ちょいと前に東京の下町方面へ出かけたついでで、小さなスポットに立ち寄ることに。場所はJR総武線の錦糸町駅から歩いて少々、錦糸公園の中にある墨田区立総合体育館でありますよ。

 

かつて錦糸公園の中には屋外プールがありまして、もう何十年も前になりますが、子供ながら夏場にはわざわざバスに乗ってプールに遊びに来たりもしたものでありましたよ。今や屋外プールは跡形もあく消え失せて、立派な体育館の中にスポーツ施設然とした(要するに子供の遊び場っぽくない)屋内プールがあるようですな。

 

 

ちなみに、この体育館には地元・墨田区が本拠の東京東信用金庫が得たネーミングライツによって「ひがしんアリーナ」と呼ばれておりまして、こんなところにもおそらくは今でも町工場の多く残るであろう墨田区らしさが感じられるような。

 

ともあれ、体育館の2階、受付フロアの片隅にその小さなスポットはありましたですよ。「名誉区民顕彰コーナー 王貞治のふるさと墨田」という展示施設でして。

 

取り敢えず世の中的には先日亡くなられた長嶋茂雄ロスの状態が続いている(東京ドームには追悼記帳所が6/22まで設けられるということですし)わけで、その最中に王の方の話かよ…となるせいか、覗いてみている人はほとんどおりませんでしたなあ。

 

 

ま、天真爛漫な?長嶋に対して、もの静かで落ち着いた印象のある王となれば、前者の方により人気が集まるのもむべなるかなと思いますが、ともあれ、展示の方を覗いてみるといたしましょう。

 

王貞治は、1940(昭和15)年5月20日、向島吾嬬町(現・墨田区八広三丁目)に父・王仕福と母・登美の次男として誕生しました。

ご存じのとおり、実家は「五十番」という中華料理店を営んでいたわけですけれど、余談ながら中料理店に「何々番」という屋号が多いのはなぜでしょうかね…。今は廃業してますが、小学校の同級生の家が「中華 一番」だったりもしたもので。

 

それはともかく、幼少の砌、貞治少年はひ弱だったそうですが、「兄・鉄城の導きによって、業平小学校の4年生ではじめた野球」に魅了される頃には元気なわんぱく少年になっていたとか。

 

 

本所中学の時代、貞治少年は「高校生主体の少年野球チーム」に入り、エース兼5番打者として数々の大会で猛打を振るい、注目を浴びたそうな。活躍の舞台は隅田公園とともにここ、錦糸公園の野球場であったそうですから、やはりその地に顕彰コーナーがあるのは納得のいくところですなあ。

 

 

で、展示ではこの後、早実に進んだ王貞治が見せた甲子園での大活躍を紹介するわけですけれど、これには都立高の受験失敗があったからこそという点、ここでは触れられてはおりませなんだ。地元エリアでは元は東京府立第三中学校であった都立両国高校(ちなみに府立一中は日比谷高校、府立二中は立川高校)に次ぐ進学校とみられていた都立墨田川高校を目指して、合格しておればおそらくその後の「世界の王」の存在は無かったというと、大きな人生の岐路だったはずなのですが…。

 

とはいえ、生涯の師となった荒川博との出会いは中学時代(当時の荒川は毎日オリオンズの選手)だったそうですから、墨田川高校に進んでもやがては野球の道に引き戻されることになったかもしれませんけれどね。

 

 

甲子園優勝投手でもありますから、ピッチャーとしての期待はあったろうものの、巨人に入団してバッターに転向、入団三年目に師匠の荒川がコーチとして巨人になってきてからは、王の代名詞・一本足打法が誕生し、プロ4年目にして本塁打王と打点王を獲得、その後のホームラン量産体制が確立したのだそうでありますよ。

 

 

現役引退後も、監督してダイエーホークス(当時)を優勝に導き、第1回WBCでは日本代表監督としてやはり優勝を果たすことになるわけですが、巨人一筋で来た長嶋とは別の光を残すことになったとはいえましょうか。

