1937年の古い映画ながら、音楽映画としては夙に知られた『オーケストラの少女』。中学生の頃からいつかは見るだろうと思ってはいたものの、今のようなVODなど無い時代についど機会の無いまま何十年も経過してしまい…。

 

ですがふいと思い立ってみれば、Amazon Primeでお手軽に見られるようになっていたのですなあ。つうことで、何十年ぶりかの宿願(とは大袈裟ですが)をこのほど果たしたのでありますよ。

 

 

まずもって思い違いであったのは、オーケストラの少女・パッツィーは思いのほか子供ではなかった…ということでありましょう。せいぜい小学生くらいの年代と思っていましたが、とんだ勘違いでありました。

 

職にあぶれたトロンボーン奏者の父親のため、また同様の境遇にある父の友人たち、いずれもが何かしらの楽器演奏者なのですが、彼らを集めて新しいオーケストラを立ち上げ、あろうことか当時のアメリカでは最も著名な指揮者のひとり、レオポルド・ストコフスキーに指揮してもらおうことを、たった一人で(とんちんかんなすれ違いによる偶然にも助けられ)実現してしまうのですからね。これもまた、アメリカンドリームの類例とは言えましょうか。

 

だいたい数多の楽器奏者が職にあぶれていたという状況(おそらくは今でも楽器奏者が定職に就くのはなかなかに人数枠の関係で難しいのでしょうけれど)は、映画の中で「そもそもオーケストラが少ない」とされて「それならば新しいオケを」となっていくわけですが、本作の制作された1937年頃には未だ大恐慌の名残冷めやらずだったのかもしれませんですね。

 

という状況下ながら、1900年創設のフィラデルフィア管弦楽団を率いていたストコフスキーはカリスマ的に人気を誇っていたのでありましょう。この映画で主人公パッツィー憧れの的に、実在の指揮者が充てられていたわけで。それにしても、ストコフスキー本人が(加えてフィラデルフィア管自体も)出演しているというのは、ストコフスキーらしいところなのかも。少し後のディズニー映画『ファンタジア』にも出てくるわけで。

 

そもストコフスキーがアメリカで広くカリスマとして受け入れられたのは、メディア(露出)が好きだったからなのかも。その点では、カラヤンを思い出すところですけれど、本作でストコフスキーが振るオケのシーン、その楽団を映すカメラアングルが、後にカラヤンが作った映像作品で見たのと「おお、似てる!」と思った箇所があったりも。年代的にはカラヤンがストコフスキーを真似たといえるのかもです。

 

この映画が作られた時期というのは、先に『テイキングサイド』でドイツのカリスマ指揮者フルトヴェングラーが後年振り返って、あの時期に亡命していたら…とこぼしたように、ドイツの文化までもがナチの統制下にあった時代でしたですね。仮にフルトヴェングラーがアメリカに亡命していたとしたら、もちろん深い音楽性を評価する人たちはたくさんいたでしょうけれど、ストコフスキーをありがたがったアメリカの広い大衆層にまで人気が行きわたるものではなかったかもと。

 

どちらかというと、フルトヴェングラーが嫌ったカラヤンの方がストコフスキーに近い?と想像すれば、やはりドイツにあってこそのフルトヴェングラーだったのかもしれんなあと、改めて思ったものでありますよ。事の善悪はともかくとしてですが。

 

当時のアメリカで絶大なカリスマ性を示したストコフスキーですけれど、その実、演奏のありようには毀誉褒貶入り乱れている感もあろうかと。それでも、ストコフスキーがクラシック音楽の敷居を下げて誰にでも入り込みやすくしたとは言えましょうかね。

 

名盤(迷盤?)のひとつに挙げられることのあるチャイコフスキーの交響曲第五番は『オーケストラの少女』の中でもフィラデルフィア管を操って演奏を聴かせてくれていましたですが、晩年に残したニュー・フィルハーモニア管との録音(1966年)を聴きますと、好き嫌いは分かれましょうけれど、外連味に溢れて面白くしようという思いが伝わってこようというものです。

 

 

