JR高崎駅の西口からペデストリアンデッキへ抜ける扉には音符やら楽器やらの飾りが施されておりまして、駅前から延びる大通りには「シンフォニーロード」という名前が付けられていて…とまあ、このあたりの、楽都(の標榜)ぶりは以前訪ねた折にも触れたことでしたなあ。

 

道なりにまっすぐ進めば、やがてアントニン・レーモンドが手掛けたという、なかなかに奇抜な建物の群馬音楽センターへと至るわけですけれど、ここは群馬交響楽団(群響)の、かつての本拠地でありました。今では駅の反対側、東口の方に高崎芸術劇場なる新施設に鞍替えしていますけどね。ともあれ、1945年に発足した高崎市民オーケストラが始まりという群響、1947年にはプロ化したという、日本の地方都市オケとしては画期的な存在なのですよね。その後、1956年には「文部省により群馬県が全国初の「音楽モデル県」に指定された」(Wikipedia)となりますと、高崎の楽都標榜も宜なるかなと。


で、そんなふうに群響が注目を集めることにある一因が、オケ草創期の苦労話が綴られた映画『ここに泉あり』の制作にあったようですので、この際、改めて見てみることにしたのでありますよ。

 

 

いわゆる大手映画会社の制作ではない、独立プロが手掛けて1955年に公開された作品ですけれど、そのわりには岸恵子、小林桂樹、岡田英次、加藤大介、東野英治郎、沢村貞子ら、よく知られた俳優がたくさんキャストされていて、結構力が入った感はあるような。物語は、戦後ほどなく高崎の音楽愛好家たち(商店街のおっさんたちのような、アマチュア奏者の集まりですが)によって、オケというより合奏団くらいな感じで立ち上げられた楽団が、プロ化という選択をするも、資金難にあえぐ様が描かれておりますな。戦後の、ただでさえ食うにも困る時期に、音楽を生業にとは無謀なことではあったでしょうねえ。

 

そこから、最初はアルバイト的な請負仕事として県内の学校などを巡る移動音楽教室(要するに出前演奏会ですな)が始まりますが、県内くまなく回るにも経費ばかりがかさんで赤字になる始末。もはや存続を断念する以外ないかとなった段階で、これが最後と利根川源流部の山間の学校へと出かけていったところ、生徒たちの食い入る瞳、一心に耳を傾ける姿を目の当たりにして、なんとか続けて行こうと決意するのでありました。

 

それから数年後、時の大作曲家・山田耕筰の目に止まり、東京の楽団との合同公演でベートーヴェンの「第九」を取り上げることに。歓喜の大合唱で幕を閉じるわけですが、本物の群響は今も県内を周る移動音楽教室を行っているようで、そのへんも群馬に音楽愛を育み続けているのでありましょう。なるほど楽都であるのかも。ちなみに映画には山田耕筰本人が登場しているのですが、ぱっと見、俳優の神山繁であるか?と思ってしまいました(笑)。

 

とまあ、かような話になりましたのも、実は直近で岩波新書の一冊、『「音楽の都」ウィーンの誕生』を読んでいたからでもありまして。高崎はともかく(失礼!)、ウィーンは世界に知られた音楽の都、楽都であるわけですが、そもウィーンがなぜ楽都になったのか、そのあたりの背景をさまざまな点で解きほぐすといった内容なのでありました。

 

 

それにしても、ウィーンが音楽の都であるといって誰も疑問に思わないでしょうけれど、町が生まれたときから楽都であったはずもなく、ハイドンもモーツァルトもベートーヴェンも集まってきていた音楽の中心地という以前に、彼らを呼び寄せる環境のようなものがあったのでしょうしね。要因はさまざまにあって、本書に詳しいわけですが、簡単に言いますと神聖ローマ帝国にはいろんな人がいたから…とでも言えましょうか。広大な領土は他民族共存の国家として形成されているだけでなく、身分の格差も上から下までごちゃごちゃといる中、それぞれの身分差に応じた不自由はあるものの、結構風通しのいい?一面もあったのではと思うところです。

 

王侯貴族に囲い込まれていた音楽は、やがてブルジョワがこれを模倣して裾野が拡大した結果、ブルジョワの使用人たち、ひいてはそれよりも下層の庶民にも広がりを見せ、ウィーンの街は常に音楽に溢れることになります。誰も一定料金さえ払えば鑑賞できるという公開の音楽会の成立はロンドンの方が早いようですけれど、街が音楽に溢れているといった状況ではなかったでしょうし。

 

こうした上層の文化を下層が模倣するというばかりでないのがウィーンであったようで、端的にはワルツのような、元は庶民が速いテンポでくるくる回り踊るダンスが、洗練された形で上品になって上層階級に受け入れられていくといった、下層から上層への流れもまたあったのがウィーンなのですなあ。極めてざっくりながら、ともあれ音楽受容の裾野が広く、風通しのよいことが楽都たる由縁でしょうか。高崎で言えば、移動音楽教室の賜物として広い裾野が作られたことと繋がる面もありましょう。別にウィーンの貴族が下層にまで音楽の啓蒙を進めたわけではありませんですが。

 

ついつい、ウィーンといえば音楽の都と何の疑いも差し挟まず、しかも昔々からずうっとそうであったかのように考えてしまうところながら、楽都は一日してならずであったか…と、今さらながらに思うところなのでありました。