先日の近隣サイクリングでは立ち寄りスポットが三つあって…と申しましたが、ようやっと三つめのお話でありますよ(すでに3週間ほど前のことになってしまってますが…)。東京・小金井市の戸東京たてもの園、そして小平市のガスミュージアムに続きまして、最後に立ち寄ったのはムサビ、武蔵野美術大学でありました。

 

大学構内にある美術館にはちょくちょくお邪魔をしており(何せ入場無料でして)ますが、あいにくと「空調改修工事実施のため2025年6月まで休館中」ということでしたので、この日に覗いたのは美術館の建物とは別棟の民俗資料室の方でして。

 

 

こちらの2階に小さなギャラリースペースがありまして、『民具のミカタ博覧会―見つけて、みつめて、知恵の素』という展示が開催中…であるように見えますですよね、フライヤーを見ても。

 

 

さりながらその実、『民具のミカタ博覧会―見つけて、みつめて、知恵の素』という特別展は大阪・(昔の)万博記念公園にある国立民族学博物館で開催されているもの、ではムサビの方は?といえば、サテライト展示という位置付けだったのですなあ(会期はいずれも6/3まで)。

 

 

小さなスペースと申したとおりですので、ここを入口として大阪でじっくり見てね!と(ムサビ生諸君に対して)いうことなのでしょうか、限られたスペースに数々の民具が並ぶに際して、いくつかの視点が提示されておりましたよ。ひとつには「像を彫り出す想像力」と。

「像を彫り出す想像力」
自然の木材に対する理解と、像を彫り出す想像力、そしてイメージを造形にする手仕事。…山形県のお鷹ぽっぽは、コシアブラの白くきめ細かい幹を生かし、鷹の羽毛や毛艶を表現している。

 

この制作過程を見るにつけ、作り手はいわゆる彫刻家ではなくして職人さんなのでしょうけれど、彫る前から木材の中に像が見えているであろう熟練の技は、アートと工芸の垣根を掃うところがありましょうねえ。もうひとつは「反復・成長していく図像」であると。

「反復・成長していく図像」
タパの名で知られる南太平洋で使われた樹皮布は、規則的な図形を反復させて広げていくデザインに特色があり、敷物や寝具、冠婚葬祭や儀礼の交換品として用いられてきた。…

 

展示されていたこのタパ・クロスはパプアニューギニアのもので、おそらくは何かしら自然物に由来するデザインの発想源があろうと思うところながら、ただそのままに美術館に置かれてあったなら現代アートと見てしまうかもしれませんですねえ。さらにもうひとつには「人ならぬ者への想像力」と。

「人ならぬ者への想像力」
仮面や神像は、目に見えない想像上の存在と交信・交歓するための媒介となる。パプアニューギニアの仮面や土器、儀礼用器物には、祖先や精霊の姿が具現化されている。

 

 

いやはや、想像力が大空高く飛翔しているなあと思ってしまいますなあ。あんまり余計なことに煩わされずに自然とあるままに思い浮かぶところを形に託したようではありませんか。

 

と、そんなことごとを入口にして「みんぱく」(国立民族学博物館)に出向いたならば、さぞかし多様な展示が見られるのでしょうけれど、大阪・吹田市まで自転車でサイクリングとも行かず…(笑)。

 

ところで、ムサビ民俗資料館を何度か訪ねたことがあるも、今回初めて入り込んだのが収蔵庫、いわゆるバックヤードでありますよ。「人間のあらゆる行動の目的に沿って分類する」という手法でもって数多の民具を収めた収蔵庫の入口はこちらです。

 

 

「本当の“知”は、裏にかくされている」ようこそ奥深いウラの世界へ!

