先ごろ訪ねた「JICA地球ひろば」の展示では世界に現前する課題としてさまざまな項目が挙がっていたわけですけれど、その中で「食」の問題はヨソサマの問題とばかり行っていられない身近さが感じられるものではなかろうかと。

 

 

「食」に関して問題提起されるポイントはいろいろありましょうけれど、ここでは良し悪しはともあれ、現在の「食」はグローバル規模で繋がっていることと大きく関わっておりますな。

 

 

結果として、日本の食料自給率は左上のグラフに見るように右肩下がりで推移しているわけで。2022年段階で38%であるという日本の食料自給率が、1965年段階では73%であったとは、この間に日本人の食の多様化がどんどん進んでいったこともありましょうけれど、なんだか減反政策と関わりがありそうな気がしてしまいます。ちと、上の解説パネルの左下部分をクローズアップしてみましょうかね。

 

 

これ(1975年と2020年の比較)によれば、日本の農地面積は607万haから435万haへと確かに減少している一方で、米の消費量の比較では112㎏/年から50.9㎏/年と半減していると。これだけ米の消費が減っているのだから農地面積が減少しても…なんつうふうに思ってしまうところながら、農地=稲作の田んぼではないわけで、減反政策には米から他の作物への転換も含まれているはずですし、現に今、統計上で米の消費が減ってきたといっても米不足という形が立ち現れているのをどう考えようかいね…と思うわけです。

 

と、この話は今現在の時事的話題とひどく近しいところなだけに敢えてここでは深入りしませんですが、もう一つ、別の観点で「食」の問題として提起されていた点がありましたですよ。一番上の写真で(見てとりにくいですが)手前のテーブルには、こんなフライヤーが置かれていたのでして。

 

 

消費者庁が配っている「食品ロスを減らしましょう」という告知でして、食料自給率が低い=輸入に頼っているわりには、無駄にしてしまっている食品が非常に多いのですよと(ま、日本だけの話ではありませんが、それはそれとして。だからいいとはなりませんでしょうし)。

日本では、まだ食べられるのに廃棄される食品、いわゆる「食品ロス」は472万トン(農林水産省及び環境省「令和4年度推計」)。 これは、世界中で飢餓に苦しむ人々に向けた世界の食料支援量(2023年で年間370万トン)の約1.3倍に相当します。 また、食品ロスを国民一人当たりに換算すると"おにぎり1個分(約103g)の食べもの"が毎日捨てられていることになるのです。(消費者庁HP)

ですが、無駄なことをしているのは、例えばコンビニの恵方巻とか作っちゃったけど消費されずに廃棄なんつうのが多いのではないのかいね。個人的には買ってきた食べ物を捨ててしまうというのはそうそうあることではないような…と思えば、現実はそうではないようで、「食品ロスの約半分は家庭から」(消費者庁フライヤー)出ているそうなのでありますよ。

 

捨ててしまう理由としては「食べきれなかった」「傷ませてしまった」「賞味・消費期限が切れていた」というのがトップ3ですが、どうも背景には買いすぎがあるのではと(個人的には大容量とか、およそ買わないものでして)。

 

ともあれ、食品廃棄には副次的にゴミの問題も生じることになりますですね。ゴミ問題に関わるとなれば気候変動にもつながってくると、意識の広がりに言及しているのが、読み終えたところのちくま新書の一冊『私たちは何を捨てているのか』でありました。

 

食品ロスを出すということは、生産や輸送で温室効果ガスを排出してきた食品を無駄にし、生ゴミの埋め立てや焼却の過程でも温室効果ガスを発生させるため、二重に気候変動に加担することになる。

個人個人のレベルでは、例えば(消費者庁フライヤーの裏面にもありますが)「消費期限」と「賞味期限」という期限表示をきちんと理解して、食べられない段階に至っていない食品を廃棄に回さないようにするとか、そもそも買い込みすぎないとか、できることは限られているようにも思いますが、それでも日々の積み重ねではありましょう。

 

一方で、リサイクル率の改善(ゴミの分別してるし…というだけではどうやら済まない状況の詳しくは本書で)だったり、自治体や国での取り組み方にも努力が必要なのですけれどね。本書には他国の事例が紹介されていて、やればできないことではなかろうにとも。それなのに、政府予算の使いどころが妙な方向にばかりいってはいませんか…てなことを言い出すと、時事ネタ深入りになりますので、ほどほどに。

 

とにかく、食を守る、地球を守るというと大風呂敷にもなりましょうけれど、それが日々の自分たちの食を守ることにつながるのであるなあと、改めて考えた次第なのでありましたよ。

