「印象派」というだけで展覧会はいつも混んでいるものですから、
だんだんとやり過ごしがちになりますと、さらに疎遠に。
だもんで、何となく「印象派はもういいかな…」などと思っていたり今日この頃ではありますが、
「練馬区立美術館
でならさほどの混雑でもないかな」と思い、また
アルフレッド・シスレーはほとんど美術に興味を抱いていなかった当時に
それでも「きれいだな」と展覧会に出かけた数少ない画家であるだけに
いささか重い腰をあげて出かけてみたのでありますよ。
「アルフレッド・シスレー展-印象派、空と水辺の風景画家」@練馬区立美術館に。
国内あちらこちらの美術館等で所蔵されているアルフレッド・シスレーの作品、
そのうちの約20点の提供を受けた展覧会とのこと。
中にはブリヂストン美術館 が閉館中で気前よく貸し出してくれたのか、
お馴染みの(とは個人的にですが)「サン・マメス 六月の朝」などもありましたですよ。
シスレーは頑なに、というより一途にというべきかもですが、
最後まで印象派の手法でもって風景画を描き続けた人でありますね。
それが故に、モネの晩年のように抽象画に通ずる道を拓くこともないものですから、
いささか個性の点では格落ちっぽく見えたりもするような。
ですが、美術関係でああだ、こうだとご託を並べるようなことのなかった頃、
つまりさほど絵に興味がない者にとっても素直に「きれいだな」と思わせたということは
美術なるものの本質を考えれば、それはそれで凄いことなのかもしれませんですね。
ただ基本線が同じなだけに、余りに点数多く並んでいると混乱してしまうかも?ですが、
幸いにして20点ほどというのは、じっくり向き合うにほどほどの数であったと言えましょうか。
そんなふうにして改めて眺めてみますと、
今さらながらに単なる「きれい、きれい」では無いことを窺い知ることになりますね。
ひとつには題材の点で、ひとつには技法の点で。
題材の関係からすると、そもそもからして「絵のような風景」を必ずしも選んでおらず、
点景として人物がまま描き込まれることによって生活感をも湛えるものであるなという
ことでしょうかね。
この山形美術館
に寄託されている「マントからショワジール=ロワへの道」(1872年)は、
展示作品の中でも初期作になりますが、集落と集落を結ぶでこぼこ道を馬車が通い、人が歩く…
という場面が描かれているわけですね。
「こりゃあ、きれいな景色だ」という場所ではもちろんないとなれば、
果たしてシスレーを風景画家というのが適切なのか…とも思えてくるような。
それが「きれいな絵」に見えてしまうのはシスレーのなせる業でもあろうかと。
(そもシスレーがきれいに見える絵なるものを描こうとしていのかは分かりませんけれど)
一方で技法といいますか、筆遣いの点で「こんな描き方もしたんだ…」と思いましたのが、
例えば茨城県近代美術館所蔵の「葦の川辺-夕日」(1890年)なる一作。
ここに見られる川面一面の葦原は、平面な塗りの空と好対照に
小さな弧を描き付けるような筆跡がくっきり見て取れるほどなのですね。
ほどほどの距離を置けばそこまで感じることないのは画像で推測いただくとして、
間近で見るとこの部分だけが異様な立体感に思えたりしたものですから。
とまれ、矯めつ眇めつすることが可能な展示空間でシスレーの作品とじっくり向き合ってみれば、
印象派というだけで展覧会を避けて通ってしまうのはやっぱりもったいないなあ…と。
混んでるかどうかの見極めが(個人的にはとても)肝心なところですけれど、
そんなふうに思うところとなったシスレー展なのでありました。