 

 

仮に長嶋がいなかったとすれば、現役引退後の王と巨人の関係はもそっと深いものになっていたかもしれませんですが、長嶋がいなかったならば王の現役時代の活躍もどこまであったろうかと思ったり。個性の違いはあれど、互いにライバルとして切磋琢磨した面はあったでしょうからねえ。

 

長嶋が太陽だとするなら、王は月の光を輝かせている。月の光は太陽がなければそもそも無い…とまではいいませんですが。ともあれ、昭和のひと時代が懐かしく思い出される展示コーナーでありましたよ。

先日読んだ吉村昭の小説『夜明けの雷鳴』では、主人公の医師・高松凌雲らを随行に、将軍の名代として徳川昭武が出向いたパリ万博(1867年)のようすを紹介しておりました。まあ、丁髷帯刀の特異な姿の東洋人は、当時のフランス人から見れば「蛮族が来た!」くらいの印象でしたでしょうか。

 

それだけに、駐日フランス領事あたりがしきりに持ち上げて幕府からも万博に日本の品々を出展するよう持ち掛けたのに対して、いざがパリに来てみるとフランス政府筋の人たちはなんとも尊大なふるまいであったようで。この点、ひたすらに記録に当たって書く吉村昭だけに、実際そうであったのだろうと思ったりするところです。

 

ですが、このフランスの尊大さといいましょうか、いったいどこから来ているのかと考えてみれば、始まりは太陽王とも呼ばれたルイ14世に行き当たるのかもしれませんですねえ。おりしも『ヴェルサイユの祝祭  太陽王のバレエとオペラ』を読んでいて、そんなふうに思ったものでありますよ。

 

 

次から次へと戦争をして、どんどん領土を拡大、天下にフランスありの印象を植え付けたルイ14世(在位1643~1715)ですものねえ。さりながら、文化的な面ではどうか。当時の文化先進国はどうみてもイタリアだったわけで、音楽の面でも同様かと。

 

ルイ14世の時代よりも100年くらい後のオーストリアの話にはなりますけれど、その頃でも音楽の本場はイタリアであって、神聖ローマ帝国、つまりはハプスブルク家の宮廷楽長にはイタリアからアントニオ・サリエリが招聘され、ウィーンでもって自作のオペラ(イタリア語ですな)を次々に生み出していたりもしたのですものね。

 

そんな状況ながら、ルイ14世の野望?は音楽面にも及んでいたのですな。ルイ14世のバレエ好きは夙に知られるところで、自ら舞台に上がることもたびたびとか(ただ、当時は宮廷内の余興として王が踊っても不思議ではなかったようですが)。それだけに、文化先進国から入ってきた新しい音楽劇たるオペラには大いに興味をそそられるも、イタリア・オペラの「フランス化」を図る、つまりはフランス固有のオペラを作り出そうとしたようで。

 

王の傍らにあってこれに尽力したのが作曲家のジャン=バティスト・リュリであったと。リュリもイタリア人ですので、てっきり本国である程度知られた作曲家をお雇い外国人として招いたのであるか…と、思っておりましたら、これがリュリという人、至って苦労人だったようですな。フィレンツェの職人の家の出ながら、運と自らの才覚を頼りに太陽王の宮廷楽長まで上り詰めたのであるそうな。

 

リュリが王の好みに適うことを意識しつつ行ったオペラのフランス化は、もちろんフランス語で上演される音楽劇であると同時に、バレエのシーンが多く盛り込まれるようになっている。フランス・オペラのバレエ重視は伝統としてその後にも受け継がれる個性となって、200年ほど後にワーグナー『タンホイザー』をパリで上演するにあたり、バレエのシーンを加えたりしているのはよく知られた話ですし。

 

ともあれ、リュリの時代は音楽史でバロック音楽の時期とされますので、その頃のオペラはいわゆる「バロック・オペラ」と一般に言われる(本書では必ずしもそう呼ぶのが適切ではないことが紹介されていますが、取り敢えず)わけですけれど、近代的なオペラ以前、冒頭に必ず置かれたプロローグがかなり重要な要素であったそうなのですね。