ちなみにこの盤には、ストコフスキー独自編曲によるムソルグスキーの『展覧会の絵』がカップリングされておりまして、ラヴェル版の演奏が当たり前にもなっていようかというこの曲に新しい光を当てて提示しているのもストコフスキーらしいところかと。そういえばバッハの曲をモダン・オケ用に編曲したりもしてましたですねえ。

 

ともあれ、フルトヴェングラーがドイツに留まってクラシック音楽の保守本流かくありなむとしていた時代、大西洋を隔てたアメリカではストコフスキーがクラシック音楽の大衆化をあれこれの手段で進めていた。おそらく、通好みの線で言えば今でもフルトヴェングラーに軍配が上がるかもですが、全く違うアプローチながらストコフスキーも忘れてはいけん存在ではあろうかと思ったものでありますよ。

 


 

と、先日の入院騒ぎで父親の定期通院が先送りになった分の予約が巡ってまいりました。例によって介助のために出かけてまいりますので、明日(6/24)はまたお休みを。明後日(6/25)にお目にかかりたく存じます。ではでは、そういうことで。

先日に訪ねた「市谷の杜 本と活字館」は大日本印刷の企業ミュージアムであったわけですが、同社がらみの公益社団法人DNP文化振興財団ではグラフィックデザインの専門ギャラリーとして「ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ginza graphic gallery 略称ggg)」を設けているのですな。凸版印刷に「印刷博物館」があり、「P&Pギャラリー」あるが如しでありましょうか。

 

gggにはしばらく前にフランスのポスター展を見に行ったことがあるも、かなりご無沙汰しておりますので、今はどんな展示が?と思いますれば『アイデンティティシステム 1945年以降 西ドイツのリブランディング』展が開催中と。ちいとばかりそそられて出向いてみたのでありますよ。

 

 

場所は相変わらず外国人観光客で賑わう東京・銀座。中央通りに面したオニツカタイガーのショップ前には長蛇の列が出来ていて、「ここの運動靴がかくも世界的ブランドになっていたのであるか…?」とは今さらながら。ともあれ、雑踏を避けて、六丁目の交差点からひょいと裏道(交詢社通り)に入った老舗画廊もちらほらするあたりに、gggはあるのですな。なんでも大日本印刷創業の地であるとか。

 

 

早速中へと入ってみるわけですが、(第二次大戦後)「民主主義に復帰し、経済的に発展した西ドイツは、日常を視覚的にかたちづくるデザイン・ソリューションの体系的な発展によって、ドイツのイメージを一変させた」というあたり、「コーポレート・デザインの代表的なポスターやビジュアル・アイデンティティの使用例」などなどで振り返ろうというものでありましたよ。

 

 

そも「ドイツのイメージを一変」とあるのは、戦時中はもとよりそれ以前、ナチスが政権を奪取してからはドイツのイメージがナチ・ブランド(?)で一色に染められていたからでもありましょうね。もちろnナチの宣伝戦略を称揚するものではありませんけれど、大衆を操作する術に長けていたとはいえるような。その一方で、ナチ台頭以前のドイツにはデザインの分野で独自の潮流もあったのですよね。

20世紀初め、ペーター・ベーレンスをはじめとするドイツのデザイナーたちは、後にコーポレート・デザインとして知られることになる世界初の例をいくつかつくりだしました。それにつづくバウハウスも、システマチックなデザイン・ソリューションを彼らのカリキュラムに含めました。

 

そんな戦前の作品の一端がこちらですけれど、今から見ればレトロ・モダン感の漂うものと受け止められるも、当時としてはモダンそのものだったのですよね。それが故に、バウハウスの活動はナチによって退廃芸術的とも見られたのでありましょう。

 

バウハウスのあったワイマールは第二次大戦後に東ドイツ領となって、建築・土木工科大学が置かれますけれど、東ドイツは共産主義の下、ある種ナチの方法をも思わせる大衆煽動プロパガンダ的なデザインを作り上げていくのはよく知られるところながら、ここでは別のお話。本展が「1945年以降 西ドイツの…」と括っている所以でもありましょう。

 

 

先に見たレトロ・モダン感漂うところとはまたひと味違うデザインの数々は、スタイリッシュな印象を与えもするのでして、フライヤーに配されたブラウン社のロゴやルフトハンザのマークを見ても感じられるところかと。

