1961年(昭和でいえば36年)の4月というのは

いろいろな意味で激動のときであったようでありますね。


ひとつにピッグス湾事件(翌年のキューバ危機の元でもありましょうか)

ひとつに人類発の有人宇宙飛行(「地球は青かった」のガガーリンですな)、

そしてひとつにアイヒマン裁判という、世界の耳目を集めるようなことが立て続けだったのですから。


この中で、アイヒマン裁判のTV中継をめぐる話が

映画「アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち」なのでありました。


アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち [DVD]


ホロコーストの「実務」に携わったとされる元SS将校アドルフ・アイヒマンが

潜伏先のアルゼンチンでモサドに拘束され、イスラエルで裁判が行われることになった。


プロデューサーのフルックマン(BBCのドラマ「シャーロック」でワトソン役のマーティン・フリーマン)は、

これを世界にTV中継することは報道人としての責務とも考えているのですが、

折しも裁判の進行と時を同じくしてガガーリンの宇宙飛行、キューバの問題が報道されると

世界の関心が他へ振り向いてしまうことを思い悩む、やはり視聴率の人でもありましょうか。


それだけに裁判の映像をどう見せるかというときに

証人席に立つホロコースト経験者に迫ることをフルックマンは求めるのですが、

ディレクターのレオ・フルヴィッツは執拗にアイヒマンを追うようカメラに指示するのですな。


これはフルヴィッツが裁判前に話していたように、絶対的な悪人がいるのではなくして

絶対的な悪に動かされる人がいるだけ…てなこととの関わりかと。

このことは裁判を傍聴した哲学者ハンナ・アーレント が言っていた

「悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る」ということと近くもあるような。


それだけにフルヴィッツにしてみれば、ホロコーストの凄惨さが語られ、

また映像が示されるのに立ち会うアイヒマンからはほんの少しでも

人間らしいところが見られるのではないかと執拗にカメラでアイヒマンの表情を追うわけです。


ところが、常に感情を表さないままで被告席に腰かけたままのアイヒマンに

むしろフルヴィッツの方がじりじりしてくるという始末。

フルヴィッツの言葉をさらに進めたようなアーレントの言葉、

「思考停止の凡人」とはかくあらんかでもあるところでありますよ。


で、結局のところアイヒマンの表情は動いたのか、それに迫ったフルヴィッツは…?

このへんは映画をご覧になる時のために取っておくとして、また別の面。


アイヒマン裁判ではホロコーストを生き延びた人たちが次々と証人席で語り、

ときには泣き崩れ、ときには突然卒倒してしまうようなこともあったわけですが、

こうした証言が公にされるということはおよそ無かったのだそうですね。


多くの同胞が命を奪われる中で生き延びてしまった…といった意識が

働いていたのかもしれません。

第二次大戦以前からパレスチナに移っていた人たちにとっても、

生き延びた人たちと相対するのは腫れものに触るような心持ちでもあったかも。


それが大きく転換したのもアイヒマン裁判がきっかけになったような。

それを「アイヒマン・ショー」(原題も同じ)というのは、例えば「エド・サリヴァン・ショー」といった

バラエティー風味の番組を思わせてしまい、「なんだかな…」と思うところながら、

フルックマンが視聴率を気にしたようにTVマンの意識の中には

要するに「見世物」的な感覚があったということになるのでありましょうかねえ…。


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