 

音楽的にもストーリー展開の上でも、プロローグは必ずしも必要でなさそうな内容ながら、その後に展開されるお話が、例えば英雄を扱っていればそれがルイ14世のことなんですよということを暗示するというか、見ている誰にも想像が付くように前もって示す要素があったのであると。場合によって、そこで「王様、万歳」的な称揚も行われていたようで。まさに王様のためにこそ作られた曲であったわけでありますよ。

 

ですから、何百年も経ってから音楽として鑑賞するには忘れがちですけれど、作品ごとに制作された時期の時事ネタがらみであったりして、例えば『アルセスト、またはアルシードの勝利』(1673年)はこんなであったと本書には。

このオペラでは、ルイ14世がフランシュ=コンテ(現在フランス東部のスイスとの国境近くの地域)の戦いに勝利してこの地方をフランスの領土としたことを祝う祝祭として行われたものである。プロローグは、セーヌ川のニンフ(水の精)が英雄の帰還を待っている場面から始まる。

とまあ、そんなことを知ってみますと、当然にリュリのオペラ作品を見て(聴いて)みたくなるところですけれど、手元にはあいにくとリュリ作品のCDが数少ないもので、器楽の曲集を1枚、久しぶりに取り出しみたという。

 

 

スペインの古楽奏者ジョルディ・サヴァールによる『太陽王のオーケストラ』なる管弦楽曲集です。バロック音楽というと、なんとはなし「雅」な、ということと同時に「鄙」なイメージを抱いておりましたですが、本書を読んだ後だからでしょうか、ヴェルサイユの豪華な設えなどを思い浮かべつつ(といっても訪ねたのはもはや数十年前ですが)、「絢爛豪華な王の音楽」という印象が強まったものなのでありました。

先ごろ訪ねた「JICA地球ひろば」の展示では世界に現前する課題としてさまざまな項目が挙がっていたわけですけれど、その中で「食」の問題はヨソサマの問題とばかり行っていられない身近さが感じられるものではなかろうかと。

 

 

「食」に関して問題提起されるポイントはいろいろありましょうけれど、ここでは良し悪しはともあれ、現在の「食」はグローバル規模で繋がっていることと大きく関わっておりますな。

 

 

結果として、日本の食料自給率は左上のグラフに見るように右肩下がりで推移しているわけで。2022年段階で38%であるという日本の食料自給率が、1965年段階では73%であったとは、この間に日本人の食の多様化がどんどん進んでいったこともありましょうけれど、なんだか減反政策と関わりがありそうな気がしてしまいます。ちと、上の解説パネルの左下部分をクローズアップしてみましょうかね。

 

 

これ(1975年と2020年の比較)によれば、日本の農地面積は607万haから435万haへと確かに減少している一方で、米の消費量の比較では112㎏/年から50.9㎏/年と半減していると。これだけ米の消費が減っているのだから農地面積が減少しても…なんつうふうに思ってしまうところながら、農地=稲作の田んぼではないわけで、減反政策には米から他の作物への転換も含まれているはずですし、現に今、統計上で米の消費が減ってきたといっても米不足という形が立ち現れているのをどう考えようかいね…と思うわけです。

 

と、この話は今現在の時事的話題とひどく近しいところなだけに敢えてここでは深入りしませんですが、もう一つ、別の観点で「食」の問題として提起されていた点がありましたですよ。一番上の写真で(見てとりにくいですが)手前のテーブルには、こんなフライヤーが置かれていたのでして。

 

 

消費者庁が配っている「食品ロスを減らしましょう」という告知でして、食料自給率が低い=輸入に頼っているわりには、無駄にしてしまっている食品が非常に多いのですよと(ま、日本だけの話ではありませんが、それはそれとして。だからいいとはなりませんでしょうし)。

