海外のミステリードラマを好んでよく見るのですけれど、今では視聴する術はいろいろ選べるようになっているところながら、相変わらず「スカパー」(CS放送)の「ミステリーチャンネル」頼みなっているのは、偏に他ではあまり見られない(であろう)さまざまな国のドラマを取り上げているからといえましょうか。

 

イギリス、フランスを中心にアメリカ、イタリア、ドイツ、そして北欧と、欧米圏に偏ってはいるものの、それぞれの国にドラマ作りの個性があることが分かったり、見ていると俳優陣に見知った顔ぶれに何度も出くわすようになったりも。ただ、何故に海外のミステリードラマを好んで見るのであるか…と自問自答しますれば、それは舞台となるローカルな街の風景がいろんな面から見られるのが「いいね」ということでもあろうかと。普段着の町のようすとでもいいますか(もっとも、やたらに殺人が起こる設定ですが)。

 

日本のミステリードラマ(いわゆる2時間ドラマ)でも、舞台となるのは東京ばかりではありません(なぜか京都が舞台というのは多いですなあ)が、ローカル密着で行くよりは旅情ミステリーなどのように転々を場所を変える(あたかも、というより確信的に観光地を紹介して回る)作りが多いような気が。

 

それに対して、海外の方は広く知られた観光都市とは異なる、ともすると「なぜこの場所?」とも思うところを舞台にしていることが多い。ま、それを楽しみとして見ている者がここにいるということは、まあ、他にもいると考えるべきではありましょうけれどね。

 

とまた前置きが長いですが、やはり「ミステリーチャンネル」で先ごろ放送されたドイツの『警部ベリンガー バンベルクの事件簿』というシリーズを見ておりましたところ、やおら「アントニウスの火」を扱った事件が登場したのでありますよ。

 

ご存じのように「アントニウスの火」は麦角菌による中毒症状を喩えて言ったものですけれど、中世ヨーロッパでさまざまな疫病が発生した中、この麦角菌中毒もまた猖獗を極めたものでしたなあ。

 

そのあたり、かつて南西ドイツを旅したときにちょいとライン川を渡って立ち寄ったフランス・コルマールウンターリンデン美術館で見たグリューネヴァルトの「イーゼンハイム祭壇画」のにも描きこまれておったなあと。

 

ですが、そうした作品を見るにつけ、また「アントニウスの火」という喩えようからしても、麦角菌中毒は中世のものであって、もはや無いものくらいに思ってしまっておりましたので、先の番組で扱われたことで改めて「まだあるのであるか…」と改めて。

 

やはりかつて世界中にパンデミックを引き起こしたペストの方も、公衆衛生の状況が大幅に改善されたおかげもあって発生の話は聞きませんけれど、今も特効薬のようなものは無いそうありますね。ありがたくない余談ながら…。

 

ともあれ麦角菌の方ですけれど、此度の気付きから少々探索(要するにネット検索)してみますと、イネ科の植物に感染し、これをヒトが食すると重篤な中毒症状を呈することになるそうな。イネ科といっても、米のなる稲そのものより麦系の植物の方がかかりやすいようで、中世では感染したライ麦から作ったパンを食することで多くの被害がでたようすでありますよ。

 

ドラマの中では麦角菌に感染した麦を育てている犯人が出てきたですが、これを丸呑みにするのも如何なものかながら、そうした状況が絵空事でないとすれば、麦角菌もまた今でも生きている…となりましょうね。

 

コロナ(こちらは細菌ではなくしてウィルスですが)は相変わらず変異を続けているようですし、思いがけずも(昔、保健の授業でその名を聞いたくらいの)百日咳(これは細菌)が流行していたりすると聞きますですね。人間がヒトにあだ名すものを駆逐せんとすればするほど、鳴りを潜めていたものや新たな脅威が等々に発生したりもする。運命論者ではありませんが、ヒトもまた自然の摂理の中にいると気づかせんがためであるか…とも。

 

ドラマの中の麦角菌栽培者ではありませんが、ヒトの手でつくりだす(繁殖させる)ことはできても、一朝何かしらのことで制御できなくなるようなこともありましょう。つくづく驕りは禁物であるなと。暗に原子力のことを言っているわけでもないのですけれど…。

先日、映画『オーケストラの少女』を見たところで指揮者レオポルド・ストコフスキーに触れましたですが、新しいメディア指向のある?ストコフスキーだけに、他にもディズニー映画の『ファンタジア』に、あたかもシルエット・クイズのような姿で登場していたのは知っていたものの、もうひとつ、『カーネギー・ホール』なる映画にも出演していたようで。せっかくですので、これも見てみることにしたのでありますよ。ああ

 