…とでも言いたくなるところでして、内部では写真は可であるも「SNS等への投稿はご遠慮ください」と注意書きがありますので、写真はここまで。

 

たくさんの棚に、「こんなものもあんなものも収蔵品であるか?」と思う品々が山ほど収められておりましたですよ。それらを組み合わせて、なんらかのテーマの下に展示を仕立てる方々(学芸員?)にもまた、豊かな発想力、想像力が必要であろうなあと思ったものなのでありました。

先に『人類の深奥に秘められた記憶』を読んだことを書いた折には、作者の故郷であるセネガルはもとより、アフリカの混沌とした情勢もが描かれていた点には触れておりませなんだ。

 

主人公たるセネガル出身の作家に作者本人が(部分的にも?)投影されていたでしょうし、パリで主人公を取り巻く人物たちの中には国情不安の続くコンゴ(民主共和国)出身者もいたりして、フランスに暮らすアフリカの人々がある種同胞意識を共有している印象もあったような。互いに不穏な故国のようすを憂うあたりでも同胞感につながるのかもしれませんし、肌の色からくる近さというのもないではないような。

 

ともあれ、ひとくちにアフリカといっても、十把一絡げにすることは当然にできない多様性を持っているはずでして、かつて植民地支配を脱する際には「良いもの」に見えた民族自決という旗印が、細かく細かく民族が分かれる中ではどうも「良いもの」とばかりも言えなくなってしまっている。そんなことが、各地で起こっている根本にもあろうかと思うところです。映画『ホテル・ルワンダ』にも描かれたような…。

 

国の名前の記憶も、アフリカ大陸のどこらへんいにあるのかも、そしてその国のようすがどんなであるかもまた、日本人にとっては覚束ないことの多いアフリカの国々の多くが、あちらこちらで国情不安を抱えた混沌とした状況にあるというのは、それぞれ事情は異なるにせよ、「うむむ…」となってしまいますなあ。

 

そんな思い巡らしの中、たまたまドキュメンタリー映画『チーム・ジンバブエのソムリエたち』を見ていて、ジンバブエもまた…と思うことになりましたですよ。

 

 

フライヤーにある文言を見ても、そして公式サイトに「ワイン版『クール・ランニング』」とあるのを見ても、完全にコメディ映画(実話ベースとはいえ)で作られた『クール・ランニング』の類似作(つまりはコメディ)と思わせてしまうあたり、ミスリードなんではないですかねえ。

 

さらりと「南アフリカに逃れた難民4人が…」と記されてはいますけれど、彼らにとってはこのことこそ一大事でありましょう。ジンバブエ本国ではどうにもこうにも生活の立ちいかなくなった彼らが、南アのレストランで得た仕事からワイン・テイスティングに魅了され、本場フランスの大会へという流れの中ではドタバタめいたこともあるにせよ、ジンバブエの看板を背負って出かけている彼らは、何かしらであったも自国が活気づいて、いい方に事が進んでいく未来を見ているわけであって。

 

とはいえ、ひたすら深刻になって見るのもまた当たっておらないのでありましょう。たまたまワインのテイスティングであったものの、為せば成るといいましょうか、努力は報われるといいましょうか、そんな前向きなメッセージとも受け止めたいところかと。世の中は成功事例の何十倍も失敗事例が転がっているのが現実にもせよ、かかる事例もあるということで。とりわけジンバブエの人たちは、彼らの躍進に希望を見たりもしたでしょうしね。

と、東京・小平市のガスミュージアムに立ち寄って、すっかり渋沢栄一の話になってしまいましたですが、実のところ、何度か出向いている施設だけにお目当てとしていたのは企画展の方だったのでして。ガス灯館2階のギャラリー、こちらの階段を上った先が会場でありました。

 

 

6月22日までを会期として開催中であったのは「気象業務150周年記念 自然現象が教える持続可能な未来への道『天気を映す明治の東京』」でありました。ガスミュージアムは東京ガスの企業博物館であって、日本のガス導入の歴史と今、そして未来の展望を扱っているのが主であるも、ガス導入黎明期の象徴がガス灯であって、明治期にはその珍しさから多くの明治錦絵に描かれている、とまあ、そんな関連でしょう、同館には明治期の錦絵コレクションがおよそ400点あるそうな。それをテーマ設定の下に企画展示しておるというわけで。

 

 

ですが、今回のテーマ設定の背景にあるのは「気象業務150周年記念」と。いったいガスと気象業務がどう絡むのかは詳らかでないものの、要するに各種周年行事にあやかる(直接の関係はないけれど)イベントの一環となりましょうかね。

 

とはいえ、何かにつけて歴史にまつわるあれこれは興味をそそるところでもありますので、錦絵の展示以前に解説パネルの並んだ気象業務の歴史の方も、ついつい見入ってしまったり。150年前、そもそもの始まりはこういうことであったようで。

