GW中に近しいところで風邪ひきが生じたのですが、「まあ、自分としては先月にひいたばかりだし…」と些か油断しておりましたところ、巡り巡って結局は「またかよ」という事態に。つくづく抵抗力やら免疫力やらが落ちておるなあと思わずにはおれないような。

 

とそんな折、先日に放送された『NHKスペシャル 人体III 第2集 細胞40兆 限りあるから命は輝く』のことを思い出したりしておりますよ。「第1集」を見たときに、細胞の中にある物質、物質はそれそのものでは動くことがないわけですが、かざぐるまに風が当たると(かざぐるまは物質ながら)動きが生ずるのにも似て、細胞内物質にも動きが生じてさまざまな人体の動き・反応を引き起こしていることを知ったわけですね。で、「第2集」では細胞内物質の動きを促すものがミトコンドリアであって、これが放出するエネルギー?こそ動きの素であると。ミトコンドリアという言葉だけは聞いたことありましたけどね…。

 

では、ミトコンドリアそのものの元気の源は?となりますと、これが酸素を摂取して二酸化炭素を排出することにあるそうな。ヒトは当たり前のように酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すと思ってましたが、毛局のところミトコンドリアの求め?に応じていただけのことであったかと。

 

そんなところから想像するに、「有酸素運動が大事」てなふうに言われるのは直接的に人体以前に、ミトコンドリアが元気でいるための必要性であったのかもしれんなあと思ったものです。ですので、これを疎かにしまうと、ミトコンドリアくんが意気消沈し、結果として人体にもさまざまな不具合となって顕在化するであるのかもしれんとも。

 

ということで、要するに運動不足が身体不調にもつながることに改めて思いを馳せるにつけ、これだけ抵抗力やら免疫力やらが落ちておるのは、結局のところはそのあたりに帰することであったか…と、思い至ったりしたところで、些かしんどくなってきましたので、2~3日(たぶん)休養致したく存じます。ではまた数日のうちにお目にかかりたく。ではでは。

ミューザ川崎のランチタイムコンサートに出かけますと、毎度のように立ち寄ってしまうのが川崎浮世絵ギャラリーでして、この度もまた。なにせ、ランチタイムコンサートが500円、ギャラリーの入場料も500円、併せても北里柴三郎一枚で音楽も美術も楽しめるというのは、川崎に出向くきっかけにもなっておりますよ。

 

 

ともあれ、今回の展示は『浮世絵スター誕生―歌麿に蔦屋重三郎、英泉・国貞まで―』となっておりますが、前期展と後期展とで展示替えする前提ですので「江戸時代後期の人気絵師・溪斎英泉や歌川国貞が頭角を現すようになった文化・文政期(1804~30)の作品」は後期譲りということのようで。前期展の方では、浮世絵の草創から黄金期を扱っておりましたよ。

17世紀末、モノクロ印刷からはじまった浮世絵版画は、18世紀半ばに至ってフルカラー印刷である「錦絵」となります。その錦絵誕生から約20年後の天明・寛政期(1781~1801)、喜多川歌麿や東洲斎写楽、彼らのライバルとなった鳥居清長や鳥文斎栄之といったスター絵師が次々と誕生し、浮世絵界はこれまでにないほどの活況を呈して「浮世絵の黄金期」を迎えました。

最初は墨一色によるモノクロの「墨摺絵」に始まるも、やはり誰しも色が欲しいと思うところでしょう、やがて「紅絵」といった手彩色を施したものが出回るようになる。ちなみに「紅絵」で絵に差す紅色は(山形の?)紅花由来であったようですね。

 

ただこの「紅絵」、絵師の側が色を付けたいと思ったかもしれないものの、むしろ版元の和泉屋権四郎の発案であったとも伝わるそうな。手彩色という手間をかけた分の手間賃を払うかどうかは、版元にかかっているわけで、絵師の一存でできるものでもなかったでしょうから、なるほどと。

 

で、ここで本展に言う「浮世絵スター」ですけれど、すぐさま人気絵師のことを思い浮かべてしまうものの、版元の方にもスター版元と言えるような人たちがいたことにも触れておりましたな。昨今、知名度急上昇の蔦重、蔦屋重三郎はその一人というわけで。

 