 


 

というところで、またまた例によりまして父親の通院介助の日となりますので、明日(6/10)はお休みを頂戴いたしまして、明後日(6/11)にまたお目にかかることになろうかと。ではでは。

近隣公民館の催しとして開催された「多文化共生講座」を覗いてきたのでありますよ。取り上げられていたのはグリーンランドでして、彼の地を舞台とする映画の上映とグリーンランドに詳しい学者のお話という内容でありました。

 

 

地球温暖化の関係でどんどん氷河が後退していることとか、某国大統領がやおら自国で所有したいと言い出していることとか、グリーンランドはなかなかにホットな話題の渦中にありますけれど、今回の講座で、取り分け上映された映画『北の果ての小さな村で』(2018年フランス制作)で扱ったのはそういう点ではなくして、先住民イヌイットの生活といいましょうか。

世界一大きな島グリーンランドの、人口わずか80人の村にデンマークから1人の青年教師がやって来ました。そこには、しなやかに力強く生きる人々の、シンプルだけど豊かな暮らしがありました。(同作公式サイト)

こんな紹介を見る限りでは、新米教師と子供たちのほのぼの時々ほろり系の映画かと思いかけるところながら、その要素は無きにしも非ずながら、決してそれだけはありませんでしたなあ。

 

まずもって、デンマークからやって来る青年教師アンダースはグリーンランド僻村の子供たちにデンマーク語を教えにやってくるのですよね。政治的にはデンマーク領だしなあ…と思うも、驚かされたのは映画冒頭、アンダースの採用面接の場面ですな。

 

あっさりとグリーンランドに教師の口を得られることになったアンダースは面接官に土地の人たちにグリーンランドの言葉も教わって…」と漏らすと、かの面接官は「あなたがデンマーク語を教えにいくのであって、そんな必要はありません」と、きっぱり。

 

そんなふうに言れれたアンダースは、住民80人の村に到着すると、ただただデンマーク語を使って日々を送るのですが、どうにもコミュニティに馴染めないといいますか、コミュニティの側がそも壁越しに接しているというか。紆余曲折を経て、結果的には村人から彼らの言葉を習い、打ち解けていくわけですが、さもありなむと思いましたですねえ。

 

おそらくかの面接官がいたのは、グリーンランド自治政府の首都とされるヌークに住まっているのでしょかね。「10年ここにいるけれど、デンマーク語以外使ったことがない」と言った面接官、それもそのはず、広い広いグリーンランド(日本の国土面積のほぼ6倍と)でも南西部の、ヌークを含む一帯はデンマークの植民政策の始まりの地で、取り分けデンマーク人が多く、またデンマーク色が強い地域だそうですし。

 

ですが、(このあたりのことは映画の後にあったお話の受け売りです)島の東部や北部に関して、デンマークでは強力にデンマーク化を進める(あちこちの植民地政策にありがちな方法ですな)のでなくして、むしろイヌイットの人たちの従来文化を温存する方向でもあったとか。イヌイットならではの方法で、自然と共生共存する中から、海産物やら海獣の毛皮やらの交易の実利を求めたいところもあったようで。

 

そうなると、アンダースが赴任した東部にある小さな村は、子供たちこそ学習成果でデンマーク語を理解するも、大人たち、年齢が上に行くほど現地語でしか会話しない人たちも多くいるのですよね。そんな環境(よしあしは別として、先進国的な資本主義経済から切り離されてもいる)だものですから、場合によっては子供が学校に通うよりも生きる術を身に着けることが大事と、無断欠席が乗じたりも。

 

アンダースが保護者に欠席理由を尋ねると、「一緒に狩りに行っていた」という。子供は将来猟師になりたいと言っているし、必要なことはすべて(学校でないところで)教えられるからと。別の村人の言葉として、猟師になるのなら早くから、子供の時からいろいろ身に着けていかないとならないというのが、そこに暮らす人々には常識であるようですね。

 

もちろん、今は猟師になりたいと思っているその子も、学校で学ぶことが違う道に通じることもありましょうし、デンマークから来たアンダースにしてみれば、視野を広げてやりたいとの思いもありましょう。むしろ、それがいいことのように思えたりもしますですが、本当のところは果たして何がいいのか。絶対的な価値判断を下すのはとても難しいことであるなと思いましたですよ。

 

時に自然に翻弄され、生活水準でいえば(ヌークのある南西部に比べても)低いと統計的にも言えるところでしょうけれど、個々の幸福度というか、生活満足度というか、人それぞれでもあるしなあと。