明治5年(1872)に函館へ気候測量所(現在の函館地方気象台)が設置されてから3年後、明治8年(1875)6月1日に、現在の港区虎ノ門の地で東京気象台(後の中央気象台、現在の気象庁)が気象観測を開始し、日本の気象業務が始まりました。

その後、全国各地で気象観測が行われるようになり、全国天気図が作られたのが明治16年だといいますから、観測施設の整備には時間がかかったのですな。天気図が作られだすと翌年には「毎日3回の全国の天気予報の発表が始ま」るも、「最初の天気予報は…日本全国の予報をたった一つの文で表現してい」たそうな。曰く、こんな具合に。

「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ」

個人的には何かと物事、昔を懐かしがったりする傾向無きにしも非ずですけれど、こと天気予報に関しては、明治期のこの予報では何にも分らんなあと、天気予報の精度向上(それでもやっぱり外れることはありますが)にはずいぶんと恩恵に預かっているものだと思いましたですよ。

 

で、錦絵を見に来て、気象業務の歴史の話ばかりではなんですので、「ガス燈のあかりが「月」「雪」「雨」などの美しい自然現象とともに表現された錦絵を紹介」するコーナーへ。ガス灯がらみですので、展示作の中心は「光線画」で知られる小林清親とその弟子、井上安治でしたな。

 

「光線画」の技の冴えは夜景にあると思うも、必ずしも夜景を描いた作品でなくとも、描きようの工夫のほどが窺えるものもあったり。雨の情景を描いた小林清親『梅若神社』などはその最たる一枚ではなかろうかと。

 

ちなみに、気象状況を描き出すという点で、以前読んだ中公新書ラクレの一冊、『天気でよみとく名画 フェルメールのち浮世絵、ときどきマンガ』を思い出したりも。

 

 

気象予報士の著者が描かれた天気でもって名画を読み解くという内容で、それなりに「ほお」とか「ふ~ん」と思って読みましたですが、画家の技の冴えは観天望気を可能するのであるかと関心する一方で、あんまりはっきり気象解説されてしまうと、絵画を見る興が殺がれるようなきも個人的には。全く逆に絵画に接する材料として大いに役立つと見る向きもありましょうけれどね。と、余談でした。

先月にEテレ『100分de名著』で村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』が取り上げられたのを見ていたせいでもありましょうか、唐突に人がいなくなる…という点だけ取っても「もしかして影響を受けている?」と思ってしまった小説をようやっと読み終えたのでありますよ。セネガル出身の作家モアメド・ムブガル・サールの『人類の深奥に秘められた記憶』という一冊です。

 

 

著者同様にセネガル出身でパリ在住の若手作家ジェガーヌが、遥か昔の 1938年にセンセーショナルなデビューを飾るも毀誉褒貶の挙句に失踪してしまった(やはり)同郷の作家T・C・エリマンの後を追っていくというお話なんですが、実にスケールの大きな(といって単に壮大というでなく、重層的なという意味で)作品でしたなあ。

 

でもって、久しぶりに小説らしい小説を読んだ気にもなりました。このところは比較的読みやすいものばかり読んでいて、ま、読みにくいのが「小説らしい小説」だと思っているわけではないものの、ストーリーの面白さだけに寄りかからない、叙述上の創意工夫とでも言いましょうかね。

 

そのあたりが読み手を戸惑わせはするところながらも、破綻寸前の均衡を保っているとでもいいますか。巻末に付された訳者による解説の中では、こんなふうに記されてもいて。

…作品自体はジェガーヌの言葉よりも、さまざまな他人の言葉を紡ぎ合わせることで成り立っている。…一人の語りのうちに別の人間の語りが混じり、ナレーションが複数化して、分岐しながらつながっていくのも本書の特徴だ。だれが語っているのか不分明になる瞬間もあるが、その宙吊り感覚がいっそう話の興趣を増している。

「ああ、文学だなあ」と思ったりもしたものでありますよ。だからこそのゴンクール賞(フランスの芥川賞?対象は必ずしも新人ではないでしょうけれど、本書の著者は同賞史上二番目の若さだったとか)受賞作なのかもですが、ただこの賞は前提として「フランス語で書かれた作品」が対象であると。

 

作者の出身地セネガルは、パリダカ・ラリーのゴールになるダカールを首都として西アフリカに位置していますけれど、長らくフランスの植民地であったわけですが、独立後もフランス語を公用語としているそうですので、セネガルの人がフランス語で小説を書いても不思議でないとは言えるのでしょう。