 

 

 

今ではロゴなどのコーポレートデザインの独自性を管理することは当たり前に行われていて、ロゴの清刷りを作って紛い物排除に努めたりしますけれど、ブラウン社は1950年代から始めたとは先駆的ではなかろうかと。余談ながら、ブラウン社といえばもっぱら「髭剃りの会社?」となりますが、元はラジオを作っていたそうでありますよ。

 

ブラウン社のロゴを作成したオトル・アイヒャーはその後、1972年のミュンヘン・オリンピックの主任デザイナーを務めることになります。1936年のオリンピックベルリン大会がナチカラーで染め上げられた記憶を払拭するような「前回とは対照的なビジュアル・プログラム」の設計が求められたのであると。

 

 

そのオトル・アイヒャーも創立者のひとりとして関わって1953年に開校したのがウルム造形大学だということで。活動時期は15年ほどと短かったようですが、展示にあった「ウルム造形大学卒業生の作品」を見れば、「ああ、あれもこれも!」と思ったりする。日本人でもそう思うですから、顕著な活躍だったと言えましょうね。

 

 

 

てなことで、戦前戦中のイメージを拭い去ることもあったであろう、戦後西ドイツのリブランディングですけれど、東西ドイツが統一されたのちの1996年、ワイマールの地にバウハウス大学ができて、新たな作品が生み出され続けておるようで。

 

時に、コロナ禍前の2019年に出かけたのがワイマールを含む旧東ドイツの町々だったものですので、やおら「また行きたいものではあるなあ」という思いが、展示を見ながら沸々と湧き起こってきたですが、世に戦争・紛争がなくなったら…とまでは言えませんが、少なくともウクライナと中東に一定の収まりを見ない限りはどうも出かける気が挫かれてしまいますなあ。全くもって個人的な思いではありますが、つい蛇足を申しました…。

続くときには続くもので、ここ数日でTOPPANホールミューザ川崎と、ランチタイムコンサートに出かけましたけれど、今度は東京オペラシティコンサートホールの「ヴィジュアルオルガンコンサート」を聴いてきた次第です。

 

ま、ここ数日を振り返る以前から気付いていたことではありますが、平日の昼間の開催とあって、集う年齢層の高いこと高いこと。当該イベントが取り分け無料であったり、かなりな安価であったりすれば尚のことですなあ。平日昼間に自由がきくのは、年金暮らしということにもなりましょうからねえ(と、その点では他人のことをとやかく言えた義理ではありませんが…)。

 

ですが、申し込むにあたって(全員が全員ではないにせよ)些か安直に過ぎるのでは?と思ったことも。実際、先日に近隣施設で開催された、グリーンランドを紹介する「多文化共生講座」(映画上映とお話)でも後ろの列から聞こえてきたご高齢のご婦人ふたりの囁き交わしとして、「どんな映画が上映されるの?話によったら寝てしまうかも…」とは内容を知らずに申し込んだのであるか?てなふうに。

 

もちろん年齢を問わず、知識欲を満たしたいてな思いを否定するわけではありませんので、一概に「だったら申し込むなよ(人数に限りがあるんだから)」てなことを言うつもりはないものの、聞こえた囁きからは前向きな印象が無かったもので、そういうことなら…と思ってしまったのでもありまして。

 

また、オペラシティのオルガンコンサートでも、しばらく前にホワイエで「取り敢えず申し込んでおいて、都合が悪くなったら来るの、やめちゃえばいいのよ。どうせタダなんだから」てなことも聞こえてきましたですねえ。もちろん、申し込んだからには具合が悪くなろうとなんだろうと参加せよと言うものではありませんけれど、「とにかく申し込んでおく」てなのはどうなのであるかなあ…と。やっぱり人数に限りがありますので、申し込み満席で来られないとなる人もいるわけですしね…。

 

昨年覗いた美術講座でマクラに使われた笑い話として、「老人にこそ教養と教育が大事…」(今日用がある、今日行くところがある)というのがありましたですが、放っておくと空白になりがちな行動予定を埋めんがために「とにかく申し込んでおく」ということだとすると、果たして動機としてはいかがなものであるかなあ…とは思ってしまうところでして。

 