 

こういっては何ですが、ありのままの村からは「人類の未来を拓く大発見をするような人物が出ることはないかもしれません。ただ、それがいけないとは誰にも言えないでしょうなあ。一方で、ちょいと前のEテレ『サイエンスZERO』で取り上げられていましたように、気候変動の最新調査を行うにあたり、グリーンランドの先住民の持っている情報(長年積み重ねてきた知恵とも言えましょうか)が大いに役立っているそうな。これも、先進国同様の生活こそ良しとしてイヌイットに相対してきていたら、受け継がれた智慧は断絶していたかもしれませんですよね…と、結果論的ながら。

 

かつて、自らが他国・他地域の人々に優っているという思い込みから、啓蒙やら教化やら言いつつ、自分たちのものさしに適う状況に変えていこうと、大航海時代から帝国主義の時代まで続けられてきたわけですが、そのこと自体は今でも見直されつつある途上なのかもしれんと思ったものでなのでありました。

先日訪ねた「三鷹市吉村昭書斎」では、展示の年表から吉村が学生時代に重篤な肺病によって肋骨5本を切除するような大手術を受けた…てなことを知るところとなりましたですが、作品の中に医師を取り上げたものがいくつかあるのは、そうした経緯があってのことであるのかなとも。先に映画で見た『雪の花』の主人公も種痘の普及に邁進する蘭方医・笠原良策でしたし。

 

でなことで、書斎を訪ねて以来、吉村昭作品の何かしらを久しぶりに読んでいるかいねと思っていたときに、「こんなんもあったか」と手に取ったのが『夜明けの雷鳴』でありましたよ。

 

 

主人公はやはり幕末の医師・高松凌雲でして、函館にある五稜郭タワーの展示にその名を見出して記憶に残っていたのが、今回本作をチョイスする決め手となったという。全体的には高松の生涯をたどっていますけれど、若き日に一橋家お抱えとなって慶喜に仕え、弟の昭武がパリ万博に派遣されることになると随行することになるあたりは、いささか凌雲そっちのけでパリ万博のお話になったりも。

 

よく知られるように、幕府が日本を代表して数々の品を出展する一方、薩摩藩の展示がかなり目立つ存在として独立性を諸外国に知らしめるようなことにもなっていたあたり、結構細かく叙述されていたりして。慶喜が将軍になるなったのち、幕府がパリ万博へ出展わけでして。

 

パリ滞在中に日本では戊辰戦争が起こってしまい、日本に帰国するも、もともと慶喜に仕えていた凌雲は函館を目指す榎本艦隊と行動を共にすることになりますが、このあたりまたしても凌雲そっちのけで箱館戦争の話となってもいたような。

 

ですが、洋式の備えで行われた箱館戦争は数多くの負傷者が出て、これを凌雲たちが治療に努める中、敵味方を区別せずに負傷者は負傷者としたり、箱館の町が戦火に曝される中にあって負傷者には矛を向けないことを西洋の良いしきたりと解して敢然、新政府軍の乱暴狼藉を許さないあたり、のちに同愛社という民間組織の救護団体を組織して「日本における赤十字運動の先駆者とされる」(Wikipedia)ことにつながっていくのですなあ。

 

さりながら、あくまで「日本における赤十字運動の先駆者」であって、日本赤十字社との関わりは無いのであると。かなり前になりますが、熊本に赴いてジェーンズ邸という洋館(お隣に夏目漱石が熊本で3番目に住まった家があるものですから)を訪ねた際、その洋館こそ「日本赤十字発祥の地」と紹介されていたのでありますよ。

 

館内展示によりますれば、戦火による負傷者を敵味方なく救護するため、佐賀出身の元老院議員・佐野常民が「博愛社」の設立を有栖川宮に願い出、その許可を得たのがこの洋館の2階のひと間であったとか。そして、この時に設立された「博愛社」は明治20年(1887年)に国際赤十字社に加盟、名称を「日本赤十字社」と改めることになるという経緯から、日本赤十字はここから始まるのであると。

 

ただ、佐野常民は凌雲にも博愛社に加わるよう求めたものの、凌雲がこれを固辞したことが本書にも書かれてありましたなあ。発端が西南戦争であったせいか、陸海軍主導で官がらみの組織であることが凌雲には得心しかねるところだったようでありますね。

 

後々、国がらみとなると補助金を盾にしてやたら活動に口出しするといった、今やさまざまな団体にうかがえるようなありようを、凌雲は見抜いてもいたのかもしれませんですね。

 