例えば、蔦重と並び称される存在であったというのが鶴屋喜右衛門(鶴喜)、歌川派の役者絵を後々まで出し続けた和泉屋市兵衛(泉市、上で触れた和泉屋権四郎で関わりあるのかどうかは寡聞にして知らず)、さらに何かと蔦重に対抗意識を燃やしていた西村屋与八とか。

 

蔦重は喜多川歌麿を起用して美人大首絵を売り出しますが、一方の西村屋では鳥文斎栄之に全身座像の美人画で挑みかかるてな具合。おそらく庶民的には、後の昭和のひとときにアイドルのブロマイドが人気を博したようにクローズアップの魅力が受け入れられたのでしょうけれど、全身座像の美人画の方は飾っておいても品良く見えたことで、武家や金持ちに人気を得ていたようでもありますよ。

 

ところで、鳥文斎栄之は柱絵というジャンルでも名品を残しているようですが、「掛け軸状に簡易に表装してから柱に飾って楽しむ浮世絵」というこの柱絵、今回展で初めて見かけたものであるような。展示作品は(栄之作品でなくして)鳥居清長のものでしたけれど、極めて細い縦長の画面をどいう活かして絵を成立させるか、絵師の工夫を思うところでありましたよ。

 

ちなみに浮世絵スターという点では、描く絵師、出す版元にそれぞれスターの存在があったわけですが、描かれる側というところでも、まさに「スター誕生」がありましたですね。美人を描くといって一般には歌舞伎の女形を描いた役者絵とか、あるいは吉原の花魁を描いたもの、はたまた匿名性をもっていわゆる「美人」を描き出すものなどがあったところへ、市井の町娘などが殴り込みをかけたわけで(って、本人が殴りこんだのではありませんが…)。

 

歌麿の『寛政三美人』など最たるものでありましょうね(本展にはありません)。ここでモデルとされた難波屋おきたとか高島屋おひさとか、さまざまな絵師が描いているわけで。おそらく彼女らが働く店の店主は千客万来にうはうはだったかもしれませんが、はたしてご本人たちはどんな思いでいたのでしょうなあ。プライバシーなんつう考え方の無い時代、大きなお世話ながら「どうかねえ…」と思ってしまったり…とは余談でありました。

このところ、セネガル出身の作家による小説を読んだり、ジンバブエから南アに逃れてソムリエになった人たちを扱ったドキュメンタリー映画を見たりしていた折も折、手にした池澤夏樹の『ノイエ・ハイマート』は難民に目を注いだ作品であったのですなあ。

 

ただ、ここでは本の帯に「シリアで、クロアチアで、アフガニスタンで、満州で」とありますようにアフリカを取り上げてはいないものの、難民の生じる状況は今でもあちこちで続いているところながらも、それらを網羅的に扱うのが主眼ではないので、それはそれとして。

 

 

で、先に読んだ本、先に見た映画のところではついつい「民族自決」などという言葉を漏らしてしまいましたですが、一見「良いもの」と受け取れるものがその実は…というあたり、本書でも触れているところがありましたですねえ。ちと長いですが、「14 カフェ・エンゲルベッケンでハムザ・フェラダーが語ったこと」の章にはこのように。

…しかし、本当に民族と国家は違うカテゴリーに属するのだろうか。一つの民族がおのれのありように枠を与えたいと思った時、その理想は自分たちだけの国家なのではないか。民族自決とは自分たちだけの国を作ること。それが理想だとしても実現はむずかしい。民族の数は多く、(居住地の)モザイクはいくらでも細分される。それならば多民族の融和を標榜してなんとか平等を実現するべく努力する方がいい。民族という概念の排他性の問題。…

民族自決が理想だとしても実現は難しい。それならばと考え至る多民族の融和が、実はこれまた難しいわけで。現在でも中東やアフリカなどのあちらこちらで、多民族共存は紛争の種となってしまっていますし、本書で扱われるところでは(ちと歴史を遡ることになりますが)「五族協和」を謳い文句に掲げた満州国の実際なども、五族の上に立つ権力が暗黙の了解とされていたことが災いのもとですし。

 

もっとも、このスローガンに真を置いて満州へ渡った日本人もいたでしょうけれど、結果的に彼らもまた敗戦によっていわゆる難民となってしまう。関東軍はとっとと逃げた…という事態を、全く飲み込めないままに…。