ああご存じのとおり、カーネギー・ホールはニューヨーク・マンハッタンにある音楽ホールですけれど、アメリカ金めっきの時代に巨万の富を築いて鉄鋼王と言われたアンドリュー・カーネギーが建てたのでしたですね。

 

鉄鋼業で儲けた資金でコンサートホールを造るとは、東京の日本製鉄紀尾井ホールの如しとは思うところながら、規模が全く異なっておりますなあ。ですが、カーネギーが立ち上げた鉄鋼会社を淵源のひとつするUSスチールが日本製鉄に買収されるてなことになっているのは、世の移り変わりの故でもありましょうか。完全に余談ですが…。

 

ところで、カーネギー・ホールのこけら落としは1891年、何と!晩年のチャイコフスキーを招聘して自作の指揮で幕を開けたのであるとか。何だか俄然、由緒感が漂ってきたような。で、映画のお話はこの公演当日、移民船でアイルランドから到着したばかりの少女ノラが縁あって演奏を耳にし、音楽の、というかカーネギー・ホールのというか、その虜になってしまうという発端で。

 

長じてカーネギー・ホールで清掃業務に勤しむようになったノラはピアニストと恋に落ち、一粒種のトニーをもうけるや、トニーがいつしかカーネギー・ホールの大舞台でコンサートを開く姿をひたすら思い浮かべ、音楽教育を施すことになっていくのですな。このあたりだけを見ると、いやはやなんとも、叶わなかった自らの夢を息子に押し付けるかのようでもあり、過干渉な教育ママ以外の何者でもないようであったり。

 

あるときまではいい子いい子でピアノに向かうトニーも、ジャズなどの刺激的な音楽に取り巻かれたニューヨークにあって、自らの道を見出すように。当然に肯んじえないノラとは疎遠になって…。

 

ま、最後の最後に思わぬトニーの凱旋公演となって(ここでストコフスキーが実にいい役まわり)めでたしめでたしとなるとは、さほど驚くにあたらない展開で、話としてはそれなりとも言えようかと。

 

さりながらこの映画の価値?は、1947の映画製作当時、カーネギー・ホールを舞台に活躍していたクラシック演奏家、いわば往年の巨匠たちの姿をしっかり、たっぷり収めているところではなかろうかと思うのですよね。個人的には、ブルーノ・ワルターがマイスタージンガー前奏曲を振っているあたりで、「おお!」と乗り出してしまいそうに。

 

指揮者のワルターやチェロのピアティゴルスキーはもっぱら演奏を記録的に収めたというふうなのですが、中にはセリフ持ちで出演している演奏家たちもいろいろと。ストコフスキーがいい例ですけれど、その他にも、ピアノのアルトゥール・ルービンシュタインやヴァイオリンのヤッシャ・ハイフェッツ、指揮者のフリッツ・ライナーとか。

 

取り分け、謹厳実直そうな容貌がともすると猛禽類を思わせるフリッツ・ライナーまでがセリフを語っておる(少ないですが)あたり、印象がちと変わるといいましょうか。一方で、ルービンシュタインとハイフェッツはそのセリフが映画の筋とも大きく関わる、つまりは役者やってる感があったものまた新鮮で。

 

思うに、(『オーケストラの少女』のところでもちと触れたことながら)アメリカでの成功に秘訣のひとつなのでもあるかな、メディア露出を厭わぬ姿というかキャラクターは。返す返すもフルトヴェングラーには難しいことのように思え、やっぱりドイツにいるべくしていたのであるかとも。

 

てなことで、往年の巨匠たちの思わぬ側面を垣間見るかのような映像が見られる映画『カーネギー・ホール』、ある意味で貴重な作品なのかもと思ったものでありましたよ。

…ということで、2016年の5月から8月あたまにかけて、いっときgooブログに書いていた記事を(同ブログのサービス提供終了を前に)こちらに移し替える作業が、午前中に終わりました。

 

もとよりgooブログでも、できるだけ簡単に引っ越しができるようにと、アメブロとはてなブログを転居先とする引っ越しデータ作成ツールを設けているようですけれど、引っ越し先に新しくIDを設定して全面引っ越しされる方を想定しておろうかと。すでにアメブロのIDホルダーとしては、一部の過去記事を既存ブログに突っ込む形になりますので、ツールに頼らず励んで負った次第でありますよ。

 

思ったほどに量がありませんでしたので、文章はHTMLデータでコピペして、「こりゃあ、思ったより早く終わりそうだ」と踏んだものの、気付いてみれば挿入してある画像は文章ともども持ってこられているようでいて(当座、プレビューすると表示されますし)、その実、画像データ自体はgooブログの方にアップロードされている。つうことは、今現在は表示されていても、11月以降、完全にサービス終了となった暁には表示されなくなるのでもあろうかいね…と。