折しもこの日の東京オペラシティコンサートホールの「ヴィジュアルオルガンコンサート」は(うかうかしていると予約段階で満席になってしまうこともありながら)、自席の一列前にごっそりと空きが出ていたりするのは、思いがけず到来した熱波にあきらめた人が多いのであるかなあと。ま、それはそれで無理して来て、救急搬送されたりする覚悟をせよと言っているのではありませんですが…。

 

と、ちいともオルガンコンサートの話に至っておりませんが、パリの教会の現役オルガニストというフランス人奏者が登場した今回、多彩な音色が特徴でもあるパイプオルガンではありつつも、わりと音色の選択が「いかにもオルガン」といったものでしたなあ。

 

もっとも、このいかにもオルガンらしい音色というのは、昭和を生きてきた日本人らしく?ハルモニウムの、というよりもそっとはっきり言えば幼稚園の園庭で先生が弾いていた足踏みオルガンの音を思い浮かべているのですけれど。

 

プログラムとしてはフランスの作曲家作品が多かったですが、最初と最後に演奏されたバッハを聴いていて、この間遅まきながら思い至ったバロック音楽らしい対位法に耳を傾けて、俄か知識の浸透を図ってきたものでありましたよ。やはり老人には教養も大事ということで…(笑)。

ちょいと前に近隣図書館の新着図書コーナーで『ビジュアル版 一冊でつかむ 古代史と豪族』という本を見かけて読んだわけですが、これを返しに行ってみますと、同じコーナーで今度は『地図でスッと頭に入る飛鳥・奈良時代』なる一冊が目に留まったのですなあ。「こりゃあ、続けて読みなさいという暗示か?」とも思って借り出してきたのでありますよ。

 

 

版元が昔から地図作りで知られる昭文社だと知って、さぞかし「スッと頭に入る」ような地図満載の一冊でもあらんか、目を通すページごとに訪ねてみたくなったら収拾がつかなくなるなあ…などと(さほど中を見ることもなく)妄想を抱きつつ借りてきてしまいましたが、結局のところは妄想倒れでしたなあ。もそっと地図らしい地図が掲載されているものと思い込んでおりましたが、その点は誠に残念…。

 

とはいえ、日本史に対する興味のほどはごくごく近年のことでもあって、知らないことだらけな実態からすると、仏教伝来から長岡京遷都(つまりは平安時代直前)までをほぼ時系列に項目ごと、見開き2頁で(地図も交えて)紹介してくれているのは、「そういう流れだったのであるかいね」と、改めて知ることになったのですけれどね。

 

ただ、そんな流れをたどっていきつつ、個人的な思いとして湧き起こってきたのは平安時代(幸い?本書では触れていないですが)より奈良時代、奈良時代より飛鳥時代、さらに古墳時代や弥生時代、そして縄文時代といった古い時代の方が何かしら掻き立てられるなあという印象なのでありますよ。これは偏に、日本で文字が用いられるようになって、記録が多く残る以前と言ったらいいでしょうか。

 

記録が多く残っておれば時代の様子が後世に伝わるわけですが(といって、先に「吾妻鏡」で触れたように恣意的な内容だったり、誤りが伝えられることもありますな)、わからないことが多く残されている方が歴史ロマンを感じやすいとでも言ったらいいですかね。いかにも学究の徒ではない物言いですが(笑)。

 

ま、そんなふうに思い至ったのも、たまたま折も折、2008年のちと古い映画ながら『まぼろしの邪馬台国』を見たところでもあったもので。

 

 

島原鉄道の社長としてワンマンな経営ぶりの挙句、会社から放逐された宮崎康平(竹中直人)には元より郷土史家の一面も持ち合わせており、全盲ながらも妻和子(吉永小百合)を自らの目とも杖とも頼んで、邪馬台国の痕跡探しの旅を重ねていく…てなお話。原作となる同名の著作は「宮崎の半生と邪馬台国が島原にあるという学説とを同時に記した作品」(Wikipedia)ということですけれど、映画の方は宮崎康平の破天荒な人となりを語る方が主眼のようでしたなあ。

 