日本では、まだ食べられるのに廃棄される食品、いわゆる「食品ロス」は472万トン(農林水産省及び環境省「令和4年度推計」)。 これは、世界中で飢餓に苦しむ人々に向けた世界の食料支援量(2023年で年間370万トン)の約1.3倍に相当します。 また、食品ロスを国民一人当たりに換算すると"おにぎり1個分(約103g)の食べもの"が毎日捨てられていることになるのです。(消費者庁HP)

ですが、無駄なことをしているのは、例えばコンビニの恵方巻とか作っちゃったけど消費されずに廃棄なんつうのが多いのではないのかいね。個人的には買ってきた食べ物を捨ててしまうというのはそうそうあることではないような…と思えば、現実はそうではないようで、「食品ロスの約半分は家庭から」(消費者庁フライヤー)出ているそうなのでありますよ。

 

捨ててしまう理由としては「食べきれなかった」「傷ませてしまった」「賞味・消費期限が切れていた」というのがトップ3ですが、どうも背景には買いすぎがあるのではと(個人的には大容量とか、およそ買わないものでして)。

 

ともあれ、食品廃棄には副次的にゴミの問題も生じることになりますですね。ゴミ問題に関わるとなれば気候変動にもつながってくると、意識の広がりに言及しているのが、読み終えたところのちくま新書の一冊『私たちは何を捨てているのか』でありました。

 

食品ロスを出すということは、生産や輸送で温室効果ガスを排出してきた食品を無駄にし、生ゴミの埋め立てや焼却の過程でも温室効果ガスを発生させるため、二重に気候変動に加担することになる。

個人個人のレベルでは、例えば(消費者庁フライヤーの裏面にもありますが)「消費期限」と「賞味期限」という期限表示をきちんと理解して、食べられない段階に至っていない食品を廃棄に回さないようにするとか、そもそも買い込みすぎないとか、できることは限られているようにも思いますが、それでも日々の積み重ねではありましょう。

 

一方で、リサイクル率の改善(ゴミの分別してるし…というだけではどうやら済まない状況の詳しくは本書で)だったり、自治体や国での取り組み方にも努力が必要なのですけれどね。本書には他国の事例が紹介されていて、やればできないことではなかろうにとも。それなのに、政府予算の使いどころが妙な方向にばかりいってはいませんか…てなことを言い出すと、時事ネタ深入りになりますので、ほどほどに。

 

とにかく、食を守る、地球を守るというと大風呂敷にもなりましょうけれど、それが日々の自分たちの食を守ることにつながるのであるなあと、改めて考えた次第なのでありましたよ。

 


 

というところで、またまた例によりまして父親の通院介助の日となりますので、明日(6/10)はお休みを頂戴いたしまして、明後日(6/11)にまたお目にかかることになろうかと。ではでは。

近隣公民館の催しとして開催された「多文化共生講座」を覗いてきたのでありますよ。取り上げられていたのはグリーンランドでして、彼の地を舞台とする映画の上映とグリーンランドに詳しい学者のお話という内容でありました。

 

 

地球温暖化の関係でどんどん氷河が後退していることとか、某国大統領がやおら自国で所有したいと言い出していることとか、グリーンランドはなかなかにホットな話題の渦中にありますけれど、今回の講座で、取り分け上映された映画『北の果ての小さな村で』(2018年フランス制作)で扱ったのはそういう点ではなくして、先住民イヌイットの生活といいましょうか。

世界一大きな島グリーンランドの、人口わずか80人の村にデンマークから1人の青年教師がやって来ました。そこには、しなやかに力強く生きる人々の、シンプルだけど豊かな暮らしがありました。(同作公式サイト)

こんな紹介を見る限りでは、新米教師と子供たちのほのぼの時々ほろり系の映画かと思いかけるところながら、その要素は無きにしも非ずながら、決してそれだけはありませんでしたなあ。

 

まずもって、デンマークからやって来る青年教師アンダースはグリーンランド僻村の子供たちにデンマーク語を教えにやってくるのですよね。政治的にはデンマーク領だしなあ…と思うも、驚かされたのは映画冒頭、アンダースの採用面接の場面ですな。

