ちょいと気負って書き込んだ内容にでもならんか…と思ったようなことほど
「どう書こうか…」と惑っているうちに時間が過ぎてしまったりするわけですが、
このままだと書かずじまいにもなってしまうやもと、取り敢えず。
ちょいと前に「19世紀パリ時間旅行-失われた街を求めて-」という展覧会を
練馬区立美術館 で見てきたのでして、そのお話を。
例えば東京の街をそぞろ歩いて、ふと出くわした狭い路地裏に
江戸の長屋の風情でも垣間見えたならば何やら懐かしい気にもなったりする。
もちろん冷静に住環境として今と比べてみれば、江戸期の長屋は狭いし、暗いし、
水道も電気もないし、トイレも共同だし、隣近所の物音は筒抜けだし…と
およそいいことは無いわけですが、それでも懐かしい気がする。
「懐かしい」というのは多分に肯定的な意味合いを含んでいると思いますけれど、
決定的にこの点が肯定できるという明確なものはないにも関わらず、そう思うのは
漠とはしても今の時代が便利さと引き換えにした何かしらがあったのではなかろうかと。
受け止め方はとても個人差のあるところでしょうけれどね。
ところで、なんだって江戸の長屋の話なんだ?とも思われましょう。
ですが、ことはフランスのパリでも同じような感じ方があったのだろうなということなのですよ。
パリという街のイメージは行ったことのない人であっても、
凱旋門、エッフェル塔、シャンゼリゼ通りなどなどを思い浮かべることができるほどに
広く知られたものだと思うのですよね。
それらが「パリの街は素敵!」の当然な要素であるとして受け止めていると思いますが、
よおく考えてみれば、今につながるパリの街はナポレオン3世がジョルジュ・オスマンに
手掛けさせた大きな都市改造の結果なのですなあ。
オスマンがセーヌ県知事として大改造に携わったのは
1853年から1870年までですから奇しくもこれは日本の幕末維新。
江戸の建物から明治の建物へと変わっていくのと大きく違わぬ時代にパリも大改造されたわけで。
先にも触れたように、今でさえ江戸の面影には懐かしさを抱くようなところがあるとなれば、
明治の人が少しずつ変わり行く街の姿には大きな驚きがあったのではと想像するところですが、
それはパリの人たちにとっても同じことだったようですなあ。
今の観光客が「これぞパリ!」と思うような建物、街並みは大改造による産物であって、
江戸っ子ならぬパリっ子たちにとって「おれたちのパリはどこへ行った?!」てなものかと。
展覧会ではパリという都市の発端から説き起こして、
やがて大改造前のかつての「これぞパリ」を示し、その姿が大改造によって失われていくのを
複雑な思いで眺め(そして記録に残し)た人たちがいたことを教えてくれるのですね。
しかしながら、パリっ子たちが懐かしんだ改造前のパリは相当に汚かった。
映画「パフューム ある人殺しの物語」の背景は18世紀のパリで改造直前ではないものの、
映像はその悪臭を伝えるに十分な街の姿を見せていましたですよね。
それはそれとしても、やはり形がそろった箱状のビルが建ち並ぶ姿に変えられたパリは
パリであってパリでないように思えたのかもしれません。
それでも都市改造のひとつの範をロンドンに求めたといいながら、
「パリの街は素敵」と言われるとも「ロンドンの街は素敵」とはあまり言われませんから、
それなりのセンスはあったのでしょうけれど(笑)。
とまれ、パリと言いますと今につながる大改造後の街並みを思い浮かべるわけですが、
例えば「レ・ミゼラブル」はルイ・フィリップによる七月王政の時代を描いているとなれば
主人公ジャン・バルジャンが歩いたパリは大改造以前の姿であったのだなあと今さらながらに。
こりゃあ、痕跡を求めてパリで「ブラタモリ」めいたことをするのも面白いでしょうなあ。