 

そんなことに気づいたものですから、画像の移し替えにちと時間を要してしまい、結果、丸二日のお休みを頂戴することになってしまったという。もっとも、この間、ただただひたすらに移し替え作業に勤しんでいたわけではなくして、2016年当時、今から9年前にもなりますか、その頃に書いていたことをついつい読んでしまっていた(予め予想はしておりましたが…苦笑)からこそ、余分に時間を要したのでもあるのですな。

 

ですが、自分でいうのもなんですが、というより自分で書いているので当然でもありましょうけれど、あれこれの話が「おお、そうであったなあ」と興味深い。ま、興味があって見聞したあれこれを書いているわけですのでね。ですから、これまた当然に誰にとっても同様に興味深いものとまで言うつもりは毛頭ないですし(笑)。

 

ともあれ、サイドバーにある「テーマ一覧」に「gooブログ移転記事」として持ってきた58本、こんなのも残す?というへたれ記事もありますれど、取り敢えずは事前に救出できたことを寿いでおる次第です。ということで、明日からまた従来どおりということに。どうぞよしなに願います。

先に読んだ『よもやま邪馬台国』に紹介されていた話として、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(弥生時代後期)のことがありました。円形の墳丘の両側に方形突出部があるという、独特な双方中円形の墳丘墓は古代にヤマト王権とも拮抗しうる一定勢力のあったであろう吉備国の王墓ではないかと言われる遺跡ですけれど、1970年代の団地造成にあたって二つの方形部がざっくり削り取られてしまったそうな。

 

遺跡の保存と土地開発は常に、ともに相成りがたい状況に置かれていて、まあ、ここだけの話ではありませんし、保存優先をあまりに声高に叫んでは、例えば奈良県とか九州北部とかでは土地利用におよそ手出しができないことになりましょうしね。

 

だいたい歴史は代々の遺跡を常に上書きする形で進んできたわけながら、後々になって遺跡・史跡を保存する動きが出てきて、昔をしのぶよすがが残されることになって、両者の折り合いは難しさを増しておるような。

 

と、実はここでは遺跡の保存という話が目的ではありませんで、世の中にあるさまざまなものには浮沈があるのであるなあ…てなことでして。遺跡と引き比べるのはかなりお門違いとは知りつつも、今では「SNS」のひとつとされる「ブログ」というメディアもすでに斜陽化の道を進んでおるのでもありますかねと思ったりしておりまして。

 

と言いますのも、ブログサービスでは老舗感のある「gooブログ」が2025年11月でもってサービス終了となると聞き及んだもので。9年ほど前になりますか、ちと気分を変えたい衝動にかられ(とは大袈裟ですが)一時アメブロを離れてgooブログに引っ越していたことがあったもので、その頃に書いたあれこれがこのほどのサービス終了で文字通り?雲散霧消するというお知らせメールを頂戴したもので。

 

まあ、日本では2000年代初めに各種ブログサービスの提供が開始されましたですが、それから20年余りが経過する中、どこの誰にでも情報発信が可能というメディアは新しいものが数多く誕生してもおり、ブログという形が些か古くなってきてもおるところなのでしょう。これも、時代の推移でありましょうねえ。

 

というところで、「何を今さら」感はありますものの、かつて数か月ほどながらもgooブログに残したあれこれ、ここで一応、こちらのブログの中へこっそり忍び込ませておこうと考えた次第。さくさく移転すれば大した手間ではないのでしょうけれど、断捨離に際してあれこれ眺めてしまってどうもはかがいかない例にも似て、自らが書いたものながら読んでしまうだろうなあと思えば、それなりの時間がかかりそうと踏んでおりますよ。

 

ですので、片が付くまで少々のお休みを頂戴いたしたく存じます。ま、先行き不透明ながら、また近々お

目にかかれることを楽しみにいたしております。ではでは。

2020年6月から22年9月まで東京新聞(と中日新聞)に週一で連載されていた『よもやま邪馬台国』というコラムを興味深く読んでいた時期がありました。連載途中で気が付いたもので、終了後にこれが一冊の本にまとまったと知ったときには「そのうちに読もう」と思っていた次第。

 

にしても、何故「そのうちに」であったかと申しますれば、話の中に出てくる遺跡や資料館、読んでいるとあそこもここもと行きたくなってしまうこと必定だと踏んだものですから、折を見てということに。さりながら、読書遍歴の流れの中で先日に映画『まぼろしの邪馬台国』を見るに及び、「そろそろか」と。

 

