このところ例年のことかもですが、さわやかな季節のいい頃合いというのが無いまま、あっという間に梅雨の走りでありましょうかね。いやはや。

 

昨日は曇ってはいても夜まで降り出さなかったのをこれ幸いと、サントリーホールへと出かけたのでありました。以前、サントリーホールでは月齢的に、オルガンプロムナードコンサートという無料企画を設けておりましたですが、これが2025年度から有料(といっても1000円)の新企画に様変わりする…とは前に触れていたですな。題して「サントリーホール Presents 伊集院光と行く! 奥深~いオルガンの世界 トーク&コンサート」と。「はて、どんなことになりましょうかね」と、シリーズの第1回を覗きに行った次第でありますよ。

 

 

クラシック音楽のことはおよそ知らない…という立場の代表として?昨今はTV朝日『題名のない音楽会』にも出演している伊集院光。素人代表らしいというか、「ボケでやってんじゃあないの?」というようなコメントを挟んでいくトークのコーナーは、それこそ『題名のな音楽会』あたりの公開収録かとも。

 

実際、TVカメラ(らしき大型カメラ)が入っていましたので、何かしらの機会に放送されることがあるのであるか…と、考えてみればサントリーホールのお隣は(『題名のない音楽会』を放送している)テレビ朝日であったわけで(テレ朝のカメラかどうか知りませんけどね)。

 

ともあれ、舞台上に置かれたリモートコンソールと舞台正面上方にあるオルガン本体のコンソールとで、同じ曲を弾き比べたり、ストップを押し換えながら音色の違いをあれこれ聴かせてくれたり…という機会は、今回のような企画ならではなのでもありましょう。

 

トークの後のコンサートに並んだプログラムも、こういう機会だからこそオルガン音楽のバリエーションを聴いていってもらいましょう的なものであったような。バロックのJ.S.バッハに始まり、ロマン派のフランツ・リスト、そして現代曲ながらいわゆる現代音楽っぽくないジャン・ルイ・フローレンツ(『アフリカの子』というタイトルの「アフリカ」をイメージしやすい音風景の曲)と続いたわけでして。

 

最後に演奏されたアレクサンドル・ギルマンのオルガン・ソナタ第1番ニ短調作品42(の第3楽章)は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した作曲家らしく後期ロマン派の爛熟を思わせる分厚い響きながら、聴き手を煙に巻くことのないあたりは、オルガン曲のバリエーションの広さを楽しむにまさに一興でありましたよ。

 

と、そんなことを思いつつ聴いていたわけですが、昨今になってオルガン演奏会にたびたび出かけていたりしますと、結構な頻度で19世紀末から20世紀、ともすると現在も活躍中という作曲家の作品が取り上げられるケースがあるなあと思ったのですよね。

 

いわゆるクラシック音楽の演奏会が(文字通りの)古典的な名曲集になっていることが多い中で、新しい作品、決して広く知られているわけではない作品(ま、オルガン曲自体が押しなべてそうですけれど)を取り上げる比率の高さは、オルガン演奏会の個性なのかもと思ったりしたものです。

 

かつてメンデルスゾーンがライプツィヒ・ゲヴァントハウスのオケを振っていた時代、演奏会と言えば当時活躍中の作曲家の新曲披露の場であったというのが一般的…とは聞きかじりですが、それを使い捨てられた?古い曲を発掘して披露したのもメンデルスゾーンの業績であったようで。バッハの『マタイ受難曲』の蘇演はつとに知られるところかと。

 

ただ、その功績が影響しすぎたか、今やクラシック演奏会は古典的名曲集になってしまってもいるわけですが、それだけに思いのほか新しい時代の曲を織り交ぜてプログラムにのせてくるパイプオルガンのコンサートは聴き手にとって新発見を得る機会となってもいるように思ったのでありますよ。

 

楽器そのもの、パイプオルガンといえば古い古い楽器と思えるものの、古典的シンセサイザーみたいな機能を持つだけに、新たな曲が次々と生み出されてもおりましょうしね。といってこの日の演奏でいえば、ギルマンのソナタも良かったですが、最初に演奏されたバッハのオルガン協奏曲BWV593も、原曲たるヴィヴァルディのRV522を思い浮かべつつ聴き比べる妙がとても楽しいものであったわけで、やっぱり昔の曲も捨てがたい…(笑)。

先に読んだ『シャーロック・ホームズの凱旋』では、舞台がヴィクトリア朝京都なる異世界に置かれていたわけですが、ホームズやワトソンたちが時に歩き回り、時に辻馬車を駆って走り抜ける街並みはリアル京都であったのでしょうなあ。

