“銀板写真”を発明した19世紀の発明家の名を冠し…

Amazon Prime Videoのホームで膨大に紹介される映画タイトルの数々をぼんやり眺めておりましたところ、上のような紹介文(の一部)を見かけたことから、「おお、これは?!」と飛びついたものの、これはまったくもって早とちりでしたなあ。原題が「Daguerreotypes」となればなおのこと、写真術の草創期にダゲレオタイプを考案したルイ・ジャック・マンデ・ダゲールの伝記的な?と思ったわけでして。

 

 

見始めてから改めて邦題を気にかけてみれば『ダゲール街の人々』であったとは。先の紹介文もその先をちゃんと読むと、「…発明家の名を冠した通りには肉屋、香水屋…、様々な商店が立ち並ぶ。その下町の風景をこよなく愛したヴァルダが75年に完成させたドキュメンタリー作家としての代表作」とあることが知れたのですが…。

 

とまあ、そんな思い違いで見てしまった映画ですけれど、ことのほか興味深かったものでありましたですよ。ヌーベルバーグの先駆者的存在でもある(らしい)アニエス・ヴァルダの1975年作品ながら、日本公開は2019年であったようで、埋もれていた一作ですかね。

 

まあ、埋もれた理由には80分弱の短いドキュメンタリーで、それこそ邦題のとおりにパリの14区ながらごくごく普通の生活の営まれる街(つまりは観光客などがあまり来ないエリア)に住まい、それぞれに昔ながらの商売で暮らしている人たちを淡々と写し取っているあたりでもあろうかと。

 

ですが、それこそがこの一本を見てあれこれ思い巡らすよすがでもあるわけですね。1975年頃のパリの裏町、個人商店が立ち並ぶ街並みはそれこそ日本でも普通に見られた景観であったことでしょう。通りの両側に店がさまざま連なって、自分の店を一歩出れば近所の人たちの店の客にもなるというお互いさまの関係がそこにはあったのでありますよ。

 

ともすると噂話が絶えなかったり、今から考えると近所付き合いの濃さが煩わしいようにも思える反面、翻って考えれば現在、その手のことがなんと希薄になっていることであろうかとも。

 

かつては、どこの会社でも社員旅行があったり、社内運動会があったりと、それもまた福利厚生の一環として、社員によかれとして行われていたものですが、それがいつしか「仕事以外でも会社の行事かよ」と煩わしさの代名詞のようになっていった経緯がありますですね。

 

背景としては「個々それぞれに余暇の楽しみ方があるだから」と個に重きをおいたことで、個にこもる場面がとても多くなっていった(あまりいい表現ではないかもですが)。そのあたりの延長上が会社のみならず近所付き合いといったところにも及んだわけで。

 

近所付き合いの濃密さというのは、いわば相互監視組織たる戦時中の「隣組」を想起させたりするところ無きにしも非ずですけれど、濃すぎるのもどうかと思う一方、薄すぎるのも実はどうなのよと思うようにもなっている昨今です。社員旅行や運動会も、まったく知らない世代を挟んで、今やそうしたことが若い世代には新鮮に映る面もあったりすると聞き及べば、いずれにせよ「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのだなあと思ったものでありまして。

 

映画の中では、商店街のイベントといったらいいでしょうか、ある時ある店舗に有名マジシャンを呼んできてマジックショーが行われておりました。個人としてマジックショーが見たければ、いくらでも探し出して出向くことができるであろう現在とは違って、多くの人が喜ぶような企画を個人では叶わないイベントとして商店街なり、町内会なりが実現することに、ある種の意義はあったろうと。個人としてマジックを見ることの楽しさとはまた違うお楽しみとなったりもしましょうしね。

 

ともあれ、匙加減が実に難しいところながら、絶対に今がいい、昔がいいというのでないところに思いを至らせるものが『ダゲール街の人々』にはあったように思うのでありました。

先ごろ訪ねた市谷の杜 本と活字館はその存在を新聞で見かけた…と申したですが、見かけたのは6/22まで開催中の企画展の紹介だったような。印刷の工程を見せてくれる1階の展示とは別に、2階に上がると企画展スペースでもって「FANTASTIC!プロセスインキ」展をやっておりましたよ。

 

 

2月に始まって春休みやGWを挟んで6月までの会期とあって、フライヤーを見てのとおり、子ども連れにも分かりやすく「色にまつわる素朴な疑問にお答えします」というのが趣旨のようしたなあ。ともあれ、覗いてみたのでありますよ。

 

