TV朝日の「題名のない音楽会」では番組の最後に
「偉人たちが残した言葉」というひと言紹介コーナーがありますですね。
この間、東京藝術大学のようすを紹介した放送回の最後には
ヴァイオリニストでも澤学長の、こんな言葉が紹介されていました。
芸術には、世界中に幸福や平和をもたらす「無限の可能性」が秘められている。
ここでの芸術の範疇には当然にして「音楽」も含まれていましょうし、その音楽も含めた芸術が
「無限の可能性」を秘めていることに何ら疑問を呈するところではありません。
ですが、なかなかに理想どおりにはいかないのだなと思ったりするのは
「希望のヴァイオリン」なる一冊を読み終えたからでありましょう。
副題には「ホロコーストを生きぬいた演奏家たち」とあります。
説のひとつとして、ヴァイオリンという楽器は
レコンキスタが成就した末にスペインを追われたユダヤ人がイタリアに伝え、
それをイタリア人の工房が「楽器の王様」に押し上げていった…とも言われるとか。
つまりはユダヤ人にとってヴァイオリンは非常に馴染み深い楽器であって、
有名奏者にユダヤ系が多いのもそうした由縁と関わりありてなことでもあるようで。
大いに名を成す奏者とまでは言えずとも、
ユダヤ社会にあってヴァイオリンに親しんだ人たちは数多くいる。
そうした人たちがホロコーストに直面したときにどうしたか、どうせざるをえなかったか、
そのあたりを窺い知ることができるのでありました。
冒頭に引用したほどの高邁さとは違って、音楽には実用的な側面がありますね。
そうした面が利用されて、ナチスの収容所には収容されたユダヤ系の人たちによる
オーケストラ(場所によっては楽隊程度だったでしょうけれど)が組織されたのだとか。
一番の役割は収容された者たちが強制労働に駆り出されるとき、
門のところに居並んだオーケストラが威勢の良い行進曲を響かせたのだそうで、
そのため、「門のオーケストラ」と呼ばれたりもしたそうです。
続いての任務は収容する側、つまりはナチスの将校たちのために音楽を奏でるというもの。
時には鑑賞用に、時にはダンス音楽なども。
こうした中で上手い奏者だと気に入られれば、
他の収容者とは違った待遇が受けられたりもしたようですが、
厚遇された側も、ある者が厚遇される様子を横目で眺める他の収容者の側も
非常に複雑な思いになりましょうねえ。
たとえいっとき厚遇されても、何かの加減でナチの機嫌を損ねれば
一切のプロセスを端折ってガス室へ一直線ということもあったでしょうし。
で、ここで冒頭の言葉に絡めて思うところは、
音楽に興じる点ではそれなりの感受性(?)を持って接しているナチの将校たちが
いざとなれば人をガス室に送りこむのということを平気で行ったりもする。
ある意味、同一人物とは思われないほどに離れた人格が一体化しているのですよね。
こうした面に思い至ったときに「ああ、そうだ」と思い出したのは
映画「命をつなぐヴァイオリン」でありました。
子供ながらも達者な腕を持つヴァイオリン弾きの少年とピアノ弾きの少女。
舞台のウクライナにナチスが迫り、ユダヤ人である彼らも危機にさらされるわけですが、
占領軍の将校は彼らに「完璧な演奏をすれば助けてやる。そうでなければ処刑だ」と言うのですな。
少なくとも音楽に親しむところがあればこそ演奏に期待する面がある一方で、
期待に応えなければ処刑するという考えが一人の中に同居できるものなのか…と思う。
こうしたことを考えると、音楽(を含めた芸術)の持つ「無限の可能性」を
いささか理想めいたものと思ってしまったりするのでありますよ。
アイヒマン裁判への向き合い方で言論的袋叩きにあったハンナ・アーレントは
アイヒマンの姿から「悪は悪人が作り出すのではなく、思考停止の凡人が作る」と言いましたですね。
先に触れたような二面性はおそらく凡人、すなわち平凡な人として音楽に親しむ側面と
残虐なことに平気で携わるという思考停止状態の側面との同居なのでもありましょうか。
繰り返しになりますが、何も冒頭のひと言に難癖つけるのではなくして、
その言葉を自然と受け止められるようであったこそだなあと思うところなのでありますよ。