山梨県立美術館といえば「ミレー・コレクション」でもって夙に有名ですけれど、
一昨年に特別展として開催された「ミレー・コレクションのすべて」を見に行ったことでもあり、
今回そちらの展示室は端折りまして、開催中の(といっても、開催初日でしたですが)
「夜の画家たち-蝋燭の光とテネブリスム」展をとっくりと見てまいりました。


山梨県立美術館


イタリア語の「闇」(tenbra)に由来するという「テネブリスム」(暗闇主義)は
17世紀バロック美術においてひとつの潮流をなしたものですが、
フランスにおける19世紀の印象派 、20世紀のフォーヴィスム とも同様に
当初は否定的な意味合いを込めて「テネブリスム」と呼ばれていたそうな。
会場の解説文によれば、こうなります。

画面を暗黒に塗りつぶすことは、色彩や素描線を犠牲にする粗野な技法と考えられた。

そもそも視覚芸術である絵画においては見えるものを描くわけですし、
見えないところ(真っ暗なところ)を描くことには意味を見出せない。
スーラージュといった画家が現れるのは遥かに後のことですし。


「夜の画家たち-蝋燭の光とテネブリスム」展@山梨県立美術館


しかしながら、フライヤーに使われているジョルジョ・ド・ラ・トゥールの
「煙草を吸う男」(1646年)を見ても思うところですけれど、
テネブリスムの作家たちが描こうとしたのは「光」であって、
周囲の闇が濃いほどにコントラストとして「光」が浮き立つことになりますよね。


熾き火になった薪に息を吹きかけて、焔が立った瞬間。
照り返しの光は顔を明るく照らすのでして、取り分け鼻の頭や瞳に映る状況は
周囲が闇に包まれておればこそなわけで。


時代は下って19世紀の明治日本には、西洋の文物が奔流のように入ってきますけれど、
およそ「明暗表現の概念や技術はなく、真に迫るような闇や夜の描写も稀」であったときに、
テネブリスムに類する西洋絵画を目の当たりにした日本の絵描きたちはびっくらこいたようです。


それだけに創作意欲を刺激されたのか、

山本芳翠、堀和平、日高文子、小林清親といった面々が
蝋燭と女性を主題にした作品作りに挑戦していったのだとか。


その中のひとつ、芳翠が油彩で描いた「灯を持つ乙女」(1892年)は
闇の背景を背負ってまんまテネブリスム風なのですけれど、
和服に日本髪、低い手元の蝋燭が女性の顔を顎の方から照らす…という構図は、怖いですなぁ。
なまじ先んじて横溝正史館 なぞに立ち寄ってきましたから、なおのことです(笑)。


と、話がすっかり日本画壇に移ってきたところで、
実はこの展覧会に大きな勘違いをしていたことを白状しておかねばなりますまい。


フライヤーをパッと見て、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵と
「夜の画家たち」とのタイトルばかりに気をとられ、てっきりラ・トゥールはもとより
カラヴァッジョなんかも並んでいよう…と勝手に思い込んでいたのですね。


ところがちゃんとフライヤーを見てみれば
「ラ・トゥール、レンブラントに魅了された日本の絵画」とあるように、
日本のテネブリスム受容と、それに刺激を受けた「日本の」夜の画家たちの作品を集めてある…
というのがこの展覧会の趣旨でありました。


それだけに、ラ・トゥールをクローズアップしたかに見えるフライヤーは
早とちりのご同類を生みやすいものなのでは…。


そうした点では少々思惑外れの感、無きにしもあらずではあったものの、
これはこれで面白かったとは言えようかと。


先ほど触れた山本芳翠のように、あたかもラ・トゥールに倣うかのような挑戦の仕方もある一方で、
夜の風景を描こうとする試みが多いのが、明治日本に特徴的なことなのかもですね。


風景を描くとは広重 の名所絵などの系譜を継ぐものとして、明治の風景もたくさん描かれてますが、
文明開化がもたらしたガス灯といった光は、

画家たちの目にそれまでの江戸の夜とは全く違ったものと映ったでしょうし。


先ほども名前を出した小林清親は錦絵の伝統のもとに東京の名所図の版画シリーズを制作しますが、
光を映した夜の光景は「光線画」とも呼ばれたのだそうでありますよ。


小林清親「新橋ステンション」(1881年)


こうした光と闇のコントラストは日本画の作家たちにも影響するところとなったのでしょう、
「こりゃあええ」と思った一枚が小林柯白の「道頓堀の夜」(1921年)。
絹本着色に映しだされた朦朧とした画面からは豊かな情感が感じられるではありませんか。


小林柯白「道頓堀の夜」(1921年)

勘違いはありましたけれど、他にも笠松紫浪、池田遥邨といった画家を知ることとなったり、
結果オーライで堪能してきた展覧会でありました。