現在、もっとも一般的に用いられるオフセット印刷では、シアン(藍)、マゼンタ(紅)、イエロー(黄)、そしてブラック(墨)の基本の4色で色を再現しており、これら4色は印刷現場では「プロセスカラー」と呼ばれています。それぞれの色のアルファベット表記から「CMYK」の名でご存じの方もいるのではないでしょうか。
「FANTASTIC!プロセスインキ」は、オフセット印刷で使われるプロセスカラー=CMYK が主役の展覧会です。

ま、家庭用にせよ事務用にせよ、PCデータのアウトプット用にプリンターを利用していれば、もはやCMYKはお馴染みのこと。世に数多く存在する色のほとんどをこの4色の配合比率を変えることで再現しているわけですね。

 

 

 

ではCMYの3色を重ねると、それはもう「黒」でないの?という具合ですけれど、完全な黒とは別物ということで。CMY3色で印刷したものとCMYKで印刷したものとを比較しているものを現場で見ると、結構一目瞭然…ながら、この写真では右の方がシャープな黒が出ているのが分からないでしょうなあ、残念ながら。

 

 

ちなみにですが、「C」「M」「Y」がそれぞれシアン、マゼンタ、イエローなのはいいとして、ブラックは何故に「K」であるのか。さすがに「KuroのKでしょ?」とは思いませんでしたが、BLACKのおしりの「K」かなとは少々。正解は、印刷において黒=墨版は基本中の基本であることから、元来墨版を「Key Plate」と呼んでいたところから「K」はきているのであると。

 

ところで先ほど、世にある色の「ほとんど」をCMYKで再現していると言いましたですが、再現不可能な色(「特色」というそうな)もあるのですよねえ。分かりやすい例では、金色、銀色や蛍光色が特色に当たるようです。

 

 

CMYKの組み合わせでなんとかしようとしたところで、どう頑張っても金色は黄土色になってしまい、銀色は灰色になってしまうそうでありますよ。

 

ということで、いささか子供向けっぽい作りの展示ではありましたけれど、それなりに「ふむふむ」と思うこともありつつ見て回った次第。で、この展示コーナーの裏側には「印刷と本づくりを実際に体験し、モノをつくる場所」として制作室が置かれておりました。

 

 

適宜開催されるイベントの際にはあれこれの機材を使って印刷体験を…となるようですが、今回は飛び込みですので「卓上の活版印刷機(テキン)」なるものを使った栞作りだけやらせてもらえました。

 

 

手前に付いているハンドルを押し下げますと、下に隠れているローラーがせり上がってきて、丸い面にのせてあるインキをからめとって印刷できるという仕組み。これで印刷したインキは完全に乾くまでなんと!4日間かかるそうな。「こりゃ、商業印刷向きではありませんな」と、係の方に問いかけますと、「いえいえ、テキン印刷は手刷りの風合いが人気あるんですよ」とか。ちと、大量生産に毒された問いかけをしてしまいましたかね…。

先に新田次郎の『富士山頂』を読んだついでで、富士山本をもうひとつ。富士山に関わる本は比較的最近にも延暦大噴火を背景とした澤田瞳子『赫夜(かぐよ)』を読んだり、噴火の歴史を振り返りその痕跡を写真で辿る『10万年の噴火史からひもとく富士山』を眺めたりしてきているですが、このほど手にした『富士山噴火の歴史 万葉集から現代まで』はやはり噴火の歴史を辿るにせよ、ちと変わった趣向(?)でありましたよ。

 

 

富士山は地学的な研究によって何度かの大噴火が知られておりまして、延暦噴火、貞観噴火、宝永噴火などがあるわけですけれど、ここではそうした大噴火そのものを扱うのではなくして、大噴火と大噴火の端境期、富士山が大なり小なり噴煙を上げていた時期(あるいは噴煙を上げていなかった時期)はいつ頃であったろうかということを考察しているのでありますよ。

 

ヒトの感覚では大噴火の兆候を窺えず、静かな山だな…と思っていたところが突如大爆発!なんつうことも、2014年の御嶽山のように現実にあるわけですけれど、大抵は「まだまだ大噴火する気概を失ってはおらないけんね」という意思表示を、日頃の噴煙という形で表している山もありますですね。鹿児島の桜島とか関東では浅間山とか、箱根の大涌谷あたりもですかね。

 

この手の意思表示がある山ではそれなりの警戒心を持って臨むことになりましょうけれど、およそ富士山に噴煙とはぴんと来ない現状になってはいるものの、かつてはそうではなかったであろう、何しろ大噴火していたわけだし…ということで、いったいいつ頃の人たちは富士山の噴煙を見ていただろうかというわけですね。