 

あっさりとグリーンランドに教師の口を得られることになったアンダースは面接官に土地の人たちにグリーンランドの言葉も教わって…」と漏らすと、かの面接官は「あなたがデンマーク語を教えにいくのであって、そんな必要はありません」と、きっぱり。

 

そんなふうに言れれたアンダースは、住民80人の村に到着すると、ただただデンマーク語を使って日々を送るのですが、どうにもコミュニティに馴染めないといいますか、コミュニティの側がそも壁越しに接しているというか。紆余曲折を経て、結果的には村人から彼らの言葉を習い、打ち解けていくわけですが、さもありなむと思いましたですねえ。

 

おそらくかの面接官がいたのは、グリーンランド自治政府の首都とされるヌークに住まっているのでしょかね。「10年ここにいるけれど、デンマーク語以外使ったことがない」と言った面接官、それもそのはず、広い広いグリーンランド(日本の国土面積のほぼ6倍と)でも南西部の、ヌークを含む一帯はデンマークの植民政策の始まりの地で、取り分けデンマーク人が多く、またデンマーク色が強い地域だそうですし。

 

ですが、(このあたりのことは映画の後にあったお話の受け売りです)島の東部や北部に関して、デンマークでは強力にデンマーク化を進める(あちこちの植民地政策にありがちな方法ですな)のでなくして、むしろイヌイットの人たちの従来文化を温存する方向でもあったとか。イヌイットならではの方法で、自然と共生共存する中から、海産物やら海獣の毛皮やらの交易の実利を求めたいところもあったようで。

 

そうなると、アンダースが赴任した東部にある小さな村は、子供たちこそ学習成果でデンマーク語を理解するも、大人たち、年齢が上に行くほど現地語でしか会話しない人たちも多くいるのですよね。そんな環境(よしあしは別として、先進国的な資本主義経済から切り離されてもいる)だものですから、場合によっては子供が学校に通うよりも生きる術を身に着けることが大事と、無断欠席が乗じたりも。

 

アンダースが保護者に欠席理由を尋ねると、「一緒に狩りに行っていた」という。子供は将来猟師になりたいと言っているし、必要なことはすべて(学校でないところで)教えられるからと。別の村人の言葉として、猟師になるのなら早くから、子供の時からいろいろ身に着けていかないとならないというのが、そこに暮らす人々には常識であるようですね。

 

もちろん、今は猟師になりたいと思っているその子も、学校で学ぶことが違う道に通じることもありましょうし、デンマークから来たアンダースにしてみれば、視野を広げてやりたいとの思いもありましょう。むしろ、それがいいことのように思えたりもしますですが、本当のところは果たして何がいいのか。絶対的な価値判断を下すのはとても難しいことであるなと思いましたですよ。

 

時に自然に翻弄され、生活水準でいえば(ヌークのある南西部に比べても)低いと統計的にも言えるところでしょうけれど、個々の幸福度というか、生活満足度というか、人それぞれでもあるしなあと。

 

こういっては何ですが、ありのままの村からは「人類の未来を拓く大発見をするような人物が出ることはないかもしれません。ただ、それがいけないとは誰にも言えないでしょうなあ。一方で、ちょいと前のEテレ『サイエンスZERO』で取り上げられていましたように、気候変動の最新調査を行うにあたり、グリーンランドの先住民の持っている情報(長年積み重ねてきた知恵とも言えましょうか)が大いに役立っているそうな。これも、先進国同様の生活こそ良しとしてイヌイットに相対してきていたら、受け継がれた智慧は断絶していたかもしれませんですよね…と、結果論的ながら。

 

かつて、自らが他国・他地域の人々に優っているという思い込みから、啓蒙やら教化やら言いつつ、自分たちのものさしに適う状況に変えていこうと、大航海時代から帝国主義の時代まで続けられてきたわけですが、そのこと自体は今でも見直されつつある途上なのかもしれんと思ったものでなのでありました。

