ちょいと前に「こんにゃくの中の日本史 」を読んだですが、

その中で蒟蒻との意外なつながりの語られていたのが天狗党でありますね。


元治元年(1864年)、尊王攘夷の気風が強い水戸藩でも最も過激な一派が筑波山に結集し

全国に尊攘派の決起を促すのろしをあげる。いわゆる天狗党の乱の始まりですな。

とは言うものの、実のところはどんな展開があったのかを知らず…ということで読んでみたのが

吉村昭の小説「天狗争乱」でありました。


天狗争乱/吉村 昭

例によって日本史に疎い者にとりましては安直な思い込みとして、

「尊王攘夷」に対するところは「佐幕開国」であろうと単純に受け止めてしまうことがあります。

といって、もっぱらかつての自分のことなだけかもですが。


ところが話はさほどに簡単な話ではないわけでして、

そも「尊王攘夷」という言葉で表わされる思想の発信源は徳川御三家の水戸藩ですから、

尊王派であることが即ち倒幕派ということではないはずだった…のですなあ。


本書の中でも、会沢正志斎の「新論」と藤田東湖の「講道館記述義」によって確立されたとする

尊王攘夷の思想はどんなものであったかを紹介しておりますね。

ちなみに会沢、藤田ともに水戸藩士でありますよ。

尊王攘夷とは、朝廷を尊崇することによって全国の人心を統一し、それによって幕府の権力を強化させ、外国からの圧力を武力行使も辞さずにはね返すという思想であった。

なるほど、そういうことならば御三家の水戸藩から発信されたものであるとしても、

得心がいくわけながら、国じゅうに伝播する中では「幕府の権力を強化させ」という部分が

抜け落ちてしまったのではありませんでしょうか。


なんとなれば、朝廷としてはもっぱら「攘夷せよ!」と言っているのに対して

幕府としては「やります」と言ったものの、先延ばししていたわけですから、

尊王として朝廷の言うことを聞けば、攘夷を促すことになりますが、

それをやらない幕府は邪魔者ということになってしまいましょうし。


天狗党が挙兵したのもいっかな動きを見せない攘夷を行動で表すことではありましたが、

主だったところが水戸藩士だっただけにおそらく倒幕という意識は無かったのではと。

ただ、この尊攘派に訴えかける示威行動に呼応して、本当に全国から自称尊攘派が

膨大に集まり来たとしたならば、もしかすると天狗党とは思惑違いの倒幕という動きに

なっていったかもしれませんですね。


ですが、どうにも天狗党の思うようにはならないのですなあ。

筑波山に拠った天狗党はまず日光東照宮を目指して全国に訴えかけようとしますが、失敗。

(そも東照大権現のお膝元で声をあげようと考えること自体、幕府寄りですよね)


海路、横浜へ出て焼き討ちという実力行使に出ようとするもこれも失敗。

そのうち、幕府からは征討軍が派遣され、一方では水戸藩内の内紛として

これを穏便に収めるとの立場で送り込まれた一隊ともそれぞれに交戦することになってしまい、

この那珂湊の戦いで一旦、天狗党はちりぢりに。


ようやく態勢を立て直したところで、今度はなんとまあ京へと向かうのですなあ。

禁裏御守衛総督となって京にいた一橋慶喜(ご存知のように出自は水戸藩ですな)に

攘夷決行の働きかけをしようというわけで。


この段階では天狗党の側では黙って上洛の道を通してもらえれば

途中途中での他藩藩領通過にあたって手向かいはしないとの姿勢を示していましたが、

幕府は各藩に追討令を出していたものですから、散発的に局地戦が起こったりする。

そのひとつが下仁田戦争であったのですなあ。


本書は天狗党の挙兵から最終的に福井まで進んだところで投降するまでを

淡々と記していくという、小説というよりもいわば天狗党行軍録とでもいったふう。

写実的といいますか、そうしたありようはいかにも吉村昭作品らしいところなのかもですね。


天狗党は幕府に抗して(そのつもりはなかったかもしれませんが結果的には)

武装蜂起したわけですから反乱軍と目されて、討伐される側、つまり悪者と見られる。

ですが、幕末の混沌の中では一概に誰が良くて誰が悪いとは言い難いところはありましょう。


だいたい武装蜂起という方法しかなかったのかてなところは、今の感覚で考えても詮無いこと。

常に腰には刀という武器を差しているのが当然の世の中を単純に今とは比べられないでしょうし。


それだけに天狗党の後始末を見るにつけ、幕府側の対応はヒステリックな気もしますが、

およそ攘夷の意志が無い幕府にとっては見せしめということでもあったでしょうかね。


幕末の複雑怪奇な情勢の中で、「天狗党の挙兵があった」とは知られても

その本当の意図と言いますか、そもそも尊王攘夷がどういう考え方であったかには

あまり触れられずに、薩長による倒幕への動きばかりが追いかけられがちですけれど、

そんなに歴史はすっとは流れていきませんですね。


先に見た映画「ニュートン・ナイト」 でも、

南北戦争は奴隷解放を巡って北部の賛成、南部の反対に分かれて戦った…てなふうに

単純には片づけられないところがあると思ったわけですが、

日本の歴史の中にもそういうところはたくさんありましょうね。

今回もまた上っ面だけでは理解を誤る可能性のあることを感じた次第でありますよ。