 

古くから科学的な見地に立った観測記録が残るでなし、いったい何を拠り所に?と思うところですが、タイトルに「万葉集から…」と添えられておりますように、いわゆる古典籍、古文書の中の記載を頼りに見当していこうと、まあそういうことのようで。

 

ですので、先史時代のことは当然わからないわけですが、その後のことをざっくりと言ってしまえば、延暦噴火、貞観噴火のあった平安期は結構噴煙を上げていたようでありますねえ。もちろん、この時期は歌集が多く編まれたり、例えば『更科日記』など文章も多く残されているので、記載事例そのものが多いともいえましょうけれど。

 

ちなみに『更科日記』では父親・菅原孝標の任地であった東国・上総国から京へと還る道すがら、噴煙立ち上る富士の山を作者は眺めていたようで。こんな記載だそうです。

富士の山はこの国(駿河)なり。…山のいただきのすこしたひらぎたるより、煙は立ちのぼる。夕暮れは火のもえたつも見ゆ。

日が暮れると火柱も見えるほど、荒ぶる富士の姿が思い浮かぶところではありませんか。平安時代を通じて噴煙を上げ続けていたとは言い切ることはできないものの、その頃には富士と言えば噴煙を上げているものというのが一般的な認識だったようですな。そのことは数々の歌に詠まれているところから想像されると。

 

平安期に和歌にはいわゆる恋の歌が多いわけですが、恋に燃え立つ心の様を富士に擬えて詠まれていたといいます。例えば『古今和歌集』にはかような歌があるようで。

人しれぬ思いをつねにするがなる富士の山こそわが身なりけれ よみびとしらず
君といへば見まれ見ずまれ富士の嶺のめづらしげなくもゆる我がこひ 藤原忠行

その後、鎌倉時代に至るも燃え立つ富士は一般的であったようながら、室町期にかけてだんだんと沈静化していき、宝永噴火を予測させるのように江戸の初めにはまたもくもくするも、やがて富士に煙の見えるケースは失われていったようで。

 

19世紀になって富士の姿をあちらからもこちらからもと、葛飾北斎が描いた『富嶽三十六景』や『富士百景』にはいっかな噴煙を上げるようすは現れないですしね。もうずっと、富士と噴煙が無縁であるように現代人が思うのは、自ら実見することが一切無いばかりでなしに、江戸時代という古い時代の絵を見ても穏やかな(?)富士しか見られないことによるのかもしれませんですね。

 

ただ、本書に曰く北斎作品にも富士の噴煙と思しきものが描き込まれている作品があるということでして、それが『新板浮絵忠臣蔵』の「初段鶴ヶ岡」であると。本書所載のモノクロ図版ではうすぼんやり感が漂っていましたので、「浮世絵検索データベース」を覗いてみることに。

 

同サイトにこの作品はいくつかのバージョンがアップされていましたが、富士山自体を消してしまっているものもある中、姿が見える方では火口から直接ではないものの、空にむかってもやもやと噴煙が上がっているように見えなくもない。

 

本書では、葛飾北斎が富士の噴煙を実見したわけではなくして(幼少の頃の可能性が全くないわけではない)、赤穂事件が起こった頃(18世紀初頭)には噴煙を上げていたと伝え聞いたことによるのではとも紹介されておりましたな。富士そのものが描かれないバージョンがあるというのは、後々、この絵を見る人たちの時代には富士の噴煙は一般的でなくなっていて、カットされたのかも…とは勝手な想像ですが。

 

てなことで、今や富士と噴煙は全く結びついてはおらないわけですが、気象庁HPには富士山が日本に111ある活火山のひとつであることが示されておりますね。そもそも地震学者であるという本書の著者によれば、東日本大震災の四日後に富士山直下でマグニチュード6.4の地震が発生していたのだとか。

 

未曾有の大災害を前に、富士山直下地震には全く気付いておりませんでしたが、眠れる富士(のように見える状態)を揺り動かして目を覚まさせる要素はあるのかもしれませんですね。あまりとやかく言いだすと不安を煽るデマみたいになってしまいますので、この辺にしておきますけれど…。

これまでに凸版印刷が手掛ける印刷博物館には何度か立ち寄ったことがありました(そのうちの何度かはトッパンホールの演奏会ついでですが)。が、業界トップに並びたつ大日本印刷の方にも資料館のようなものがあるのではなかろうかと思っていたのですよね。

