ライプツィヒ音楽軌道を巡っておりまして、ときおり街角に設置された解説板に目をとめるわけですが、
だいたいは何かしらの跡地(今ではおよそ面影が無い…)とか、あるいは銅像が立っているとか、
はたまた建物の壁面にレリーフが埋め込まれているとか、そういうたぐいの史跡が多い中にあって、
しっかりとした資料展示などもされている施設に行き当たることがあるのですね。
こちらはまさにそのような施設のひとつ、メンデルスゾーンハウス・ライプツィヒでありました。
1844年に建てられたというこの建物に、メンデルスゾーンは家族とともに1845年から住まい、
2年後の1847年、この家で亡くなったのですな。38歳の若さでありました。
フェリックスはメンデルスゾーン銀行のお坊ちゃまですので、
元より何不自由なく幼少からの楽才を伸ばすことができたであろうと思いますが、
この住まいに住んだ頃には作曲家としての仕事はもとより、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の指揮者や
ライプツィヒ音楽院(のちのメンデルスゾーン音楽演劇大学)の楽長などを兼ねて、多忙を極めていたのでは。
生涯最期に残した言葉が「Ich bin müde, schrecklich müde.(疲れた、ひどく疲れた)」であったことでも
想像できるところではなかろうかと。そんなメンデルスゾーンに死が忍び寄ってきている最後の日々、
こうした書斎で仕事をしたのでは、と当時の家具デザインなどを使って再構成したのがこちらの部屋です。
ライプツィヒ音楽界で数々の要職を兼務していた人のわりには質素な印象でもあろうかと。
てっきりグランドピアノがどんと置いてある部屋なのかと思いましたですが。
展示の中で思いのほか感心したのは、旅の多かったフェリックスがあちこちで描いた風景画でありました。
ワーグナーがメンデルゾーンに対して「音の風景画家」と評したことが伝わっていますけれど、
実際に描かれた風景画もなかなかでしたですよ。音楽の創造との間に相互補完があったのかもしれませんですね。
と、こちらはフェリックスの姉、ファニー・メンデルスゾーンの肖像画、
ともするとフェリックス以上の楽才があったとも言われておりますが、その楽才を自由に羽ばたかせるには
女性にとって不自由な時代でもあったのですね。まして銀行家のお嬢様ともなれば。
近年は作曲家して、その作品も見直されてきているようですけれど、
41年という長くない生涯のうちには相当に我慢を強いられることもあったのではと思うところです。
姉弟仲が良かっただけに姉の死はフェリックスに大きなダメージを与えたようで、
半年後、姉を追うようにフェリックスは心身疲れ切って亡くなってしまうのでありますよ。
とまれ、メンデルスゾーン家に音楽が溢れていたことは想像できることでして、音楽サロンも備えていたと。
今はそれを再現するような演奏会が折々開かれているということで。
訪ねたときにはちょうどその日のコンサートが終わったところらしく、ぞろぞろと帰って行く人たちがいましたけれど、
こういう人たちはお近くに住まう音楽好きなのでしょう、すでに館内展示は何度も見ているらしく、そそくさとを帰途に。
おかげでこちらは静かに展示を見て回れたのですけれどね。
とまあ、かようにサロンコンサートにニアミスしたことを思い出したからには、
そこで聴いているという雰囲気でメンデルスゾーンの室内楽作品でも聴くとしましょうね。
全部で8曲あるメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲(1曲は4つの断章をまとめたもののようですが)。
ごく若い頃に3曲、中期に3曲、そして晩年(といっても30代後半です)に2曲と、それぞれの時期らしさが感じられて、
その生涯をたどるような感じで聴くことができますな。
時折、自身の他の曲、交響曲や「夏の夜の夢」などを思い起こさせる旋律の流れに出くわしたりして、
こうした曲をメンデルスゾーンハウスの中で聴いたとすれば、また感慨も一入であろうと思ったりしたのでありました。