何か新しめの時代劇映画でも…とAmazon Primeで探りを入れたところ、「今年の初めに公開されたばかりかあ、出回るのが早いねえ」と思いつつ出くわしたのが、映画『雪の花-ともに在りて-』でありましたよ。

 

 

天然痘が猛威を振るった幕末の日本で種痘に普及に尽力した医師・笠原良策を主人公にしたお話ですけれど、そんなあらすじ段階ではピンと来ていなかったものの、いざ見始めてストーリーを追っていきますと、「ああ、この話、昔むかしに本で読んだなあ」とふいに記憶が蘇ってくることに。中にあった挿絵?までがぼんやりと浮かんできたのでありますよ。

 

本作の原作は吉村昭の小説『雪の花』であって、それを昔むかしに読んだとは思われず、浮かんできた挿絵からもおそらくは子供向けの読み物だったのだろうなあと、その詳細を思い出すことの方に神経が集中してしまい…。

 

当然に映画を見終えた後にはネット検索にかかったわけですが、その結果「おお、そうであったぁ!」ということが判明したのでありましたよ。昔むかしに読んだというのは「新潮少年文庫」というシリーズの一冊だったのですなあ。

 

文庫といいつつ文庫判ではなく、かといって岩波少年文庫のような新書判(?)でもなくして、いわゆる「本」然としたハードカバーでしたですね。そうはいっても、企画としては岩波少年文庫の柳の下に二匹目のどじょうを見出す感あるものだったのではなかろうかと。ただ当時、世に知られた作家による書下ろし作品(たぶん?)を並べて、学校図書館の常備図書にしてもらおうという思惑だったろうかとも。

 

で、そんな新潮少年文庫の初回配本(1971年11月)の3冊のうちの一冊が、『雪の花』の主人公・笠原良策を取り上げた『めっちゃ医者伝』で、これを子供のころに読んだのであったというところにたどり着いたわけです。作者はやっぱり吉村昭で、なんとこの子供向け読み物を後に大人向けの『雪の花』に仕立て直したのであったとは。

 

ちなみに、初回配本の他の2冊、星新一の『だれも知らない国で』と三浦哲郎の『ユタとふしぎな仲間たち』もそれぞれに読んだ記憶がありますですよ。さりながら、1973年までに計10点が刊行されたその後の配本にはとんと覚えがない。時期的に子供向け読み物を脱しつつあった頃なのかもしれません。

 

とはいえ今に続く読書体験の、個人的な礎ともなったのが新潮少年文庫であったともいえそうだと、今になって思うところです。子供の頃から本好きで…とは目されつつも、その実は各種の図鑑を眺めてばかりいて、(絵本ではない)お話を読み切るという習慣の確立しておらなかった読書オクテとしては、このシリーズに感謝せねばならないと今さらながらに思ったものでありました。

 

とまあ、かような昔ばなしを思い出させた笠原良策の生涯、映画の方を思い返してみますと、漢方医として立っていた良策がやがて種痘法に辿り着くきっかけは、蘭方医・大武了玄と出会ったことにあるのですが、これまで信じてきた漢方とは全く異なる理屈に則った蘭方に目を開くことになる思考の内側がどうも釈然としないように思ったものでありますよ。仮に、素直に「これ」と思ったものに取り組んで憚らない柔軟性が良策にあったのなら、そこあたりの人物像を描く必要はなかったろうかと。

 

ま、冷凍保存といった方法の無かった幕末、種痘の苗は人から人へ移し継いでいかなければならない中、少しでも早く越前に(遅まきながら申し上げると笠原良策は福井の人)種痘所を設けたい良策の取った熱血行動あたりが映画としては見どころなのかもしれませんですけどね。日本の医療の夜明けともいうべきところであるのもまた。

風邪で臥せっても恢復期となってきますと、ただ寝ているのがしんどくなってきますなあ。そんなときはTVを見るか、本を読むか。このほどはどちらかというと、本を読む方向に行ったわけですが、幸いにもさほどに重くない本を図書館から借りてきてありましたのでね、幸いでありましたよ。

 

先日に東京・小平市のガスミュージアムを訪ねたお話を振り返った際、気象業務150周年に絡む展示のことに触れたですが、150年の歴史をたどる年表に「昭和40年(1965)富士山レーダー誕生」なんつう一項があったのを思い出したり。