 

銀座にグラフィック・ギャラリーを持っているとは知っておりましたけれど、本社のある市ヶ谷に「市谷の杜 本と活字館」なる施設があるとは、先ごろになってようよう新聞で見かけたのでしたか…。ですので、都心のサントリーホールに出たついでに覗いてみたのでありますよ。

 

 

聳えたつ本社ビルの手前、レトロな洋館風の佇まいを見せているのが本と活字館でして、そもそもは大日本印刷の前身会社が1926年(大正15年)に建てた印刷工場の表玄関というべき建物とか。

 

 

「戦時中の空襲にも耐え、ずっとこの地にあり続けました」という紹介は、ことのほか印象的なような。何せ、市ヶ谷だけにすぐ近くには防衛省(かつての陸軍省)があるものですから…。ともあれ、中へ入ってみましょう。

 

 

先に大日本印刷の前身会社が云々といいましたですが、元々は秀英舎と日清印刷という二つの会社が1935年(昭和10年)に合併してできたのが大日本印刷であると。ですが、元の会社のひとつ、秀英舎の「秀英」というところに「ん?!」と。お隣のコーナーですぐに謎解きはされるのですけれど。

 

 

そうそう、フォントの名称でしたですねえ、「秀英体」。秀英舎の秀英でしたか。基礎的な活字書体として現在は数多くあるデジタルフォントにも影響を与えたという秀英体。それだけにこの施設が「本と活字館」という名称で、本の制作過程を紹介するに展示は「作字」から始まることになるのでしたか。

 

 

それにしても、印刷技術はグーテンベルクが15世紀半ばに活版印刷術を発明して飛躍的に進歩したわけですが、以来500年にもわたって活字造りが続けられてきたことになりますな。印刷が便利になったとは思っても、活字造りの大変さまでには余り思いを致したことはなかったような。「1文字ずつ、原図を描いて「型」をつく」ることから始まるのですものねえ、大変な作業でしょう。

 

 

描かれた原図を基に、活字パントグラフ(母型彫刻機)という機械で活字の原板?を作るそうですが、機械の肝心要の部分に寄ってみますとこんな具合です。

 

 

今ならばコンピュータ利用でささっと…てなふうにもなりましょうが、コンピュータの無い時代ですから精密加工技術の極みで作り出していたのでしょう。にこだわりを見せている由縁だったのですなあ。

 

母型ができると実際の活字を「鋳造」する段階に。であったとか。その際に肝心なのが活字の高さを均一にするということ。「高すぎると文字がつぶれ、低すぎるとインキがつかずに文字抜けの原因とな」ってしまうということで(ちなみに、普通「インク」といいますが業界用語的には「インキ」だそうです)。

 

と、ここまでの活字作りは印刷作業の下準備ですな。実際の印刷に掛かる最初には「文選」という作業があると。いわゆる、活字拾いですな。

 

 

熟練の職人さんの文選を見て、活字拾いをやってみようコーナーみたいなのがありまして、なんとはなし、単純作業だし簡単なんじゃあないかという想像はとんでもない誤りでしたですよ。とにかく活字の量が膨大で、「使用頻度ごとに区分され、文字種・部首順に棚に配列され」ているとはいえ、見つけるのに時間がかかり過ぎてあっという間に降参!です(苦笑)。

 

で、拾った活字を印刷物のページの形にくみ上げる作業が「植字」ということで。サンプル、1ページ分として仕立てのがこちらになります。

 

 

「印刷すると余白になる行間や文字間も、すべて金属で埋め尽くし」、1ページ分まとまると崩れないように外枠をタコ糸で縛るのだそうでありますよ。

 

 

版ができたら、いよいよ「印刷」。「校了した組版を、8ページや16ページなどの複数ページ分を印刷機に組み付け」ると。これは次の工程になる「製本」にも関わる点でしょう。こちらは、その「製本」の作業自動化に力を発揮した糸かがり機だそうで。

 

 

「印刷した用紙を折ってページ順に並べた「折丁」の背に糸を通し、1冊分の本を縫い合わせる機械です」ということですが、どうにも縫製工場の機械としか見えませんですなあ。「糸かがり綴じは上製本に多く用いられ、開きやすく、耐久性のある本ができ」るのであると。

 

 

てなことで、本のできる工程を興味深く見て回ってきたですが、実はこの施設は2階にも展示があるのですなあ。お次はそちらの展示を振り返ることにいたしましょうね。

古代史に興味があって、時折古墳を訪ねに出かけたくなる…と、今ではそんなふうに言ってしまうのですけれど、元々古代史に興味がある、だから古墳にも行くという流れでは無かったのだったなあと、今さらながら。

