これは完全にタイトルに釣られて出向いた展覧会。

練馬区立美術館で開催中の「見つめて、シェイクスピア!」展でありました。


「見つめて、シェイクスピア」展@練馬区立美術館


何しろタイトルに釣られてですから、その中身のことはよく知らずにいたわけですが、

たどり着いてみれば展示は2部構成になっておったのでして、

まず皮革装丁本のコーナーがあり、続いてシェイクスピア の劇世界を絵画化した作品の

コーナーがありという具合。


最初の皮革装丁本ですけれど、

これは古い古いシェイクスピア全集とかそういうのではなくして、最新のもの。

何でも2013年に開催された「デザイナー・ブックバインダーズ国際製本コンペティション」で、

「シェイクスピア」をテーマにした自由な装丁を競った中での入賞作品の展示でありました。


いずれも凝りに凝った意匠でシェイクスピアの世界とのイメージのつながりを模索した作品群と

思われましたですが、見ていて思ったことは「はて、本の装丁は実用なのかどうか?」と。


ひとつには実用一点張りの考え方もありましょうね。

対極には完全に割り切って、装丁そのものが「作品」であるという考えも。

そして、両者の中間を行く考え方もありましょう。


見ていて、自分が一票を投じるなら…と考えてしまいましたですが、

挿絵ではないので余りにはっきりと中身を描き出す必要はないでしょうし、

かといって中身と遊離してしまっているとすれば、はたしてどうよなどと考えながら、

「これは!」の一点を探してみたのですね。


絞りこんでいく中では、大袈裟な物語でないのに大判な作りはどうかとか、

「ソネット集」につける装丁ならば、特定の物語性にこだわらず自由な展開が可能かもとか、

ああでもない、こうでもないと。


その結果としていくつかの作品に目をつけたですが、

「Designer Bookbinders International Bookbinding Competition 2013」のページ で見られる中で

アンドレア・オダメタイ作による「テンペスト」の装丁・製本をピックアップすることに。

入賞作品のページをご覧になって、はて皆さまならどの作品を選ぶでありましょうか?


続いて展示室が変わると、シェイクスピアの劇世界を描き出した絵画作品となります。

17世紀の半ば頃に挿絵が描かれるようになり、これが18世紀の半ばになると

シェイクスピア劇の場面というのは独立した絵画の主題ともされるようになったとか。


ジョン・グラハムによるシェイクスピア「オセロ」の一場面(部分)


これは、ジョン・グラハムが「オセロ」の一場面を描き出した版画ですけれど、

デズデモーナが胸をはだけて寝台に横たわっているあたり、

シェイクスピア劇中世界は神話画の領域に歩み寄っていったのかと思ってしまうところです。


ヘンリー・フューズリによるシェイクスピア「夏の夜の夢」の一場面(部分)


お次は異形を描き出すのがお得意のヘンリー・フューズリによる「夏の夜の夢」の場面。

妖精の女王ティターニアが惚れ薬のせいで、ロバ頭にされてしまったニック・ボトムにべったり、

廻りを配下の妖精たちが取り囲んで大わらわの場面でありますね。


ここでもティターニアはギリシア・ローマの女神もかくやの感じで描かれていますが、

実はここで注目したは左下の妖精でありまして、ちと拡大してみます。


フューズリによる妖精の1人


何となくのイメージとして「妖精なるものには羽がある」と思うところながら、

それがこのフューズリが描くように頭から羽が生えているというか、

頭の一部が羽そのものになっているというか、そういうふうに想像していなかったものでして。


以前、うつのみや妖精ミュージアムを覗いたときにも、

妖精と羽の関係にはちとこだわってみたところでしたけれど、それが再燃か…

と思うところへ、まさにうつのみや妖精ミュージアムから借り受けたという

ジョン・シモンズ作のティターニアの絵が展示されておりましたですよ。

(この絵では、ティターニアの背中にトンボの羽に似たものがついてます)


以前の探究で、妖精の図像化はヴィクトリア朝にたくさん現れるようになり、

その発想の源はシェイクスピア劇であったとは聞くところながら、

それでもシェイクスピアは妖精の姿を事細かに描きだしているわけではないでしょうから、

やはりもそっと何かしらの関与があったやに思うわけです。


「テンペスト」に登場するエアリエルは(これも思い込みかもですが)

「ピーターパン」(それもディズニー映画)のティンカー・ベルを想像したりしますけれど、

描かれてみれば、羽があるもの、無いもの、羽が無い場合には

朧に宙を彷徨う幽霊風のもあれば、蝙蝠に乗ってたりするものもあって、実にさまざま。


こうしたイマジネーションの根源の全てが

ひたすらシェイクスピアの紡いだ言葉ばかりにあるとも思われず、

またいろいろと探究を続けるうちに「これかぁ?!」なんつうものに出くわすやもしれませんですね。