 

街中を動き回るようすを追跡するのに、それがどこであるのか、京都の場合には通りの名前やらそこここで出くわすランドマークでもって分かりやすいのはメリットと言えましょうか(御所がヴィクトリア女王の住まう宮殿に見立てられたりしてましたが)。

 

ただ、分かりやすさのほどは人それぞれであって、実際には修学旅行で連れまわされたくらいの記憶しかない京都の町のことですので、おそらくは分かりやすいのだろうなと思っただけで…(苦笑)。ですので、やおら鷹峯と言われても、どのあたりにあって、どんなところなのか、全く見当がつかないままに読んでしまったのでありましたよ。中野孝次『本阿弥行状記』という一冊です。

 

鷹峯は元和元年(1615年)に徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦が移り住んだ所です。光悦はここに草庵を建て本阿弥一族や芸術仲間、弟子、職人衆と共にこの地に移り住み、一時は55軒もの屋敷が並ぶ芸術村を作ったと言われています。(京都観光総合ガイド「KYOTO design」より)

「ほお、そうでしたか?!」という本阿弥家の拝領地が(時を経て権現様の意向も顧みられなくなったか)幕府によって召し上げられてしまうという危機的状況に立ち至る。これに際して本阿弥家の心意気を残そうということか、光悦の孫にあたる本阿弥光甫によって語り残されたのが『本阿弥行状記』であるようですな。本書は、行状記を語り伝えんとする光甫の姿と語られた内容を組み合わせて、小説化したものということで。

 

それにしても、本阿弥光悦という名前こそ琳派がらみで聞き知った存在ではありますが、「そもこの人は何者?」てな感じも。文化人としていろいろな分野に顔を出す、いわば趣味人かとも思えますし、その一方で家康から領地を下される人物でもあったとは?と。本業は刀の目利き、刀剣の研ぎにありともうっすら知ってはおりますけれどね。そのあたり、本書ではこのように。

そもそもは光悦の父光二と申す者の代にまで遡ることにて、この光二は刀・脇差の目利きと細工にかけては当時並ぶ者とてない名人であったゆえ、諸国の大名衆もこぞってその国々へ召しよせられ、国中の刀・脇差を見てもらおうと望んだものであった。

武士たる者、自らの佩刀は立派な曰くあるものであると権威に証してほしいと思うのでありましょうね。さすれば、大名たちとのかような関わりを通じて、本阿弥家はステイタスも財産も手に入れるところとなったろうかと。ではありますが、そんな本阿弥家の話を取り上げたのが作家・中野孝次、最も知られた著作が『清貧の思想』であることを思い出さねばならないのですよね。

 

早い話が光悦は清貧の人であったとことででありまして、例えば「侘び茶」といったことでも知られる千利休をも「悪風俗」と一刀両断の評価を下したりもしたようで。

利休は千金の値の道具でもつねづねの用に使い、茶道は炉風呂という様式に改めて、行儀・作法・諸道具もみなそれに従うように定めた。かねてから「この道に執心するならば行住坐臥すべて茶の湯である。普段は粗末な道具を使っていて、炉風呂のときのみ珍器を扱うのは、寺院が千年に一度秘仏を開帳するようなものだ」と言い、自身も日ごろから千金の道具を使っていられた。まだ禅学者ぶったところといい、その身の器量はたしかに名人であったが、いろいろ驕慢な面も多い方だったという。

まあ、利休にしてみれば例え千金の値の道具であっても、分け隔てなく普段遣いにも用いることが驕りと離れたものと考えたかもしれませんが、実際には価値が定まった高価なものをこれ見よがしに普段遣いですよと使うこと自体、驕慢でもあったことに気付いていない…てなことですかね。

 

確かに利休もすでに価値の定まった茶器ばかりを用いるでなく、新たに楽茶碗を焼かせたりしているわけですが、新しい(価値が定まっていない)ものであっても利休という名人が「良し」としたものには価値が出てしまうことを果たして自覚していたかどうか。

 

その点、光悦はといえば「書でも焼物でも茶の道でも蒔絵細工でも」自分で作ってしまう。刀の目利きとはいえ、それぞれの分野では素人の手すさびで、もっぱら自分のためのものを自分で作っているわけで、後世になってそれが大きな価値を生ずるのは存外であったと。

「陶器を作る事は余は惺々翁にまされり。然れどもこれを家業体にするにもあらず。只鷹ケ峯のよき土を見立て折々拵え侍るばかりにて、強(たつ)て名を陶器にあぐる心露もなし」