 

ところで、満州から日本へ帰国する苦難とは別に、一般に難民といえば、本当ならば自らの故郷(ドイツ語でハイマート)で暮らしていけるはずの人たちが何らかの理由でそれが叶わず、他国に身を寄せることを思い浮かべる。そこで本書タイトルにある「ノイエ・ハイマート」(新しい故郷)が出てくるわけですが、それに関わって「13 ノイエ・ハイマート」の章にはこんな語り交わしが出てきましたなあ。

「思うんだが、ノイエ・ハイマートって、それ自体が矛盾ではないのかな。新しい故郷って」
「もちろんそうよ。それはわかっている。故郷というのは先祖代々で古いはずのもの。長い歴史があるはずのもの。それが新しいというのはおかしいわ。でもね、それを承知で新しい故郷を作らなければならない場合もある。そういう事態が迫っていることがある。そういう人たちに手を貸すという義務も生じる」

そもそも「故郷」とは?ということに対する一般的理解を示してもいるのでしょうけれど、「先祖代々で古いはずのもの」、「長い歴史があるはずのもの」という故郷観は、個人的にはどうも付いていきにくい(否定しているのではなくして)。そういう故郷があるという意識が自分には無いものですのでね。

 

ただ、故郷を国という(大きな?)単位で考えるならば、日本以外に住んだことはありませんから、それが故郷じゃないかと言われればそれまでですが。

 

このあたり、自分のことはもとよりとして、日本人の間では(島国であることもあって)国境という意識に乏しいことが関わってもいるのであるかと思わないではない。もちろん海の上にも国境線はありましょうけれど、陸続きですぐ向うは別の国ということは無いわけで(在留米軍基地の敷地などは別でしょうけれどね。近くでいえば横田基地とか)。

 

そんなことの先に、日本での(みんながみんなでないことはもちろんあがら)難民理解の乏しさに繋がってくるのかもしれません。難民理解というのは、世界中で実際に難民が生じているということの理解と、難民となってしまっている人たちの状況を知り、彼らの思いに寄りそうような点での理解と両方において。

 

ですので、何とかかんとかトルコを経由してギリシアにたどり着いたシリア難民に対して、ギリシアの難民支援団体の人が語る言葉にはどきっとしたりも。「08 ジャーニー」の章です。

ギリシャは貧しい国です。国ぜんたいが債務不履行に陥りそうになったこともありました。街路の掃除だってできていない。それでもたくさんの人が難民のためのボランティア活動に参加しています。私はそれをとても誇らしく思います。

これに対して、日本は?…てなことを考えてしまうわけでして。税関の対応やらヘイト的な運動やらのことを思い返すにつけ。ただ、上に引いたように語ったその人がもう少し後のところで、こんなことも言っておりまして、背景としてはそんなことでもあったかといいますか、些かご利益的であるなと思えたりといいますか、それでもあっても無関心で過ぎるよりはいいのであるかなと考えたりといいますか。

『聖書』には「旅人の接待を忘るな。ある人これにより知らずして御使いを宿したり」という言葉があります。あなたたちは天使かもしれない。私たちはこうして奉仕することで主に貸しを作っているのです。いつか主が多くの利子をつけて返してくださるから。

まあ、日本にも「情けは人の為ならず」ということわざがあって、このこと自体をご利益的とまで見ることはなかろうと思いますので、ことさらキリスト教という宗教絡みだからといってご利益的と考えたのは狭量だったかも。人に対するありようとしてどうであるかと考えれば、無関心よりずっとましということにはなりましょうかね。

 

と、本書を読み終えたところであれこれ思い巡らせたわけですが、肝心な本書の内容、それは版元・新潮社の同書紹介ページを参照していただくことにいたしましょうか。

実にいいお天気に恵まれました昨日、ミューザ川崎にランチタイムコンサートを聴きに行ってきたのでありました。気温は上がるも、未だ湿度はほどほどというのがいいですなあ。もっとも、コンサートホールに入ってしまうと、天候は関わりないところですが…。

 

 