先日訪ねた「三鷹市吉村昭書斎」では、展示の年表から吉村が学生時代に重篤な肺病によって肋骨5本を切除するような大手術を受けた…てなことを知るところとなりましたですが、作品の中に医師を取り上げたものがいくつかあるのは、そうした経緯があってのことであるのかなとも。先に映画で見た『雪の花』の主人公も種痘の普及に邁進する蘭方医・笠原良策でしたし。

 

でなことで、書斎を訪ねて以来、吉村昭作品の何かしらを久しぶりに読んでいるかいねと思っていたときに、「こんなんもあったか」と手に取ったのが『夜明けの雷鳴』でありましたよ。

 

 

主人公はやはり幕末の医師・高松凌雲でして、函館にある五稜郭タワーの展示にその名を見出して記憶に残っていたのが、今回本作をチョイスする決め手となったという。全体的には高松の生涯をたどっていますけれど、若き日に一橋家お抱えとなって慶喜に仕え、弟の昭武がパリ万博に派遣されることになると随行することになるあたりは、いささか凌雲そっちのけでパリ万博のお話になったりも。

 

よく知られるように、幕府が日本を代表して数々の品を出展する一方、薩摩藩の展示がかなり目立つ存在として独立性を諸外国に知らしめるようなことにもなっていたあたり、結構細かく叙述されていたりして。慶喜が将軍になるなったのち、幕府がパリ万博へ出展わけでして。

 

パリ滞在中に日本では戊辰戦争が起こってしまい、日本に帰国するも、もともと慶喜に仕えていた凌雲は函館を目指す榎本艦隊と行動を共にすることになりますが、このあたりまたしても凌雲そっちのけで箱館戦争の話となってもいたような。

 

ですが、洋式の備えで行われた箱館戦争は数多くの負傷者が出て、これを凌雲たちが治療に努める中、敵味方を区別せずに負傷者は負傷者としたり、箱館の町が戦火に曝される中にあって負傷者には矛を向けないことを西洋の良いしきたりと解して敢然、新政府軍の乱暴狼藉を許さないあたり、のちに同愛社という民間組織の救護団体を組織して「日本における赤十字運動の先駆者とされる」(Wikipedia)ことにつながっていくのですなあ。

 

さりながら、あくまで「日本における赤十字運動の先駆者」であって、日本赤十字社との関わりは無いのであると。かなり前になりますが、熊本に赴いてジェーンズ邸という洋館(お隣に夏目漱石が熊本で3番目に住まった家があるものですから)を訪ねた際、その洋館こそ「日本赤十字発祥の地」と紹介されていたのでありますよ。

 

館内展示によりますれば、戦火による負傷者を敵味方なく救護するため、佐賀出身の元老院議員・佐野常民が「博愛社」の設立を有栖川宮に願い出、その許可を得たのがこの洋館の2階のひと間であったとか。そして、この時に設立された「博愛社」は明治20年(1887年)に国際赤十字社に加盟、名称を「日本赤十字社」と改めることになるという経緯から、日本赤十字はここから始まるのであると。

 

ただ、佐野常民は凌雲にも博愛社に加わるよう求めたものの、凌雲がこれを固辞したことが本書にも書かれてありましたなあ。発端が西南戦争であったせいか、陸海軍主導で官がらみの組織であることが凌雲には得心しかねるところだったようでありますね。

 

後々、国がらみとなると補助金を盾にしてやたら活動に口出しするといった、今やさまざまな団体にうかがえるようなありようを、凌雲は見抜いてもいたのかもしれませんですね。

 

ただ、同愛社の活動は民間運営で行うには膨大な資金を必要としたでしょうから、パリ万博随行で知り合った渋沢栄一や箱館戦争を共にした榎本武揚などが凌雲に惜しまぬ支援をしているうちはよかったのでしょうけれど。これまたよしあしは別として、ああ、幕末明治の人脈の姿だなあとも思ったものなのでありました。