五稜郭タワーの展望階には歴史解説の展示パネルなどがあったわけですけれど、ぽつんとこのような像も置かれてありましたなあ。逆光でもって、その面立ちははっきりしないとしても、姿かたちからして土方歳三と分かる方は多かろうと思うところです。

 

タワー・エントランスのオープンスペースにも土方の立像があるのですけれど、これらを見ていると「(雅楽演奏家の)東儀秀樹でもあらんか…」と思えてきてしまったのは、個人的な印象として(笑)。

 

ともあれ、そんなところで「そういえば…」と思い出したのが、昨2021年の春先、東京・日野市に新選組関係の史料館をいくつか訪ねた折、映画『燃えよ剣』が近々公開されると宣伝しきりであったようなと。先に『土方歳三と榎本武揚』なる一冊は読んだものの改めて土方の動きを探っておこうかいねと映画の方も見てみることに。どうやらすでにAmazon Primeで見られるようでしたので。

 

 

と、映画を見た印象だけを先に触れてしまいますが、まあ、評論家ではないので作品を好き嫌いで語っても許されましょう、「テイストが合わないな」と。気付いてみれば監督が『関ケ原』と同じと知って、なんとなくむべなるかなと思ったものでありますよ。やはり岡田准一が出た時代劇『散り椿』あたりは雰囲気に適うロケ地をよくまあ見つけたものであるなと感じたものですが、この『燃えよ剣』の方は「何故ここ?」というようなところばかりだったりもして。

 

具体的にあげつらうのもなんですから一つだけにしておきますけれど、武州多摩といえばお江戸の街中から相当程度に離れたところであるにせよ、歳三の姉の嫁ぎ先は甲州街道日野宿の本陣であって、映画の中のような山の中であるはずもなく…とは、近所だからこそ思うところかもしれませんですね。

 

ともあれ、そんな映画でもって歳三の半生をなぞってみたですが、歳三の才は天賦のものでもありましょうけれど、人物と出会うことで磨かれてもいったのでしょうなあ。ひとりは言うまでもなく近藤勇でありましょう。新選組にあって局長・近藤、副長・土方はそれぞれの役どころをしっかり押さえた最強コンビだったものと思います。

 

時局に利あらずして新選組を含む旧幕府軍は敗走、恭順の意の強い慶喜の下では武闘派集団は厄介者となり、甲陽鎮撫隊として江戸から追い出されてしまったり。その後、流山で近藤が投降するに及んで、おそらく土方はただただ死に場所を求めて、会津、仙台と転戦していったのかもしれません。さりながら、これは想像ですけれど、近藤亡き後、土方は自らを生かすための人物を榎本武揚に見つけたのかなとも。

 

戦闘において大きな力を発揮したことは映画の中で旧幕軍に付き従ったフランス軍人にも語らせていますから死に場所を求めたことは変わらずとも、そんな土方個人の思いとは別に、先の一冊の中では相当に隊士たち(もはや京都以来の者ばかりではない中で)に相当な人望を得ていたことを知れば、榎本ともに蝦夷地共和国を夢見る姿が全くなかったとは言えないような気も。

 

ちなみに函館(当時は箱館)の市中の人々は、後ろ盾が全くない旧幕軍の戦費調達などに苦しんで、青森に退避したという新政府勢力が早く戻ってきてほしいと願ってもいたそうな。ところが一方、青森ではとばっちりのように突然に新政府側の人員が多勢乗り込んできて、宿やら食料やらなんやらを徴発されて相当に迷惑したようなのですね。擬え方が適切ではないにせよ、寛政年間に肥前島原の雲仙岳が噴火した際、その災害が広く及んで「島原大変肥後迷惑」と言われましたけれど、この時にはあたかも「箱館大変青森迷惑」の状態でもあったようでありますよ。

 

と、函館の市民には煙たがられた旧幕軍による支配、施政ですけれど、新政府軍や松前藩との戦闘(旧幕側にすれば攻められたので守ったまでと)では負傷者については敵味方の区別なく治療にあたり、亡くなった者はきちんと弔ったと言われます(映画にもちらり、そうしたシーンが出てきますですね)。折しもそこには、後に日本赤十字の前身ともなる組織に関わった医師・高松凌雲がいたからとも言えましょうけれど、この敵味方の別なく治療に当たるという方針には、榎本や土方も黙認していたのでしょうし。

 

ちなみにやがて箱館戦争後に新政府軍は自軍の戦没者の慰霊だけを行ったのであるとか。それが明治8年の戦没七回忌にあたり、生き残り組である榎本武揚や大鳥圭介らが関わって函館山のふもとに慰霊碑「碧血碑」が建てられるという。ここで、土方はじめ約800名の菩提が弔われたということでありますよ。

 

ここでふいと思い出されるのは、清水次郎長でしょうかね。やはり戊辰戦争の折、榎本率いる旧幕艦隊が品川沖を抜け出すも、暴風を受けて破損した咸臨丸が修理のために清水港に立ち寄ると、新政府軍の攻撃に曝されて乗組員は全滅。遺体は港の波間に漂うままにされていたのを見かねて埋葬したのが清水次郎長であったと。こうしたことでも新政府軍側にはひたすらに「幕府憎し」の感情ばかりが先だっていたような気がしてしまうところでして、箱館戦争でもまたと。なんだか新政府軍よりも博徒のやくざ者の方が人情味に厚いと言えてしまいましうかね。

 

ともあれ、函館は土方が銃撃により最期を遂げたという場所であるわけですね。碑の建てられた若松緑地公園が「最期の地」として知られる一方、場所に関しては諸説あるようですけれど、最後の最後、蝦夷地共和国の構想が夢を消えようかとなったとき、壮烈な死を自ら演出するかのように劇的に土方は散ったのですな。

 

このとき、近藤に代わって頼むに足ると考えていたかもしれない榎本武揚が生き残り、その後には新政府でもって手腕を発揮するような将来をいささかでも見通し得たでありましょうか。まあ、無いですよね、結果論ですから。ですが、これまた「もしも…」の詮無い話ながら、榎本ともに土方が生き残ったとしたら、何らかの活躍をしたでしょうかね。場合によっては、永倉新八にでも斬られてしまったり…。さすがに、そりゃあ無いですかね。