ただ、同愛社の活動は民間運営で行うには膨大な資金を必要としたでしょうから、パリ万博随行で知り合った渋沢栄一や箱館戦争を共にした榎本武揚などが凌雲に惜しまぬ支援をしているうちはよかったのでしょうけれど。これまたよしあしは別として、ああ、幕末明治の人脈の姿だなあとも思ったものなのでありました。

先ごろ都心に出たついでに立ち寄ったと申しました大日本印刷の企業ミュージアム「市谷の杜 本と活字館」ですが、そのほんの近所に思いがけず「こんな施設もあったのであるか」と気付いて、もうひとつ立ち寄ったのでありましたよ。

 

 

建物の外観だけでは「いったい何?」というくらいにそっけなく、しかも看板の類が見当たらない。ですが、入り口まで(恐る恐る?)近づいてみますと、「やっぱり、ここか」と。果たして独立行政法人国際開発機構、いわゆるJICAが設けている「JICA地球ひろば」はここにあったのでありました。

 

JICA地球ひろばでは、世界が直面する様々な課題や、開発途上国と私たちとのつながりを体感できます。国際協力を行う団体向けサービスも提供しています。

という趣旨で展開されていた展示は、子供たち、とりわけ中高生くらいを意識したものとなっていたような。実際に、大型バスが到着したかと思うと、ぞろぞろと(たぶん)高校生の団体が「地球案内人」という「開発途上国で国際協力活動経験のあるスタッフ」の話を聞きに来ておりましたし。

 

 

展示室に入ってすぐのコーナーは「SDGs」の紹介コーナーで、団体の学生たちには「SDGsって知ってる?」という問いかけが。これには「Sustainable Development Goals」と英語で答えが返された地球案内人の方、「持続可能な開発目標」との日本語で答えが返ってくると思っていたようで、その戸惑いが一同の笑いを誘う一幕となっておりましたな。

 

ま、個人的にはかつて読んだ集英社新書の一冊、『カオスなSDGs』の著者ほどにもやっと感を抱くものではないにせよ、ストレートに「いいね!」とばかりも言えない(持続可能な開発ってあまりに虫が良すぎるような)感覚を抱いておるもので、聞き耳立てるもほどほどに(笑)。

 

 

で、ちと奥のスペースでは『人間の安全保障展 世界を知る、世界を変える』が開催中でありました。

すべての人々が安心して生きることができ、さらにその生活が人間らしいものであることを目指す「人間の安全保障」という概念。
その前に立ちはだかる多くの課題について、分かりやすく展示しています。

現前する課題として挙げられていたのは「紛争・テロ、災害・環境破壊、感染症、経済危機などの「恐怖」や、貧困、栄養失調、教育、保健医療などのサービスの欠如、基礎インフラの未整備などの「欠乏」」などなどなど。いやはや、何とたくさんあることか…。

 

 

例えば「紛争」のコーナーでは、大きな世界地図が掲示されて、世界各地の「主な」紛争が示されておりましたよ。ウクライナやガザの状況は日々ニュースで見かけるものの、それ以外の地域で紛争が続いていることをどれほど認識しておりましょうねえ…。

 

 

アフリカ中央部や中東地域あたりは、紛争地であることを示す爆発マークで真っ赤っかの状態ではありませんか。この紛争とも大きく関わりましょうけれど、「貧困」というのもまた大きな課題で。

 

 

アフリカ大陸や東南アジアの一部に分布する、特に開発が遅れている「後発開発途上国」は「世界の国々の4分の1にも当た」るのであるそうな。そうした国々では、子供たちが教育を受けられない、病気が蔓延している、安心して飲める水もない…という状況なのですなあ。

 

 

ドキュメンタリー・フィルムなどで、遠いところまで出向いてわずかに溜まった水を汲んでくるのが毎日の仕事という子供たちを姿を見ることがありますけれど、ともすると「ああ、日本でよかった…」てなふうにも思ったりするところながら、それで「めでたしめでたし」ではなかろうなと。そのあたりを若い世代にきちんと伝えることがこうした施設を通じてなされているのでありましょう。

 

考えてみれば、何十年も前の子供のころには「世界がどうなっているのか」なんつうことは考えたこともなかったですし、そのあたりの気付きがあまり与えられることもなかったような。知らなければ知らないなりに済んでしまってもいたのでしょうけれど(よしあしは別として)、そうばかりも言っていられないのが現在であるとすれば、かつてよりも今の若い世代は大変さを端から背負わされている、つけを後回しにされてきているのかもしれんなあ…てなことも考えてしまいましたですよ。う~むぅ。

