ということで、ライプツィヒ旧市街の東の端、アウグストゥス広場に戻ってきました。
広場の南北にゲヴァントハウスというコンサートホールと歌劇場とが向かいあって建っている、とは先にも触れましたけれど、
この歌劇場の裏側から中央駅方面に向かって、ここにも木立の多い公園があるのですね。
そこにはこんなふうにリヒャルト・ワーグナーの胸像が置かれてあるのですけれど、
ワーグナーは1813年、ライプツィヒ生まれ、いわば生粋のライプツィガーでありまして、
子供の頃にはニコライ教会、トーマス教会の教会学校で学んだそうな。長じてはライプツィヒ大学でも。
ということで、ワーグナーの生家跡に赴いてみたのですけれど、
あたりのようすは19世紀初頭とは大きく様変わりしているのでありましょう、
近くにはワーグナー広場というのもあるし、どこにあろうかなあと、少々うろうろしてしまったような次第です。
場所としては、先ほどのアウグストゥス広場、隣接の公園から中央駅を挟んで反対側、
かろうじて旧市街であるリングの内側ですけれど、その北西の際になりましょうか。
ちょうどリングが弧を描いているあたりになります。
そこには新しく大きなショッピングモールが建てられておりますが、
うろうろの結果ようやくにしてその生誕地を訪ねて、このビルの壁面にプレートを発見したのでありました。
この場所に1886年まで、ワーグナーの生家が建っていたことが記されておりましたよ。
と、ライプツィヒ旧市街のはずれで父親が下級官吏であったという(Wikipedia)家庭に生まれたワーグナーですが、
音楽好きな一家ではあったようですが、こと音楽家の道としては天才肌というよりは努力の人ではなかったろうかと。
以前、メンデルスゾーンを「音の風景画家」とワーグナーが評したことに触れましたけれど、
これは褒め言葉というよりは多分に揶揄していたそうなのですな。つまり、音で「風景」しか描けないものとして。
ですが、ここにはワーグナーの妬みがあったような気がしてしまいますね。
ワーグナーがユダヤ人に対して批判的(差別的)であったことは知られていますが、
取り分け金持ちユダヤ人で楽才も豊となれば、ワーグナーが矛先を向けるのに
絶好の標的であったようにも思われるところでありまして。
ただ、当時にあってワーグナーだけが反ユダヤ的あったわけではないことは
知っていていいことではないかと(だからといって、ワーグナーを擁護するつもりもありませんが)。
ちなみに1832年、19歳のワーグナーが習作的に交響曲を書き上げますけれど、
4歳年上でしかないメンデルスゾーンの方は、今では第5番とされる2曲目の交響曲「宗教改革」を完成しており、
イタリア交響曲を書いているという時期で、1835年、ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者としてライプツィヒに登場、
ワーグナーにとっては目もくらむようなまぶしい存在だったと思しき一方、可愛さ余って憎さ百倍的であったのかもです。
というところでワーグナーの交響曲ハ長調を、東独の指揮者ハインツ・レーグナーとベルリン放送交響楽団の演奏で
聴いてみたわけですが、相当にベートーヴェンを尊敬していたのであろうなと感じられるもいささかもっさりしていて、
同じCDの余白?に入っている後年作の「ジークフリート牧歌」に聴ける歌心といったものは、
まだまだこれからなのだろうなあと。こうしたことからも大器晩成の口かと思ったりしたものでありますよ。
とはいえ、ワーグナーが後世に残した作品を知っている今のライプツィヒの人たちにとっては
おそらくメンデルスゾーン以上におらが町出身の有名人ということでもありましょうか、
生家からほど近い公園の中にもこのような像がありまして。
写っているのが小さくて顔が分からず、誰のものやら?と思うまでもなく背後のシルエットでもって
「ああ、ワーグナーだな」と(実際の像も顔はワーグナーに似ていないような…)。
これは暗にワーグナーが後世に残した影響の大きさを表しておるのか、てなことかと思ったり。
ところで、ライプツィヒ音楽軌道(Leipziger Notenspur)にはこれまでたどって歩いたルートとは別に
「音色の弧線コース(Leipziger Notenbogen)」という別ルートがありまして、
それが先ほどうろうろしていたワーグナー生家跡から始めるループを描いているのですな。
この後はしばし、こちらをつまみ食い的にたどってみることにいたします。