 

古墳を見に行くようになって古代史への興味が高まったというのが実際でして、では何故に古墳に出かけるようになったのか、そのきっかけは?と思い返せば、実はそこに日本の歴史とはおよそ関わりないものがあったわけなのですね。

 

今を去ること13年前ですので、2012年の夏に北欧、スウェーデンへ出かけた折りのことです。首都ストックホルムの近郊にウプサラという古い大学町がありまして、大学図書館に展示されている「銀文字聖書」を見に行ったりしたのですけれど、そのほんのついで、ガムラ・ウプサラ(ガムラは「古い」という意味ですので、古ウプサラですな)というスウェーデン古代の遺跡にも立ち寄ってみたわけです。

 

そこで見たものはただただ草っぱらが広がるところに大きな土饅頭がぽこっとぽこっと連なっている。それだけといえばそれだけなんですが、なんだか妙に「遠くから来た甲斐があった」と思えたものだったのですなあ。で、その後になってようやって日本にも古墳というものがあったではないか…と、日本の古墳を見に行ってみたという次第。だから日本の古代史への興味は後付けなのでありますよ。

 

ともあれ、一方では北欧古代史にも些かの興味を抱いたとなれば、気になるのは(言葉としてはよおく知られる)ヴァイキングですな。で、翌2013年の夏に今度は、ノルウェーのオスロでヴァイキング船博物館を覗いたりも。

 

とまあ、そんなこんなのこともあってヴァイキングにもまた関心がある…という背景を長い長い前置きにしましたけれど、ここからが今日のお話。Amazon Prime Videoで『VIKING バイキング 誇り高き戦士たち』てな映画に行き当たり、見てみたということでして。

 

 

タイトルからして当然に?いわゆる北欧の歴史の一端に触れるものと思っていたですが、のっけから思惑違いと知らされることに。手っ取り早く「映画.com」の紹介を引いてみますとこんなふうで。

大国ロシアの礎を築いた男たちの壮絶な戦いを描き、2016年ロシア映画興行収入第1位を記録した歴史劇。西暦800年代後半。リューリク一族率いるバイキングがキエフを制圧し、その地をルーシと称するように…。

リューリクといえば、ロシア史の始まりの方で必ず目にする名前ですけれど、「この人、ヴァイキングだったの?」と。なんだかイングランド史のノルマン・コンクエストにおけるノルマンディー公ウィリアムみたいではありませんか。

 

と言っても、イングランドの場合は後継者争いを力でねじ伏せ片を付けたようなものですけれど、ロシアの方はスラブ人同士の争いが絶えない中、スラブ人の側から頭にいただく人物をという求めに応じてやってきたのがリューリクであったとも(神話の域を出ない話でもあるようですが)。

 

そんなリューリクの時代から100年ほど後、キエフ、ノブゴロドといったスラブ人の地はヴァイキング由来の統治者が大公として統べていたわけですが、三人息子を残してスビャトスラフ大公が亡くなると、兄弟の間では血で血を洗う争いとなっていく…というあたりは、この映画のストーリーでありましたよ。

 

いつの頃からか、古代史題材の(外国の)映画ではどばどばと血が飛び交ったりする残虐シーンが多々見られるところですが、本作もまた。ま、アクションといえばアクションとも言えるでしょうけれどね。ロシア映画(結局のところ、本作はロシアの映画だった…)でも同様ということかと。

 

こういっては何ですが、「そもそもそうだったのであるか?!」という点では「ほお!」だったものの、映画としての出来がよろしいかといえば、「うむむ…」でしたな。三人息子の末弟、勝ち残ったウラジーミルがそれまでの戦いのあけくれを倦んで?正教会に改宗することになって、平和の道筋が示されましたとさ…となる流れはもそっと描きようがあったろうなと思いますし。

 

それにしても、スラブ人の地にある程度の安定をもたらして聖公ウラジーミルとも呼ばれる統治者と、同じ名前を持つ人物が今のロシアの大統領なわけですが、スラブ系の人たちの暮らす土地の安定を導く術は現状のような形しかないのでしょうか…。

 

ロシアでは2016年に公開されて「興行収入第1位」とフライヤーにありますけれど、聖公ウラジーミルのふるまいを見た、多くのロシアの人々にしたら、別のウラジーミルの行いがどう映っているか、気になるところではありますねえ。