先日に映画『ヴァイキング』がらみにでスウェーデンにあるガムラ・ウプサラの古代墓が日本の古墳を見て回るきっかけになった…てなことを思い返したわけですが、そんなところから「久しぶりにどっかしらへ古墳を訪ねてみようかいね」といった気分が高まってきたりしていて(笑)。

 

何せ古墳らしい古墳を見たのは、2023年の12月、千葉県の龍角寺古墳群と巨大方墳・岩屋古墳に出かけたのが最後になりますのでね。まあ、古墳は必ずしも交通至便なところにあるわけではありませんので、これからの梅雨どきには訪ねるにあまりいい時季ではないよなあ…と思っていたりするところで、近所の図書館の新蔵書コーナーで一冊の本に目を止めたのでありました。

 

 

古墳紹介本の類いは山のようにありますけれど、古墳は何も大王家の陵墓ばかりではないですし、取り巻く豪族たちとも大いに関わりなるところながら、古代豪族をざっくり紹介する本は珍しい。しかも、『ビジュアル版 一冊でつかむ 古代史と豪族』とは、この上ない入門編ではありませんか。元々日本史に疎く、知識後追いである者としては、お手軽そうなところに頼っておくかと思った次第でありますよ。

 

氏族によって情報量の多い少ないはあるにせよ、本書で紹介されていたのは全部38の豪族でして、昔むかぁし「日本史」の教科書で見かけたようなと思い出す氏族もあれば、全くもって聞き覚えのない氏族もあり。「ほお、ほお」と思いながら、目を通した次第です。

 

まず最初に登場するのが大王家であるのは、ヤマト王権のトップだし当然…とは思えど、ここで改めて当時の大王家というのは諸豪族のひとつであったということですし。

当時(3世紀末)のヤマト政権は、大王(のちの天皇)による専制国家ではなく、盟主たる大王を大和盆地に割拠する豪族たちが支える連合政権だったと考えられています。

後付けで後に作られた大王(天皇)ありきの歴史の流れを汲んだところがインプットされていると、あらら?でもありましょうけれど、大王家自体も含めて豪族間の争いが多々あった時代、盟主としての地位も安定的なものではなかったのでしょう、実際に大王家をないがしろにするが如き専横への咎めから、乙巳の変で蘇我氏が滅ぼされたりもするわけで。蘇我氏を決定的な悪者扱いしたりするのは、大王家側の都合だったりするところはあるかもですけれどね。

 

中央たる大和地域のようすがこんなだとすれば、地方は地方で群雄割拠といいますか、大きな在地勢力があったことは想像に難くない。中央集権への道はなかなかに険しいわけですね。大きな存在としては山陰の出雲氏や現在の岡山にあった吉備氏、そして継体天皇の時代に筑紫君磐井が氾濫を起こしたことで知られる北九州の筑紫君などなどでしょうか。

 

そのほか、中央では物部氏、葛城氏、大伴氏、中臣氏…と聞き覚えのある名前がいろいろ出てくる一方で、「おお、阿曇氏まで紹介されとる!」と。

 

もうずいぶん前に信州安曇野に出かける際に旅の供として『失われた弥勒の手 安曇野伝説』という本を読んでいたのですが、山に囲まれた安曇野にあって穂高神社の祭礼が御船祭という海との関わりを思わせるものである由縁として、安曇族(本書では阿曇)が紹介されていたもので。余談ながら、「信州STYLE」という旅行情報サイトにはこんな紹介が。

(穂高神社の御船祭は)安曇族(あずみぞく)が、海から内陸までを船で自在に行き来していた海人(あま)族であったという歴史を伝える祭礼。紀元6世紀ごろに安曇野へ移住、船によって大陸の文化を運んでいたと推測される安曇族の先祖伝来の祭りです。

とまれ、昔むかしには大陸に向き合って往来がたくさんあったろう日本海側を中心に海人(あま)族の人たちが一定勢力を持っていたのですね。阿曇氏のみならず、先に筑紫君に加え、北九州の宗像氏もまた海との関わりが深い人たちですな。

 

それに関係して渡来系の氏族もまたいろいろと。最も知られるのは秦氏でしょうけれど、関東に根付くことになった高麗氏、埴輪作りの土師氏、仏像造りの鞍作氏…。

 

日本の古代を彩った数々の豪族のようすに、分からないことが多いからこそあれこれ想像もしたくなる古代史の世界へ導かれる。そんなガイドブックのような一冊でありましたよ。ただ、すでに日本の古代史をよおくご存じの方には入口に過ぎて向かない本だと思いますです、はい。