これだけ暑い日々にあっては遺跡巡りに向く季節ではないものの、書籍にまとまって刊行されたのが2023年6月で、発掘やら研究成果やらが日進月歩なこともあり、最新事情が様変わりしてしまう前にと手にしたわけでありますよ。『よもやま邪馬台国 邪馬台国からはじめる教養としての古代史入門』という一冊です。

 

 

予め連載に接しておりましたので、読みやすさ一入であることは承知していましたけれど、なんとまあ、とっつきやすい語り口であることか。そも研究者が書いた研究書ではありませんので、だからといってどこぞのライターが思いつきの持説を展開するようなものと違っている。では、どんな内容であるかといえば、版元・梓書院の紹介にはこのように。

本書は、特定の説に偏るのは避け、何につけても「諸説あり」の邪馬台国ワールドを、ありのままに楽しんでいただくことを念頭に取材・執筆された一冊。本文中には、さまざまな説を唱える学者や在野の研究者らが登場する他、邪馬台国をめぐる「よもやま話」というタイトルの通り、取り扱う時代の幅も少し広げ、どこまでが史実か判別し難い伝承や地元に残る伝説なども取り上げる。

魏志倭人伝の記載をそのままに、現代の感覚でルートをたどれば「邪馬台国は太平洋の海の中?!」とも受け止められるだけに、それこそ『まぼろしの邪馬台国』を遺した宮崎康平のように邪馬台国探しに執心する人たちは学者以外にもたくさんいるのでありましょう。

 

大方としては九州説と畿内説があるとはよく知られたされたところで、朝鮮半島が目と鼻の先である九州北部に分があるように思うところが、纏向遺跡の発掘が進むと「やっぱり!」とばかりに畿内説が盛り上がる。その一方で、東遷説というのもあるのだそうですなあ。

 

九州北部に割拠する国々に争いの絶えない状況が続き、これではいけんとシャーマンとして実力が広く知られた卑弥呼をそれぞれの国々が持ち上げて卑弥呼を長とする「倭」連合国が生まれるも、範囲は九州にとどまらなくなって、卑弥呼(のクニ)は大和に東遷することになったてなふうに。

 

かなり著名な研究者の方も提唱されている説のようですが、九州の地の利と大和・纏向遺跡の発掘結果との折り合いをつけるためであるか…?なんつうふうにも思えてしまう気がしないではないですなあ。

 

ところで、この時代(弥生末期から古墳時代初め)のことを分かりにくくしているのは、中国史書が語るところと、後に編まれた『日本書紀』などが語るところとが併存していることでありましょうかね。

 

もちろん神話の語りをそのまんまに受け取ることはできないわけで、どちらかと言えば中国史書の方こそ信憑性のあるように思えるところかと。さりながら中国史書の方も結局は後代の写本頼みなわけで、そもそも卑弥呼が魏に遣いを送ったというのも、景初二年(238年)とあるのは景初三年(239年)の写し間違いではないかと言われていたり。

 

なんとなれば、景初二年段階では魏の朝鮮半島出先機関である帯方郡は乱の最中にあって、ここを経由する使節派遣はとても無理だったろうとされていたりもするわけで。その一方で、神話は神話と切って捨てるわけにもいかず、話はだいぶ作りこんであろうものの、その中には実際の歴史の名残のようなものが紛れ込んでいたりもするのでしょうしね

 

福岡県糸島の平原遺跡(邪馬台国時代では伊都国の範囲)では直径46.5㎝ほどの大きな銅鏡(内行花文八葉鏡)が出土したそうですが、これの外周を測るとまさに「八咫鏡」(と同種の鏡)なのではないかと(「咫」というのは長さの単位だそうな)。

 

神話では天照大神が瓊瓊杵尊に授けた三種の神器のひとつであって、これを縁に万世一系の天皇の歴史が語られていくわけですが、天からの授かりものが要するに天帝(を祀る国、つまりは中国)からの賜りものだったというふうにも考えられるでしょうしね。

 

といいつつ、日本神話のことはほとんど知らないもので、歴史との整合という点では、卑弥呼という人物は神功皇后に擬えているようですな。朝鮮半島との関わりの深さを膨らませて結びつけたのでしょうけれど、神話が語る天皇の歴史となんとか合わせるにしても、卑弥呼の時代とは100年余りも開きがあっては、なかなか得心しにくいところではなかろうかと。

 

ということで、(先にも申したことながら)この分からなさが古代史の魅力ともなっておりますですね。で、ただただ興味本位の素人が遺跡やら古墳やらを実際に目の当たりにして何かしらの発見があるはずのないのですけれど、それでも「行ってみたいものであるな」感がむくむくと湧きおこるのをどうしたものか。またいつかそのうちに(笑)。