 

で、新田次郎の小説に、確か富士山レーダーの建設話があったなあ、そして思い返せば新田次郎自身、元は気象庁の職員であったのだっけと。そんなところから探し出しのが、『富士山頂』という一冊でありましたよ。

 

 

実際のところ、新田次郎は単に元気象庁職員であって…というだけでなくして、昭和38~39年のレーダー建設にあたっては技術系の測器課長としてプロジェクトの中心にいた人物であったとは。文庫の表紙には富士を望んで事務机に着くおじさん職員の姿が配されておりますので、何やらのほほんとした印象が醸されるものの、プロジェクト自体はそんなのんびりムードとは正反対にあったことは、ま、言わずもがなでありましょう。

 

登場する人名や会社名は全て実名を離れたものであるにせよ、実際のプロジェクト・ベースなだけにおよそそれぞれに特定が可能であろうかと。それをこんなふうに書いちゃっていいのかいね?とも思ったりしたものでありますよ。もちろん、あれこれフィクションを織り交ぜているものとは思いますが、うっかりすると全て実録のように受け止められたりもするでしょうしね…。

 

ともあれ、大蔵省(当時)への富士山レーダー予算要求から発注業者選定、着工までを描く第一部では、金を握る大蔵省の偉そうなことと、その利権に群がって「ぜひともわが社に」という業者たちの暗躍(もはやそうとしかいいようがない)は企業小説の面持ちですな。

 

第二部は富士山頂に巨大レーダーをくみ上げるという工事の苦労がさまざまに語られますけれど、とにもかくにも3776mという高所であると同時に、独立峰であるが故の遮るものの無いふきっ曝しの場所であることの困難は山岳小説風も盛り込まれてあるわけです。ここいらの描写には、作者の経験がものを言ってもおりましょう。

新田次郎は昭和七年に中央気象台に入ったが、以降十二年までの間に、毎年三ないし四回、一月交代で富士山観測所に勤務したそうである。滞頂日数は通算四百日にのぼり、富士山についての感懐もひとしおだった。(巻末解説)

完成後には実際の運用に向けて、今度は電波局のせめぎ合い?が生じたりするあたりを第三部で描き、主人公の測器課長は道筋が付いたことを潮に、気象庁を勇退、予て二束のわらじで臨んできた作家一本で立つことを決意するのであった…とは、自伝的要素もまたありかと。現実の当人もレーダー完成後の1966年に気象庁を依願退職してますし。

 

ちなみに2000年3月に放送の開始されたNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の第一回が富士山レーダー建設を取り上げたものであったそうな。「巨大台風から日本を守れ ~富士山頂・男たちは命をかけた~」というサブタイトルが示すとおりに、1959年の伊勢湾台風ほかにより甚大な被害が出ていたことを受けて、一刻も早く台風進路予測を国民に届けるために富士山レーダーは作られたのであると。

 

建設当時、世界最高所に置かれた気象レーダーとなったようですけれど、時を経て現在はもはや気象衛星が富士山よりも遥かに高いところから見張っているような具合。1999年には役割を終えていたのでしたか。

 

今現在は、山梨県富士吉田市に移設されて「富士山レーダードーム館」となっている…となれば、出かけてみようかと思うところですが、富士山周辺は(場所にもよりましょうが)多言語が飛び交う賑わいの中にあるやもしれず、折を見てとしておきましょうか。

 

ちなみに富士山に登る?という点では、もとよりそのつもりもなかったですが、本書を読んでなおのこと、「富士は眺めてこそ良し」と嘯いているだけにしようという気持ちが弥増したものでありましたよ(笑)。

このところ見に行く美術展はおよそ浮世絵関係に偏っておりましたですが、久しぶりに版画の展覧会に出かけてみたのでありますよ(このほど寝込む前のことですけれどね)。フライヤーを見たところから受ける静謐な印象に促されて、武蔵野市立吉祥寺美術館を覗いてみた次第です。

 

 