 

そうではあっても、やはりセネガルの人たちは地域地域の言語があるそうな。それだけに、フランス語を自由に操れる、さらにはフランス語でもって「文学」を生み出すとなってきますと、これまたやはり『100分de名著』でしばらく前にたフランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』を思い出してしまったりも。ファノンはカリブ海のマルティニーク(今でもフランスの海外県)の出身で、アフリカではないものの。

 

ファノンとの直接的な関わりを指摘するではないながら、やはり本書解説にはこうした一文がありましたですよ。

…フランス語による教育を授けられて、社会的上昇を目指せば目指すほど、彼らは白人への同化を余儀なくされるばかりか、それを自ら進んで求めるようになる。いわば呪縛のメカニズムによって、「自分たちの文化を支配し虐待した文化」を崇め、「自分たちを破壊するものになりたいという欲望」に取りつかれるのだ。

ただ、こうしたところを(他人事ではありながらも)危ぶむ気持ちというのは時代を経て、も少し大らかに見ることもできるのか、本書の若い作者(1990年生まれ)は「自分にとっての母語はセレール語(セネガルで使われる言語のひとつ)であって、フランス語はあくまで第二言語だか、…今後はひょっとするとセネガルの言葉で書くことだってありうると述べている」のであるようですし。

 

作家が複数言語に通じていて、どの言葉を使うかにはいろんな意味合いがありましょう。出自の意識を強く持って、そこに根差した言語と使うにしても、果たしてそれでどれほどの読者が得られるのか。北欧圏などの作家が敢えて?英語で著作を発表するケースはままあるわけで、それも単に「売らんかな」と思ってはきっと誤りになりましょうから。結果として売り上げが伴うにもせよ、作品の送り手としてはより多くの人たちに自らの作品にアクセスしてもらいたいと思っているわけで。その点、日本の作家の場合には、それなりの日本語人口がいることであまり考えなくていい領域かもですが。

 

と、日本の作家に話が至ったところで、冒頭に触れた村上春樹との関わりありや無しやですけれど、思い返せば本書の主人公ジェガーヌが友人と「作家になったきっかけは?」てなことを話しているとき、こんなことを言っていたのでありますよ。

…(作家としての)誕生をめぐるすごいエピソードなんかぼくにはない。たとえばハルキ・ムラカミみたいなね。…(野球の試合を見に行って)ボールが、純粋なハーモニーを奏でるように宙を飛んでいった。その完璧な軌跡を見て、ムラカミは自分がなすべきこと、なるべきものを悟った。つまり、偉大な作家だ。

少なくとも作者は村上春樹に関心がありそうですよね。で、作家が作家に関心を持つとして、その作品を全く抜きにしてということは考えにくい。村上の小説で、ふいと登場人物が消えてしまう、失踪してしまうのは何も『ねじまき鳥クロニクル』ばかりではないですし、それに本書の作者もきっと触れていたろうと。

 

解説にはそうしたほのめかしは無いですが、本書で失踪する作家のモデルはいる(失踪したわけではなく、故郷のスーダンに戻った)と紹介されますと、そのモデルを敢えて失踪に持っていったのは村上の影響なのでは?とも。作中には「井戸」にまつわるエピソードもちらり挿入されるにつけ、なおのこと思いは深まったりしたものです。ま、個人の見解ですけれどね。

 

おっと、本書の眼目(のひとつ?)たる「なぜ人間は、作家は「書く」のか」という点ですけれど、これは本書を実際に読むときのお楽しみにしていただければ幸いかと…(笑)。

さてはて、予定の期日よりも一日早くしれっと再登場いたしましたけれど、皆さまはGWをいかがお過ごしでしたでしょうか。当方は野暮用にうつつを抜かしておりましたが、それはそれとして、例によりしばしのお休みがまるでなかったかのようにお話は続いてまいります(笑)。

 


 

先日の近隣サイクリングでは立ち寄りスポットが3カ所で…と申しましたが、江戸東京たてもの園の話ばかりが長引いてしまいましたなあ。ようやっと二つめに移りまして、江戸東京たてもの園からは新小金井街道をひたすら北上、小平市のガスミュージアムへとたどり着いた次第です。

