徳富記念館 から裏道を通って次の目的地へ向かう途中、
やおら立派なチャペルに出くわしました。

九州学院ブラウンチャペル


ちょいと手前に九州学院とありましたから、キリスト教系の学校なのでしょう。
後からHPを覗いてみますと、同学院のブラウン・チャペルという建物で、
日本にたくさんの西洋建築を残したヴォーリズの設計により、
大正13年(1924年)に建てられたものとのことでありました。


大河ドラマ「八重の桜」 を見ているときには、
同志社英学校で学ぶ熊本出身の若者たち(「熊本バンド」と呼ばれるようになりますが)が
ずいぶんと尖った連中だなと思ったものですが、彼らの結束もキリスト教によるもの。


九州学院のチャペルを横に見て、熊本の地にもキリスト教の影響は大きいのかなと思いつつ、

次に向かったのは「ジェーンズ邸」でありまして、

明治4年(1871年)に開設された熊本洋学校の教師として、
後に「熊本バンド」と呼ばれた彼らに大きな影響を与えた人物、ジェーンズが
滞在中に住まっていた洋館なのでありますよ。

熊本洋学校教師ジェーンズ邸


先ほどのチャペルはヴォーリズの設計でしたが、
こちらの洋館は何でも長崎から大工を招いて造った洋風建築とのこと。
明治になって、日本の大工たちが見よう見まねで洋風建築を手がけた例は多々あるのでしょうけれど、
わざわざ長崎から呼ばれたとなれば、洋風建築の知識なり経験なりがあったのでしょうかね。

ジェーンズ邸内


ところで、そもそも熊本洋学校の開設が明治4年で、
新島襄が京都に同志社英学校を設立する明治8年よりも早く、
試みとしては先駆的なのではと思いますが、展示解説にはこのように紹介されていました。

明治維新にのりおくれた細川藩は、近代化のため横井小楠の思想の流れをくむ実学党の人々を細川県政に採用しました。明治3年(1870)に始まった実学党による県政は、革新的政策を次々に打ち出し、新しい時代に即応した教育施設として、西洋人教師による洋学校と医学校を創設しました。その洋学校の教師として、アメリカからジェーンズが招かれたのでした。ジェーンズは、英語を通して、自学自習が学習の基本とした教育を実施しました。また、班別学習・男女共学など新しい教育法により幾多の優秀な人材を世に送り出しました。

「英語を通して」とありますが、
英語でものを考え、英語で発信する(英語での演説教育など)ことに

力を入れていたようでありますね。


また、「世界の地理・歴史・物理・天文など」幅広い知識を伝授したようでもありますから、
同志社英学校の授業を熊本バンドの学生たちが「ものたらん」と言って憚らないのも

無理からぬことであり、教師に対して一歩も引かずに自己主張するのも、

ジェーンズの教育の賜物でありましょう。


されど、熊本洋学校は取り組みとして先駆的なればこそ、反動も起きやすかったのか、
わずか5年足らずで閉鎖(これによって、熊本バンドは同志社英学校に入る)となってしまい、
お役御免となったジェーンズも帰国することに。

しかし、主を失ったこの洋館ですが、それで役目は終わらなかったのですなぁ。


明治10年(1877年)に西南戦争が起こりますと、

この洋館は征討総督となった有栖川宮熾仁親王の宿舎に当てられます。


そして、戦火による負傷者を敵味方なく救護するため、

佐賀出身の元老院議員・佐野常民が「博愛社」の設立を有栖川宮に願い出、
その許可を得たのがこの洋館の2階のひと間であったそうなのですよ。

日本赤十字発祥の地


この時に設立された「博愛社」は明治20年(1887年)に国際赤十字社に加盟、
名称を「日本赤十字社」と改めることになるところから、

日本赤十字発祥の地であるということなのですね。

モニュメント「愛の手とこしえに」


ですので、邸内には日本赤十字関連の解説なんかもありましたですが、

庭先にこうしたモニュメントが置かれてあるのも、

ジェーンズというより赤十字絡みでありましょうね。



ところで、ジェーンズ邸の2階(テラスに出るのは禁止!もろいからでしょうか…)の窓から

見下ろしてみますと、やおら目の前に日本家屋がぽつねんとあるのが目にとまるのですね。


ジェーンズ邸から見る漱石第三旧居


先に夏目漱石 は熊本で何度も転居したことに触れましたですが、

この平屋の家は、漱石が熊本で3番目に住まった家だそうな。

そこで「漱石第三旧居」と呼ばれている建物でありました。


当然にジェーンズと漱石が隣どうしだったわけではありませんで(そも滞在時期も違うし)、

ジェーンズ邸も移築なら、漱石第三旧居も移築。

何とか保存する場所探しの中で、こうしたことになったのでしょう。


こちらは中には入れませんけれど、ガラス戸越しにあれこれ(ジェーンズ邸のことも)解説が

覗き見できるようになっておりましたですよ。


夏目漱石旧居(第3の家)


漱石がこの家に住まっていたのは7カ月ほどだったそうですが、

大事なポイント(?)としては、やがて「草枕」に題材として取り上げられることになる

小天温泉への旅に出たのだそうでありますよ。


てなことを知るにおよぶや、例によっていつになるかは分からぬものの、

小天温泉にも足を伸ばして、山路を登りながら「智に働けば角が立つ…」とか

考えをめぐらすものよいですなぁ。