『宮本典刀―街の記憶―』という展示は、(失礼ながら)作家の名前も知らず、作品もこれまでに見たことはなかったですけれど、「どこかにある、どこでもない、街の風景―。銅版画家・宮本典刀は、いわく「心のなかに沈んでいる記憶」を丁寧に拾いあげ、それらを再構築して、街の風景を描いています」とフライヤーに紹介されるとおりの作品世界は、必ずしも既視感を覚えるようなものではないにもせよ、やはりノスタルジーとも通じる記憶の琴線に触れるものであったと思いましたなあ。

 

油彩画から版画の世界に移ったという作者は、初めのうちはエングレービングといった古典的な銅版画手法、本人曰く「銅版画は元来、禁欲的な起源をもっている」というように、アルブレヒト・デューラーの作品あたりを思い出させる手法を用いてもいたようですが、やがて「エッチングのように線の表現ではなく面を表現するときに用いられます」というアクアチントに向かうように。上のフライヤーに配された作品も、アクアチントによるものですねえ。

 

作者は日常的にも、あるいは旅先でも大通りから狭い路地裏まで歩いまわるそうなんですが、途中でスケッチをしたりメモをとったりということはしないというのですね。見かけた風景が自身の記憶の中に積み重なって行き、それらを使って画面に再構築する形であると。「どこかにある」が「どこでもない」風景はそうしてできあがるようで。

 

それにしても、フライヤーの作品からも想像できましょうけれど、この静謐感はどうでしょう。思い出すところは、ジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画やシュルレアリスムの作品、そして日本の作家では岡鹿之助とか。これらとの共通点は(全く無いではないもの)人が描き込まれることが至って少ないことも関わっていようかと思うところです。

 

と、そんなイマジナリーな街の風景に取り囲まれてきたわけですが、作者のことを紹介する説明の中にかような一文がありましたですよ。

「色を見ると音が聴こえる」、あるいは「絵に音を見る」と宮本は語っており、絵画作品などに向き合うと、そこにはおのずと音を感受するといいます。

いわゆる「共感覚」の持ち主というわけですなあ。となれば、本人の作品自体でも「絵に音を見る」ことはありましょうから、作者自身としてはその絵画世界にどんな音を聴いているでしょうかね。

 

静謐な画面にはやはり静謐な音楽が…と思うところですけれど、必ずしも音楽の趣味嗜好がその絵画世界と比べて「なるほど」と思えるとは限らないようですな。よく聴く音楽はといえば、マーラーリヒャルト・シュトラウスであるというのですから、なんとも濃厚なといいますか。ずいぶん印象としては離れたところにあるような気がしたものです。

 

ところで、マーラー、R.シュトラウスと併せてもうひとり、よく聴く作曲家として名前があがっていたのがフェデリコ・モンポウでありました。スペインの作曲家、1987年まで生きた現代の作曲家、そして作品の多くがピアノ曲である作曲家、どの部分をとっても多くの人に馴染みあるものではないような。個人的には、聴いたことあったかな…と。ですので、後追いながらもピアニスト・熊本マリによるモンポウ作品集のCDを近隣図書館で借りて、聴いてみたのでありますよ。

 

 

ひと言でざっくり言い放つのは適当でないもしれませんですが、マーラー、R.シュトラウスに比べると、圧倒的に本展の作品とも通い合うイメージであったような。ひたすらに「静謐」とばかり言い続けるのもまた適当ではないのでしょうが、作者の絵画世界に入り込んでイマジナリーな街並みを散歩として、そこはかとなく聞こえてくるとすれば、やっぱりモンポウのピアノ曲であろうと。

 

1893年生まれのモンポウは、20世紀初頭の文化的な錯綜の中にあっておそらくはエリック・サティあたりにも影響を受けたのでしょう。穏やかな中、時に意表を突く展開があったりすることもサティを想起させますけれど、サティの持つ諧謔性といったものから離れて、至って淡々としているというか、恬淡としているというか。

 

あいにくと?個人的に共感覚は持ち合わせておりませんが、モンポウのピアノ曲を聴きながら展覧会を思い返してみますと、絵画と音楽の共振を感じたりしたものでありましたよ。

毎度、風邪でもインフルエンザでもはたまたコロナであっても、通院するでなく薬を飲むでなく、ひたすらに寝て養生するが常になっておりまして、ともするとそれだけに恢復まで余計に時間を要しておるやもしれませんが、取り敢えず復旧して。