そんな心持で作っていたであろう数々の品。例えば、畠山記念館(現・荏原畠山美術館)で見た赤楽茶碗「銘雪峯」、山種美術館で見た書の「鹿下絵新古今和歌巻断簡」や「四季草花下絵和歌短冊帖」などなど、今ではいわゆる大名物と見られるようになっていること(おそらく価値は計り知れない…)を知ったら、果たして光悦はどんな顔をするでしょうなあ。ついつい想像したくなったりもするのでありましたよ。

JR中央線の吉祥駅南口を出て少々、木立の中へと下りていきますと、井の頭公園に到着しますですね。桜の季節はとうに過ぎ、つつじも終わりか、はたまたアジサイはこれから…という、花暦的にはあまり見るもののない中を、井の頭池を右手に眺めつつ進んでいきますと、池の水は川となって流れ出していくところに出るわけです。

 

ここが神田川の源流です。神田川は善福寺川、妙正寺川と合流して隅田川に注いでいます。

ということで、玉川上水ができる以前はこの神田川を神田上水として使って、江戸市中の水需要を賄っておったのですなあ。つまりは清流であったということでしょう。

 

で、そんな神田川の始まりのところのちょいと先には京王井の頭線の井の頭公園駅がありまして、ある程度の年齢層の方なればご存じのとおり、TVドラマ『俺たちの旅』の舞台でもあるわけですなあ。駅前あたりを見てもあまり往時を偲ぶよすがはないような気が。結城美栄子演じる時江さんが売り子をしていた改札口脇の売店ももはや存在しておりませんしねえ…。

 

と、井の頭公園界隈を巡って懐かしがるのが今回ぶらりの主目的ではありませんで、駅からほど近いところに作家・吉村昭の書斎が移築されて、昨2024年から公開されるようになっていたのだったということを、ふいと思い出したわけでして。先日、映画で見た『雪の花』(実際に読んだのは『めっちゃ医者伝』なのですが)でもって原作者・吉村昭に辿り着いた絡みでありますよ。

 

 

文学館とか記念館とか名乗らずに「三鷹市吉村昭書斎」という施設名になっているのが奥ゆかしいところといいましょうか。こぢんまりとした施設であることの遠慮かもしれませんですね。で、上の建物は書斎そのものではなくして、ガイダンス施設(交流棟というらしい)ですな。元はこのあたり(のどこかしら)にある自宅の離れとして建てられ、ここに移築されたという書斎はこちらです。

 

 

それこそ文学館とか記念館とかいう形で新たに設けられた建物ではありませんので、凝った建築てなことではありませんが、それはともかくとして、正面に見える本来の入口は現在使われておらず、書斎を覗くには交流棟を通り抜けて裏側から回り込む形ということでありますよ。ともあれ、まずは交流棟へ。

 

 

中には、吉村昭とご夫人・津村節子の著作がずらり。施設名には吉村昭しかありませんが、作家どうしのおしどり夫婦として知られたお二人だけに、著作の紹介も年譜の展示もお二方を並べて展示してありましたな。

 

 

ただ、おしどり夫婦とはいっても、仕事部屋たる書斎は別々(元はひとつの部屋で、使いにくかったようす)にしていて、ここの離れは吉村昭が使っていたということですな。

 

 

作家の書斎と想像すれば、本で溢れかえっている…と思うわけで、予想を裏切らないところは感じられますが、「どの題材でも現地での徹底した調査を重ね、証言者や専門家への取材を行い、図書館や古書店をめぐって資料を収集し」たという実証的な作風であるわりには、溢れ方が少ない。『桜田門外ノ変』を書くにあたっては襲撃当日が本当に雪だったのかをさまざまな史料から掘り起こしたりもした…てなことを聞き及んでおりますだけに、膨大なものを思い浮かべましたが、その謎解きは展示解説に。

執筆の資料として集めた書籍は、作品を書き終えると古本屋に売りに出したと言います。ある古書店主から、古書は必要としている人のために市場に戻すべきだと教えられ、それを自分の流儀としました。

そうでもなくては書斎がいくつあっても足りないてなことになりましょうねえ。ただ、(例えば江戸川乱歩の土蔵書庫のように)まるまる蔵書を眺められると、こんな本も、あんな本も読んでいたのであるか?!といった思いがけなさに出くわすこともあるのではありますが…。

 

ともあれ、またまた思い返せば、生涯で初めて買った文庫本が吉村昭の『戦艦武蔵』であったことからして、個人的な指向性とかぶる題材が多い作家であるなと思い、交流棟にずらり並んだ著作の数々には、あれも読んだ、これも読んだと思う一方、あれもこれも読んでないとも。徹底して記録に基づく取材を重ねるも、それを文学として成立させるところに個性を開かせた吉村昭作品には、これからも折々読んでいくことになろうかと思ったものでありますよ。