ですので、「邪馬台国が島原に?!」というあたり、さほど詳述されてはおりませんけれど、魏志倭人伝の記述をめぐり歴史学者に食ってかかるあたり、「(宮崎説に)なるほどなあ」と思ったりも。ちょいと前にNHK『幻の骨 〜日本人のルーツを探る〜』で謎の人骨を発見した在野の考古学者・直良信夫(のちに早稲田大学講師にはなりますが)が紹介された際、その学歴の故に学界の学者たちから相手にされなかったようすが出てきましたですが、アカデミズムに対抗するには宮崎康平くらいの尖った人物でなくては太刀打ちできなかったのであろうとも。

 

とまれ、邪馬台国論争は時々の歴史的発見を通じても、畿内説と九州説が拮抗する状況にあり、つまりはわからないことが話を大いに盛り上げているわけですから、結局のところ歴史ロマンは学究の徒であったも同様といえましょうかね。

 

さすがに邪馬台国探しに手を挙げようとは思いませんが、個人的にはさしあたり(纏向遺跡が発掘されてきているも)やはり九州説を採りたい気がしているのでありますよ。理由は挙げられませんがなんとなくです(笑)。

昨日は退院する父親を迎えにいったわけですが、顔を合わせて開口一番、「よっ!」と元気なご挨拶。いやはや、この間の救急車騒ぎはなんであったのか?という気にもなりましょうなあ。ま、家に連れて帰ってもさほど(といって、特段これまで以上には…という程度ですが)母親の負担増大となるわけでもなさそうなのに、ホッとしているわけですが…。

 

と、かような介護話は今ではどこでも聞かれることですので(もっともっと大変な日々を送っておられる方々のたくさんおいででしょうし)、ともかくといたしまして、取り敢えずは平常運転に戻り、これは退院介助の前日のお話。ミューザ川崎のランチタイムコンサートを聴いてきたのでありますよそん。

 

 

楽器の組み合わせなどでレアな企画ものを提供してくれておりまして、今回はギターとピアノのデュオなのでありました。音の小さなギターと大きく響くよう改良されてきたピアノとでは兼ね合いが難しかろうなとも(ギターはPAを使うにしても)。

 

実際、ピアノの方がトークの中で、すぐに減衰してしまうギターの音(ピアノも同様とはいえ、ギターの比ではないでしょう)に寄り添う奏法というのでしょうか、ピアノのことは詳しくないのでどういう方法なのか分かりませんですが、とにかくギターとのデュオでは他の楽器と合わせるのと別な気の使い方があるのですねえ。

 

そんな組み合わせだからこそでしょうか、ギターとピアノのためのデュオとして書かれたオリジナル曲というのは少ないようですなあ。当日のプログラムでは、ギター・ソロの2曲に続いて、その珍しいオリジナルのデュオ曲とふたつ。最後のアンコールでは、敢えてこの組み合わせ用に編曲されたものという内容でありました。

 

それにしても、ほぼほぼベートーヴェンと同じ時代の独墺圏の作曲家フンメルがギターを用いた曲を作っていようとは思いもかけず。バロック期に用いられた撥弦楽器のリュートは音の小ささもあってか、古典派以降合奏の形態が大きくなっていく中ですっかり使われなくなっていきましたけれど、だからこそ?スペイン方面の地域楽器が発祥らしいギターはむしろ独自の立ち位置を獲得していったのかも。

 

のちにはリュートのためのものだった曲をもレパートリーにも加えて、むしろ「小さなオーケストラ」とも呼ばれる独奏楽器となっていった…という音楽の歴史の流れをクロスオーバーするような形が今聴けるようになっているわけですなあ。そんな流れだけに、古典派のフンメルが?!とも思ったわけで。

 

ですが、独奏楽器として「なんでも一台で弾けちゃいますよ」が売りのギターが他の楽器と合奏するに際しては、ギターらしさを特に意識したアレンジものはいいかもしれませんですねえ。

 

アンコールで演奏されたラヴェルの組曲『マ・メール・ロワ』から「パゴダの女王レドロネット」ように、つんつんした感じのメロディーは撥弦楽器に似合いのような気がしたものです。とすると、チェレスタあたりで奏される曲をギターで弾いてみるというのは、ありかも知らんと思ったりしたものなのでありました。