この日はパイプオルガン独奏で3曲、ヴァイオリンとオルガンのデュオで3曲(アンコール含む)という内容でありましたよ。ここのホールではオルガンと何かしらの、異種格闘技的組み合わせ企画がまま登場しますですね。これまでにもオルガンとサックス(1本)オルガンとオーボエ(1本)オルガンとピアノなどといった組み合わせを聴いてきましたが、今回もまたヴァイオリン・ソロとの組み合わせで。

 

一般にヴァイオリニストがリサイタルを行う場合、ピアノ伴奏であることがもっぱらでありますね。クラシック系ではヴァイオリンとピアノによるデュオのために書かれた曲が誠に多いわけですしね。ただ、またまた個人的な印象ながら、ヴァイオリンとピアノという組み合わせのみならず、管楽器などとのデュオでピアノが寄り添う場合でも同様ですけれど、どうもピアノの音が鋭く耳に届いてきて、音の溶け合いという点ではピアノに存在感がありすぎに思えるのですなあ。

 

もちろん打鍵の鋭い曲やら奏者やらばかりではないにもせよ、そもピアノという楽器が持つ音が個人的な耳(というより聴覚)にはきつすぎるのでもありましょう。これは体の構造の問題ですので、誰にも共感してもらおうとは些かも思っておりませんが…。

 

とまあ、そんな状況であるだけに、いざヴァイオリンとオルガンとが組み合わさった音を耳にしますと、あたりがとても心地よく感じたものなのでありました。アンコールで演奏されたフォーレの「夢のあとに」などは取り分けそのように。

 

ピアノを含めた室内楽、はたまたピアノ・ソロによるリサイタルも全く聴かないわけではありませんですが、このところはこのミューザ川崎や東京オペラシティ、さらにサントリーホールなどでパイプオルガン演奏を耳する機会が多くなっているのは、自覚的ではなかったものの、オルガンの(個人的な)耳馴染みの良さに惹かれていたのかもしれませんですよ。

 

それだけに、何を聴いてもおんなじ?みたいに受け止めてしまったオルガン曲の個性がだんだんと判別できるようにもなってきたろうかと。今回のプログラムでは「前奏曲とフーガ ト短調 Op.7-3」(というタイトルだけだと、バッハの曲みたいですが)が演奏されたマルセル・デュプレのオルガン作品あたり、もそっといろいろ聴いてみたいような気になったものなのでありました。

ちょいと自転車で出かけただけでしたが、江戸東京たてもの園ガスミュージアム武蔵野美術大学民俗資料室を巡ったという長い話になってしまい、それが終わったところでまた自転車で(笑)。ま、今度は移動距離は短く、訪ねたのも一カ所だけですけれどね。

 

ただ、途中には自然の要害とは大げさですが、たまらん坂(RCサクセションの「多摩蘭坂」として知られますな)が立ちふさがり、また続いてJR武蔵野線を跨ぐ陸橋をも登りこさなくてはならないという、自転車泣かせのポイントがあるのですよね。もっとも、本当のサイクリスト?は「登り坂が無くては物足りない」という方々のようですので、お仲間には入れんなあとつねづね…。

 

ともあれ、このほど訪ねたのは東京・西国分寺駅からほど近い東京都公文書館でありまして、ミニ企画展として『川越鉄道と地域~全線開通130年記念』が開催中(会期は5/20まで)を覗こうと。

 

 

さほどに「鉄」分は多くないと日頃申しておりながらも、その多くない部分はもっぱら歴史「鉄」を指向しておるのか、昨2024年にもパルテノン多摩ミュージアム@多摩センターの企画展「鉄道が街にやって来た~多摩ニュータウン鉄道開通50周年~」やら福生市郷土資料室の青梅線開通130周年記念企画展示『青梅線と福生の砂利輸送』やら出かけてしまっており…。今回も同様といえましょうなあ。

 

 

さりながら、もとより「ミニ」企画展というだけあって展示は至って小規模。それでもそれなりに興味深いところはあったですけれどね。だいたい、今年2025年に全線開通130年となる川越鉄道とは…?てなあたりから。現在のJR川越線?と思いそうなところですが、しかしてその実体は?…というわけで。

明治28年(1895)3月21日、甲武鉄道(現在のJR中央線)国分寺駅と埼玉県の川越駅を結ぶ延長29.8kmの地方鉄道が全線開通しました。今日の西武新宿線の一部と国分寺線のルーツとなった川越鉄道です。