 

 

 

何度か訪ねたことのある博物館ですけれど、「明治42年(1909)に文京区本郷に建てられた東京ガスの出張所の建物」(ガス灯館)と「明治45年(1912)に荒川区の千住に建てられた東京ガス千住工場の建物」(くらし館)とを移設復元した2棟の赤煉瓦建物は、なかなかに雰囲気あるなあと。

 

ただ、常設展示の方は変わりないのだろうと高をくくっておりましたところ、黎明期のガス事業と関わり深い渋沢栄一が新しい一万円札の顔になったりするのを機会と、リニューアルしたようで。すっかり渋沢栄一推しの展開になっておりましたよ。

 

 

ガス灯館の中、右手には若き日の渋沢栄一の等身大パネルが置かれてありましたけれど、150cmそこそこであったということですので、至って小柄。将軍慶喜の弟・徳川昭武に随行して出向いたパリ万博では、さぞかし上を見上げてばかりおったのではなかろうかと。かように見上げたもののひとつに、コンコルド広場でパリの夜を明るく照らすガス灯があったということで。

 

渋沢とガス事業とのその後の関わりは、別棟「くらし館」にある「渋沢栄一ギャラリー」というコーナー展示に詳しく紹介されておりましたですよ。

 

 

日本におけるガス事業は横浜を嚆矢として、次いで東京へ。東京では当初、渋沢も関係する東京会議所なる組織(江戸時代の江戸町会所の後身だそうな)が手掛けますが、1874年の事業開始以来どうにも需要者が増えず経営に苦しんだ末、2年後に事業は東京府瓦斯局に移管されることに。渋沢は瓦斯局長となります。

 

1885年には民間払い下げとなったガス事業経営のため、東京瓦斯会社が設立され、これまた渋沢が初代社長(当時の呼称は会長と)に就任するのですな。設立当初のガス契約者は「わずか343戸」だったそうですが、「1910年(明治43)には約12万6,000戸にまで増え」たのだとは、今さら言うまでもないことながら、渋沢の才覚は大したものだったのでありましょうねえ。

 

ちなみに以前ガスミュージアムに来て気付かされたことですが、元々ガスの利用法は「ガス灯」にあったわけで、もっぱら明かりを灯すためのものであったというのですな。それだけに、1887年に東京で電燈事業が始まりますと、しばらくはガス灯優位の状況は続いたものの、やがて明かりを灯すという点では電気に取って代わられることに。

 

ですが、早くも1896年段階で渋沢は欧米のガス事情調査として技師を派遣、その報告から「今後のガス需要は『熱源利用』が主流になる」と考えるに至り、一般家庭の炊事用としてガスを普及させる方向へ向かっていくと。さらには暖房器具、内風呂の普及にもまた。

 

 

ということで、くらし館には東京ガスが手掛けてきた熱源利用としての製品と変遷が、さまざまに展示されておりますですよ。ですが、気候温暖化の叫ばれる昨今、「ガスって要するに燃焼する熱源だから、CO2がたくさん出て…」とも。ま、ガスミュージアムは東京ガスの企業ミュージアムですので、そのあたりへの取り組みを紹介することも抜かりないようですな。

 

 

文系人間には小難しいことは分かりませんですが、「CO2から都市ガスをつくる」というのが取り組みの一つであるようで。そんな永久機関みたいな(?)ことができるのと思ってしまいますけれど、説明にはこんなふうに。

  1. 工場などから出たCO2を回収、同時に再生可能エネルギー由来の電気で水素をつくる
  2. CO2と水素を合成してメタンを作る(e-メタン)
  3. 都市ガスとして供給

「e-メタン」は「これまでの都市ガスと同じように使うことができ」、「既存のガス導管などの都市ガス供給設備やご家庭のガス機器もそのまま使用できる」のに、「CO2実質ゼロ」でもあると。「ほおほお!」と思うも、へそ曲がりな性質としては「きっとどこかに落とし穴が…」なんつうことを思ったり。

 

ま、渋沢栄一由来の企業としては、渋沢語録にある「できるだけ多くの人に、できるだけ多くの幸福を与えるように行動するのが、我々の義務である」と言う言葉を信奉しているだろうと思っておきましょうかね。くれぐれも「できるだけ多く」の範囲の考え方を誤らないようにしてもらいものですが…。