先ごろまで練馬区立美術館 でやっていた「没後100年 小林清親」展を見逃したものですから、
その代わりにといっては何ですが、原宿の太田記念美術館で開催中の「広重と清親」展の方を
見に行ってみたのでありますよ。


「広重と清親」展@太田記念美術館


先に見た「夜の画家たち」展@山梨県立美術館 でも、
その「光線画」が取り上げられていた小林清親ですけれど、没後100年だったのですなあ。


ですから、前者の練馬ではさぞやたっぷりと光線画を見ることができたものと思いますが、
こちらは歌川広重 とのジョイント展ですから、ちと点数では敵わないことでありましょう。


部分的にではありますけれど、例えば雨の描写、花火の描写、雪の描写…などなどで
広重と清親の作品を並べて展示してあったりしますしね。
例えば(フライヤーから借りてきてみますと)こんな具合。


左広重、右清親


左が広重の「東海道五拾三次之内 庄野白雨」、右が清親の「梅若神社」で
いずれも雨の情景を描いてあるものが隣どうしに展示されていたりするわけです。


こうなってきますとですね、どちらかというと没後100年の小林清親を見に行ったはずなのに、
広重の巧みが際立ってしまうことになるのですなあ。


例えばこの「庄野白雨」の構図。
篠突く雨に旅人たちの右往左往が左上がり右下がりに角度をつけた街道をまろぶさまで描かれ、
それと対角に左下がりに切り込む遠景の木立の影がそのようすを煽ります。


雨はまたそれらとは違う角度で容赦なく叩きつける。

しかも線というよりは(現実にはあり得ませんけれど)ところどころまとまった面のように
雨が描かれている点はあたかも突然襲ったゲリラ豪雨であるかのよう。


もちろん清親の方も穏やかならぬ雨であることは、
地面での跳ね返りや傘を細くすぼめて難儀している体の御寮人(?)の姿からも窺えるものの、
雨を白抜きで描くの独自性としても、ちと切迫感は今ひとつといいますか。
とにかく動的であるかどうかでは、広重と好対照でありますね。


と挙げたように一事が万事、とは言いませんですが、
広重の構図、そしてデフォルメの妙に改めて感じ入ったのでありました。


ここで清親が広重と並べて展示されるのは、
錦絵で風景を描く後進としては広重に注目しないわけにはいかなかったでしょうし、
そればかりか広重の題材などもかなり意識していることがはっきり見て取れる作品を

残しているからでありましょう。

ですが、広重のデフォルメに対して、清親はリアルさを求めていたものと思いますから、
自ずと広重側の土俵でもって、ああだこうだ言うのは適当ではないのでしょうけれど…。


時は明治に入り、街角にガス灯が点りだすと、江戸の夜とは全く違う世界が浮かび上がり、
それをどのように錦絵で再現するのかに清親は苦心したのだと思われます。


それが清親流の光の探究となって、光線画と呼ばれる絵を描くようになるのでしょうけれど、
光との対比で闇を闇として「描く」ことの方もまた尋常な苦労ではなかったのではないかと。


小林清親「両国花火之図」(部分)


これは小林清親の「両国花火之図」ですけれど、
見ようによっては「核実験でもあろうか?!」てな光の玉が描かれてますですね。


同じを花火を描いて広重は、「子供に花火の絵を描いてごらん」といえば、
おそらくこうなるというような、花火らしい花火の姿を描き込んでいるのですが、
清親はそうしなかったわけです。


「花火」を描こうとすれば、広重路線をとった方がいかにも「花火」らしいわけですが、

清親は花火が上がった一場の「光」を、そしてその反転たる「闇」を描きたかったのでしょうね。

花火そのものよりも。


夜の闇に花火が、とりわけ大きなものが揚がれば、

瞬間的に光源からの光に包まれるようになる。

その瞬間は水面には照り返しが輝き、見上げる人々の顔も明るく照らす反面、

影になる部分はあくまで黒く・・・まさにそんな情景でありましょうかね、上の作品は。


先の雨のシーンでは清親に動きが乏しいようにもいいましたけれど、

こちらのシルエットになった人々のようすはどうでしょう。

右側の舟にいる子供の輪郭やすぐ後ろの母親(でしょうか?)の袖に見える光でもって、

何とも動的なものにも見えるではありませんか。


その代わりに花火はいわゆる花火らしさをすっかり犠牲にしてしまってもいるような。

展覧会ではすっかり広重に肩入れしてしまいましたですが、

今これを書きながらよおく考えてみると、とった路線のあまりの違いを思えば、

やはり広重は広重、清親は清親と見るべきでしたでしょうかね…。