 

ただ、今回はほぼ抜けたなという段階でやおら胃袋が何やら機嫌を損ねておるなという気配を感じ、もっぱらおかゆに頼って恢復期の栄養補給がままならないてなことも。ひとくちに風邪と言って(といって本当に風邪だったのであるか…は不明ですが)、症状はさまざまですなあ。てなことで、無沙汰をいたしたのちの一文は、消化によろしいうどんの話を(ま、たまたまですが)。

 


 

ちょいと前、夕方のニュース番組の中で、埼玉ローカルのフードチェーンがいくつか取り上げられていましたなあ。埼玉に隣接する多摩地域在住者としては、「おお、多摩にも出張ってきておるねえ」という店もあれば、全く名前を聞いたことのない店もまたあり。例えば、ピザハウスるーぱん、ぎょうざの満洲、レストラン馬車道、そして山田うどん…。

 

 

「ふ~ん」と思ってみていたわけですが、その余韻のあるうちに近隣図書館で手に取っていたのは、埼玉発祥で多摩にも来てるよ系の店に対して熱い愛情を注いだ一冊であるようす。いつもは遅読傾向になるのが、こればかりは一気読みでありましたよ。ま、内容が軽いからですけれどね(笑)。

 

 

とまれ、『愛と情熱の山田うどん まったく天下をねらわない地方豪族チェーンの研究』は、ノリでやっているにもせよ、これほど山田うどんに肩入れできるのはそれはそれで大したものであるなと、些か感心もしたのでありますよ。とはいえ、多摩を含む首都圏にも少々出張っている以外には店が無い以上は、全国的には「山田うどんって?」とはなりましょうけどね。

 

タイトルには「まったく天下をねらわない」とありまして、近頃はそれこそどこででも見かける〇亀製麺などは、HPによれば北海道から沖縄まで広く展開しているようで、「全国制覇、狙ってるな」感がありありなのに比べると、埼玉を中心に関東圏にちらほら(現在は東京は23区内に一店舗も無い)という山田うどんらしさというものが浮かび上がろうかと。

 

ただ、本書で知るところとなりましたが、かつては東京都心部にも数店舗を構えていたことはおろか、系列ラーメン店をニューヨーク・マンハッタンに出店していたとは、山田うどんにもギラギラした時期があったということでしょうかね。最近になって「山田太郎」なるタンメン店の展開を始めたのは、ちと野望感がよみがえってきたのかもしれませんですが。

 

ともあれ、製麺業から発してしばらく埼玉県の学校給食にソフト麺を提供してきたという山田うどんが、祖業に適ううどん店をもっぱら埼玉県内と東京・多摩地域に展開しているのは、埼玉県の地域性にも思いが及ぶところかと。何せ、山田うどんの発祥は埼玉は埼玉でも所沢市であるということで。埼玉県人がよく言うこととして(といっても上尾在住の友人の印象ですが)、浦和・大宮を擁する高崎線・東北線沿線住民には県西部(所沢を含んで狭山・入間、果ては秩父まで)におよそ親近感が無いようなのですなあ。

 

あたかも先日に東京都公文書館で資料を見た川越鉄道が、川越を発して狭山、所沢を通って多摩の国分寺市に抜けるルートで計画されたことも、埼玉県東西の行き来以上に県西部は多摩地域との親近感があったのかもと思ったりしたものです。

 

と、この間も狭山は茶どころとして知られるとは申したですが、要するに地域的には稲作に向かないからこそ、米以外の作物に頼ることになるわけで、代替物としては小麦栽培もまた盛んな地域であったろうと。それゆえに所沢で山田うどんが発祥するにもつながり、また地域的な特徴ある「武蔵野うどん」が都県境をまたぐ形で古くから存在している背景なのですよね。エリアの広がりに関して、Wikipediaにはこのように。

武蔵野うどん(むさしのうどん)は、東京都北西部の多摩地域から埼玉県西部にかけて広がる武蔵野台地及びその周辺地域、令制国の一つである武蔵国を中心とした地域において、古くから食べられてきたうどんである。

とまあ、そんな地勢の影響もあって、地域性あるうどん文化が受け継がれてきているのが武蔵野台地周辺ということになりますな。ただ、この「地域性あるうどん文化」というのはそれこそ各地に個性あるうどんを生み出したものでもありますよね。