展示の冒頭、「ごあいさつ」にこうありまして、現在の感覚でいいますと新宿と川越とを結ぶ西武新宿線ありきの上で、途中の東村山と国分寺とを結ぶ西武国分寺線はまあ、支線のようなものと受け止めてしまいがちながら、実際は川越と国分寺とを直接につなぐ川越鉄道こそ「ありき」だったのですなあ。

 

 

では、何故にこのような路線が計画されたのであるか。当時の申請書類等の展示(一部は写真パネル)から見えてくるのは、なかなか一筋縄にはいかない状況ということになりましょうか。

計画当初の申請書類からは、川越鉄道が入間地方の産業・経済の進展に、この地方からの物資を東京方面に運搬しようとする切実な願いがから起動したことがわかります。また、甲武鉄道系の資本家らがこれに加わり、出資金と鉄道運営の実務の両面で大きな役割を果たしていました。

茶どころで知られる狭山を含む入間地方の有力者たちの要望と、国分寺駅での接続により輸送需要増と見込んだ甲武鉄道(当時は私鉄)の思惑とが合致したのが発端と。さりながら、始発駅たる川越はといえば、「江戸時代以来、新河岸川を通じた舟運で賑わった川越の商人らは、当初は川越鉄道の開通に後ろ向きだった」というのですな。

 

新河岸川を利用した舟運の賑わいのほどは、一昨年(2023年)に訪ねた朝霞市博物館でも紹介されており、川越商人がこれに頼って鉄道に後ろ向きだったというのも「なるほどね」と。さらには、現在は西武新宿線の終着駅となっている本川越駅が、観光客が闊歩する小江戸川越の古い街並みから中途半端に離れて立地しているのも、こうした背景によるのであるか…と今さらながらに思うところでありますよ。

 

川越商人が背を向けるということがあったにせよ、開業後の川越鉄道は入間川で採取する砂利運搬にも力をいれ(このあたり、都心を始めとする建設ラッシュ対応で青梅鉄道などとも共通するところですね)、さらに旅客需要喚起にも乗り出したようで。明治44年(1911年)発行の時刻表には「沿道名勝案内」も掲載されておりますよ。

 

 

そこには川越の喜多院を始め、今では西武秩父線がカバーするハイキングの名所や国分寺駅最寄りとしては「名勝 小金井桜」の案内が見えますな。ちょうどこの辺りまでなら行楽に出かけられるという世の中の雰囲気とマッチしたのでもありましょうか。

 

しかしいい話ばかりが続くわけではありませんな。最初の契機は設立当初からタッグを組んできた甲武鉄道が明治39年(1906年)に国有化されたことで、川越鉄道は自立を求められることになったと。さらに、「大正4年(1915)には、東上鉄道(下板橋―川越)・武蔵野鉄道(池袋―飯能)の競合路線が開通し、その経営に揺らぎが見えることとな」ったそうなのですなあ。その後は何度も経営母体が代わっていったようでありますよ。そのあたりは展示解説から掻い摘んで。

…さらに各鉄道会社が電化によるスピードアップを模索する中、大正9年(1920)10月に電力会社・武蔵水電が川越鉄道を合併します。しかし、大正11年には帝国電灯が武蔵水電を合併、鉄道部門を分離独立させ、同年8月、武蔵鉄道が設立されました。この年11月、武蔵鉄道は西武鉄道と改称しました。

 

ということで、鉄道の歴史はあちこちで合併やら名称変更やらが絡んで、なかなかにつかみがたいところがありますけれど、余談ながら今回展示の解説から「ほお、そうであったか…」ということも知ることに。

 

川越鉄道を合併した武蔵水電は「青梅街道上で電気軌道を営業していた西武軌道(淀橋―荻窪)も合併し」たとありまして、紆余曲折を経て頓挫はするも、後の西武新宿線のルートはともすると青梅街道に沿って荻窪からさらに先へと進むことになっていたのかもと。このあたり、鉄道を熱望する武蔵村山市の歴史民俗資料館で特別展『武蔵村山と鉄道-明治から令和まで-』を見た折り、計画倒れに終わったルートを思い出したりもしたものでありましたよ。