先日見た映画「ローン・レンジャー」 の中に

ゲティスバーグの戦いに触れる台詞が出てきたりしたものですから、
以前録画してそのまんまになっていたヒストリーチャンネルの番組を見てみたのですね。

(といっても北欧に行く前ですので、北欧話を始めてしまわないうちにちと書いておこうかと・・・)


タイトルはストレートに「ゲティスバーグの戦い」。

いわゆる「映画」ではありませんが、

リドリー&トニーのWスコットが製作総指揮にあたったドキュメンタリーで、

何でもエミー賞のノンフィクション・スペシャル作品賞ほか全部で4部門受賞だそうで、

映画でない分目立たないですが、どうやら力作のようだなと。


とまれ、アメリカ南北戦争(1861~1865)の激戦地として有名なゲティスバーグですが、
押し気味で攻めながらもふと攻撃の手を休めたことが南軍の敗因となるようすに加えて

さまざまな視点からのエピソードを交えて描きだしておりました。


その視点の取り方ですが、将軍、将校ばかりか、

一兵卒までも時にクローズアップして、この戦争への思いを語らせたりするところが、

単に戦いの成り行きをなぞったものとは異なっていたようです。


南北戦争というからにはアメリカの南部と北部の戦いであって、
原因としては前者が奴隷制を擁護するのに対し、後者は奴隷解放を主張していた…

てなふうに整理してしまいがちですが、やはり事情はそう簡単なものではなさそうですね。


例えばメリーランド州ですけれど、

位置的にはワシントンD.C.の近くであることから「北軍」であろうと思うものの、
その実、同じ州民であっても立場が違い、それぞれがそれぞれを敵に回して戦わねばならないという

状況があったそうな。


挿入されるエピソードからは、

アメリカ人どうしで殺し合わなくてはならないことへの懐疑の念が見えてきますが、
同国人という以上に身近なご近所さんとの戦わねばならんとなれば、

「なんだってこんなことを?」と思うのは当然でありますね。


しかし、一兵卒がそう思ったところで戦争は終わらないわけですが、
それでもそういう思いを抱いた兵卒もいたのだなと思えば、

全体として集団的な狂気の状態にあったように片付けることはできませんし、
いささかの人間らしさの残り香を感じることができるように思います。


むしろその場だけのことを考えれば群集心理に融け込んでしまった方が
楽なのだろうと想像したりもするわけとことではありますが。


もちろん戦いの中において、

個のレベルには群衆心理に飲み込まれていない別の意識があったりするのは
ゲティスバーグだけの話ではないでしょうけれど、

戦いを描く中ではあまりこうした描かれ方はされない気もしますですね。


それで思い出すのが(またしてもですが)大河ドラマ「八重の桜」 であります。
その初回の冒頭シーンですが、確かアメリカの南北戦争の場面ではなかったかと。


そして、1865年に南北戦争を終えて不要となった武器類が

アメリカからどんどん日本に流れ込んでくるというナレーションがあったような。


歴史の結果として1868年に明治維新を迎える前夜の日本では、

倒幕・佐幕のいずれを問わず、どこの藩でも鉄砲大砲の買い付けに余念が無かったのですから、

アメリカも在庫処分としては有難かったでしょうなあ。


しかも、「ゲティスバーグの戦い」を見ておりますと兵士が持つ銃は「マスケット」と呼ばれており、
発射口の方から弾を込めるという旧式なもので、薩長側はもそっと新式の銃を装備したようですが、
幕末を京都守護職としての任務を自腹で全うするため財政に支障を来した会津藩あたりには
こうした銃を調達せざるをえなかったかもしれません。


でもって、新式銃を携えて進軍してきた薩長(要するに官軍)に対して、
会津側は必死の防戦に努めるわけですけれど、

言いたいのはこうした銃の違いということではなくしてですね、
例えば官軍の側の一兵卒として参戦していた人たちの心中やいかに…ということなんですね。


先の「ゲティスバーグ」を思い起こしてみれば、
前線に立って直接的な戦闘にさらされる兵卒であればなおのこと
「同じアメリカ人どうしが、なぜ」の思いが見てとれたわけですが、
攻め立てる兵卒の側に「同じ日本人どうしが、なぜ」というような思いはあったろうかと。


たぶん「藩」の意識は大きくあっても、日本という「国」の意識はどれほどだったか。
むしろ戊辰戦争を指導した層にはやがて廃藩置県を断行することからも想像できるように

外枠としての「国」の意識はあったかもですが、

末端の兵卒までにそうした意識はまだまだ行きわたってはいなかったのではと想像します。


明治以降の薩長史観もあって会津の視点で幕末維新が描かれることが余りなかっただけに、
「八重の桜」はその点で新鮮なところもあるやに思って見ているわけですが、
戊辰戦争の描き方としてさらに視点を変えて、

戦いの中での兵卒の意識がどういうものだったかに目を向けた形で
話を仕立ててもらうようなこともありかな…と思ったりしたのでありました。