 

先には讃岐を標榜するうどん店の全国展開に触れたですが、あれはあれでうまいとして、だからといって地域性あるうどん文化が無くなってしまうわけではない。驚くほどの柔らかさが特徴の「伊勢うどん」もあれば、硬さが個性になっている山梨県・富士吉田市の「吉田のうどん」もあるわけで。

 

と、ここまで言っておきながら、武蔵野台地に根差す山田うどんがいわゆる「武蔵野うどん」を提供しているわけではない…のが、話の流れ的にはどうよ…ですが、山田うどん党の方々(彼らは「山田者」といってます)が大事に思うのは「うどんとして普通にうまい」ということなのですなあ。

 

些か自虐的な表現ながら、「昼飯、どうする?」「山田でいいか」というように、山田「で」いいかとして選ばれるそこはかとなさとでもいいましょうか。絶対的にうまいというわけでもなく、かといってまずいということでもなく、いつも変わらぬ普通のうまさがあると。

うどんは地域産小麦で作られ、地域の好みに合わせることで普通の味を保ってきたのである。
そばが大衆路線からこだわりオヤジの入魂手打ちで価格をつり上げ、ラーメンがそれに追随して黒Tシャツに鉢巻で湯切りシャッシャの安っぽいパフォーマンスで人気を博しても、動ずることなく低価格で普段着感覚の路線を崩さなかった。
わしらは地味でいい。値段も安くていい。間違っても“道”が似合う方向へは行くな。これがうどんを愛するうどん人としての矜持なのである。

元々、安くて量がたっぷりという印象で語られてきた山田うどんですが、妙に気張ることなく、また全くもって気負いもなく、普通にうまいうどんをさりげなく提供する。そうでなくては、長続きしないでしょうからねえ。

 

同社HPを覗いてみましたら「みなさまのおかげで90周年」と。これはこで大したものではありませんか。てなことで、近隣立川市の五日市街道沿いには(本書の中で同じ沿道に〇亀製麺が出店した!と紹介されていた)山田うどんの店舗があるものですから、久しぶりに出かけてみるかなと思ったものなのでありました。

GW中に近しいところで風邪ひきが生じたのですが、「まあ、自分としては先月にひいたばかりだし…」と些か油断しておりましたところ、巡り巡って結局は「またかよ」という事態に。つくづく抵抗力やら免疫力やらが落ちておるなあと思わずにはおれないような。

 

とそんな折、先日に放送された『NHKスペシャル 人体III 第2集 細胞40兆 限りあるから命は輝く』のことを思い出したりしておりますよ。「第1集」を見たときに、細胞の中にある物質、物質はそれそのものでは動くことがないわけですが、かざぐるまに風が当たると(かざぐるまは物質ながら)動きが生ずるのにも似て、細胞内物質にも動きが生じてさまざまな人体の動き・反応を引き起こしていることを知ったわけですね。で、「第2集」では細胞内物質の動きを促すものがミトコンドリアであって、これが放出するエネルギー?こそ動きの素であると。ミトコンドリアという言葉だけは聞いたことありましたけどね…。

 

では、ミトコンドリアそのものの元気の源は?となりますと、これが酸素を摂取して二酸化炭素を排出することにあるそうな。ヒトは当たり前のように酸素を吸って二酸化炭素を吐き出すと思ってましたが、毛局のところミトコンドリアの求め?に応じていただけのことであったかと。

 

そんなところから想像するに、「有酸素運動が大事」てなふうに言われるのは直接的に人体以前に、ミトコンドリアが元気でいるための必要性であったのかもしれんなあと思ったものです。ですので、これを疎かにしまうと、ミトコンドリアくんが意気消沈し、結果として人体にもさまざまな不具合となって顕在化するであるのかもしれんとも。

 

ということで、要するに運動不足が身体不調にもつながることに改めて思いを馳せるにつけ、これだけ抵抗力やら免疫力やらが落ちておるのは、結局のところはそのあたりに帰することであったか…と、思い至ったりしたところで、些かしんどくなってきましたので、2~3日(たぶん)休養致したく存じます。ではまた数日のうちにお目にかかりたく。ではでは。