しかしまあ、勝沼というところは本当にぶどう畑だらけでありますなぁ。
大日影トンネル遊歩道
から人里に至る道筋、渓谷沿いといった狭い土地にもぶどう畑が並んでいる。
そんな中を縫うように進んでいきますと、やがて国道20号(甲州街道)に出くわすのですね。
左手側の道で山あいから抜けてきたですが、正面方向に向かうとやがては東京に至り、
手前側に進んでいくと勝沼市街となるこの辺り、柏尾といわれるこの場所で
戊辰戦争
における一戦が戦われたという。
1868年(慶応4年)の年始早々に始まった鳥羽伏見の戦いでは
敵側の圧倒的な火力に押されて幕府軍は敗走し、
いつのまにやら(?)官軍に衣替えした敵側は江戸へと向けて進撃を開始することに。
大坂、京都を引き払い、江戸へと舞い戻った幕府側の中には
近藤、土方、沖田といった新選組の面々もおり、働きどころを求めていたところ、
東山道を通って江戸へ向かっている官軍の一隊に対抗するため、
甲府城に入って敵を迎え撃つよう指令が下されたのですな。
かつての新選組隊士に会津藩兵なども加えた混成部隊は「甲陽鎮撫隊」として
近藤勇に率いられ、甲州街道を一路西へと向かう。
しかしながら、先に官軍勢の甲府城入城を許してしまい、これを奪還すべく野戦に出るも、
ここ柏尾の戦いにおいて、彼我兵力の差は歴然であったか、
敢え無く甲陽鎮撫隊は敗走の憂き目を見ることになってしまうのですな。
ということで、「柏尾の戦い」とも言われるこの戦いはさほど有名なものではないですが、
曰く因縁といいますか、エピソードのようなものに目を向けてみますと、
いろいろ興味深いとも思えるものがあったりしますですね。
これもまた事前に池波正太郎「近藤勇白書」を読んでいた賜物といえないこともないですが。
(ちなみに「白書」と言いながら、内容は完全に新選組物語です)
そもそも新選組の評価は江戸ではどういうものであったでしょうか。
例えば勝海舟はどう捉えていたのか?ですけれど、
近藤らに甲州鎮撫を命じたのは勝海舟であったそうですね。
京都で大暴れをしていた連中を江戸におくなんざぁ、危なっかしくてできたもんじゃあねえと
江戸っ子口調で勝が言ったかどうかはわかりませんけれど、
東海道を攻め来る官軍本隊の西郷隆盛 とは山岡鉄舟 を介して「江戸城無血開城」、
つまり江戸では戦わない前提で話を進めようとしていた勝としては、
近藤らを体よく江戸から追っ払う必要があったと考えるのは不思議でないような。
で、命をまともに受けた近藤ですが、京都で新選組の威勢がよくなるに応じてですけれど、
最初期からの同志である永倉新八あたりにしてみれば、
近藤勇がだんだんとあたかも大名にでもなったかのように
振る舞いが偉そうになっていったことに苦りきってもいたようです。
ただ、これを近藤の側に寄り添って考えてみれば、
剣の腕が立つとはいえ、元々武士でもないというコンプレックスを抱えて、
増え続ける隊士の上位にあって指揮を執るには尊大な態度で臨むしかないと考えていたのかも。
ですから、新参隊士の前で、永倉あたりが「近藤さん」と呼びかけると
「局長と呼びなさい」てな叱言を言うので、永倉としてはおもしろくない。
「近藤さんの同志であって、子分になった覚えはねえ」と。
そんな近藤ですので、甲陽鎮撫隊を引き連れて甲州街道を進むにあたっては
これまた当然に威風堂々として見せたかったでしょうし、
ましてや江戸から甲州街道を進めば、自身の故郷(今の調布あたりですね)を通ることになり、
あたかも故郷に錦を飾るがごとき行軍姿に供応の申出があれば、喜んでこれを受ける。
こんなやりとりの挙句の遅れが、
甲府城に官軍板垣隊の先着を許してしまった原因のひとつでもあったそうな。
とまれ、柏尾からの敗走以降、近藤はもはや死に場所を求めていたのではないかと思いますが、
その柏尾の古戦場跡に残るのはすっくとひとり立つ近藤勇の像のみ。
勝ち負けでいえば、簡単に負けてしまった側の大将にこうした処遇をするのは
破格のことのようにも思えますし、これも甲州が幕府直轄の領地であって、
江戸幕府に近しい関係があったからかと想像してもみたり。
その一方で、幕末の徒花ともいえる新選組には(見方にもよりますが)
判官贔屓的な人気があることの証左であったりもするのかなと思ったのでありました。