 

余談ながら、著作の並ぶ棚に新潮少年文庫の『めっちゃ医者伝』が無かったのは少々残念。ひっさしりぶりに手にとって見たかったのでしたが…。

ある作家が生み出した小説の登場人物があまりに魅力的(個性的?)であるがために、後の書き手が数多くパスティーシュを生み出すといったことはままあるにせよ、取り分けシャーロック・ホームズほどに新たな創造を掻き立てる存在である例は珍しいのではないですかね。1887年に『緋色の研究』で登場して以来、すでに138年が経過しているにも関わらず…と、そんなふうに思いましたのも、昨年(2024年)刊行の森見登美彦『シャーロック・ホームズの凱旋』を読んだからでありまして。

 

 

後の書き手たちによる作品には、本来のホームズものが推理小説であることを踏まえた謎解きミステリーであるものもあれば、そうでない(冒険小説っぽいといいますか)ものもありますですね。シャーロキアンとまでは言わずとも、ホームズものと聞いてついつい手を伸ばす読者の期待はおそらく前者にあろうかと。

 

あまりやりたい放題の展開にすると、怒り出す人たち(取り分けシャーロキアンか?)がいたりもするのではなかろうかと思うところですが、本書はかなり際どいような気がしたものです。登場人物はそのままの名前で、ホームズもワトソンもハドソン夫人もモリアーティ教授もアイリーン・アドラーまでもが出てきますけれど、彼らが動き回る舞台がなんとヴィクトリア朝京都であるというのですから。ホームズの住まい、すなわちハドソン夫人の下宿はベーカー街221Bならぬ寺町通221Bであったりして。

 

ワトソンがメアリと結婚してベーカー街を離れた後、ハドソン夫人の下宿に入ってくるのが自らの研究が絶望的に行き詰まっているモリアーティ教授で、絶不調のスランプ状態にあるホームズと互いの傷をなめ合うように同居するというあたり、原典から借りてきている器が多いだけに、まあ、読み手によってはにやりとする部分もそこここにある一方で、「いやはやなんとも」の感覚を抱くことにもなりましょうねえ。

 

ですので、あまりに原典との関わりを意識しすぎるのは本書の読み方としては適当ではないのかもと思うところです。希代の推理力を誇るホームズもスランプに陥ることはありましょうから、その人間らしさを小説として描くということがあってもいいのでしょうし、それ以上にホームズ譚の書き手であるワトソンの逡巡を描くこともまた小説としてあり得ることであろうと。

 

その点をさらに言えば、ホームズ譚を書いているワトソンを、登場人物として描きだしているコナン・ドイル自身の逡巡といいますか、もうひとレイヤー重ねるならば、ワトソンを書いているコナン・ドイルを想起させるように書いている森見登美彦の存在も想像の範囲に入ってきそうですし。

 

個人的にはストーリーそのものの面白さはともかくも、書き手(を書く書き手を書く書き手…)の悩ましさ、別の例で言えばエルキュール・ポワロという探偵役を決して気に入ってはいなかったアガサ・クリスティーのことを思い出したりもしますが、そんな要素のある物語を、原典から借りてきた登場人物たちをヴィクトリア朝京都という異相空間に落とし込んでどう落ち着かせるかに、興味を持ったと言えましょうかね。

 

ホームズという超有名人にはいろいろな活躍をさせたいといいますか、超有名人だから名前を借りてくればそれなりに面白くなりそうというか、ホームズがヴィクトリア朝ロンドンとは全く時空の異なる場所で活躍する話は、つい作りたくなるところなのでしょうか、ふと気づいてみれば『歌舞伎町シャーロック』なんつうTVアニメもありましたっけ。本書よりもさらにシャーロキアンの方々は怒りだしそうな話でしたけれどね。

 

ともあれ、京都に現れたり、新宿歌舞伎町に現れたりとシャーロック・ホームズの神出鬼没ぶりは時空を超える状況であるわけですが、ホームズを滝壺に落として一端はけりをつけたコナン・ドイルも、やがて復活させざるを得なかったわけですが、それ以上に、130年あまり後にもホームズ譚を書こうとする作家たちがいるほどのキャラクター創造をしたのだとは思っておらなかったでしょうなあ。しかも、そうしたパスティーシュが、映画やドラマなども含めてそれなりに人気を呼ぶことになろうとは…。

