことに触れますと、弱みに付け込んで余所の国の天然資源を寄こせと恫喝しているどこかの大統領と同じような発想で、東北に触手を伸ばしたのでもあるかと思ったりするのでありました。