どうした具合でありましょうかねえ、どうにも風邪の抜けがよろしくないような…。やたら暑くなったかと思うと、それが落ち着けば体感的にはひんやりして…なんつう日々だからでもありましょうが、もしかして、またしてもコロナだったんではなかろうかとも。

 

このところ東南アジア方面ではまた新型コロナが再流行しているてなニュースを耳にしたりもしますし、これまでとは感覚的に症状が異なる気がするものの、相変わらず変異株(現在はオミクロン株に由来するXEC株とやららしい)が暗躍しているようですのでね。本当にコロナだったとすれば個人的には四度目の罹患ということになりますので、「いい加減にしてよ」と。

 

と、ひとしきりこぼしてしまいましたが、どうも今年2025年に入って腰痛やら風邪ひきやら、なんやかやでひたすら「養生に努める」時期が断続的に生じ、結果的に(ただでさえ運動不足をこじらせているのに)酷く体力が低下しておるなという事態なのですな。それだけに、多少なりとも動き回る(何せヒトは動物ですし)ことで回復を図らねばと思っておる次第です。で(やっと本題ですが)取り敢えず最も近くにある美術館を訪ねてみたというお話なのでありますよ。

 

 

覗いてきましたのは、東京・立川のたましん美術館(「たましん」とは多摩信用金庫のこと)で開催中の『対話する美のかたち~さあ、その眼で触れてみよう~』展というものでして、「コレクションと対話するようにして作品の鑑賞を体験していただきたいとの思い」が反映した企画であるそうな。

 

それにしても、「美術作品を鑑賞するというとき、私たちは何を、どのように見ればよいか戸惑うことがあります」とフライヤーに書かれているあたり、そもそも展覧会へ足を向けるかどうかの敷居になってもいようかと。そこへ、何かしらのヒントが与えられるとすれば、その敷居はいささかなりとも低くなり得るとは思いますし、洋の東西を問わず、古い作品と向き合うときには予め一定の知識を持って臨んだ方が理解しやすくなるのは事実でしょうなあ。

 

さりながら、この点にあまり気をまわし過ぎますと、知識を仕入れておかないと美術館に行けないてなことになってしまったりもして、にわとりが先か卵が先か、それが問題だとばかり、結局美術館に敷居を跨げないことにもなるような。

 

かねがね美術作品と相対するに、何をどんなふうに思ったとしても見る側の勝手と割り切っていいと、個人的には感じておりますだけに、あまりヒントに頼りすぎるのもなんだなあ…とも思ったり。その時々のヒントがよろしくないわけではなくして、ヒントが無いと分からないというふうになるとしたらどうよ?と。

 

今回のような展覧会を仕掛ける側としては、まずはヒントを頼りに作品と向き合ってみて「ふ~ん」とか「へえ」とか何かしらの感興が湧いたならば、次からは作品を見るにあたって自らヒントを創出して眺めてもらうようなことを考えているのかも。確かにその思惑に乗っかる鑑賞者も出てこようとは思いますが、何につけスマホでパパっと結果を求める傾向が世の中じゅうにあることからすれば、ヒントそのものを自分で創出するような方向に行くかどうか、少々危ぶんだりもするところでありまして。

 

同じようなことはクラシック音楽を聴くことにも通じておるように思いまして、この曲は…とか、この作曲家は…とか、この楽器は…とか、この形式は…とか、分かっていた方がより理解が深まるにもせよ、その音楽を聴く、あるいは美術作品を見るのは必ずしも「理解を深める」ためにやっていることではないはずですよねえ。

 

曲にしても美術作品にしても「ああ、きれいだな」「おお、すごいね」といった感情の揺らぎを入口にして、何かしらの思いが湧き起こったならば入口としてはそれで良いのではと。そういう点ではWikipediaの「芸術」という項目にある、こんな説明には「なるほど」と思いますですよね。

芸術(げいじゅつ、旧字体:藝術󠄁)またはアート(希: (η) τέχνη, tékhnē、羅: ars、英: art、仏: art、独: Kunst)とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。

必ずしも「わかる」「わからない」が肝心な点ではないと思い至りますと、それだけで美術展やら演奏会の敷居が低くなるような気がしますですよ。その上で、少しずつ少しずつ経験値と知識を(結果的に)積んでいけたらよろしかろうと思うわけで。

 

と、今回のたましん美術館の展覧会にはどんな作品があって、どんな印象であったか…てなあたりには全く触れずにおりますが、この展覧会に足を運んだ甲斐のひとつは、ここまで書いてきたあれこれを思い巡らしたということでもありましょうね。まさに覗いた甲斐はあったと思ったものなのでありますよ。