かなり前にはなりますけれど、『伝説の企業家~アメリカをつくった男たち』というアメリカのドラマを「ヒストリーチャンネル」で見ましたけれど、「これも同趣向であるか…」と。

 

ヴァンダービルト、ロックフェラー、カーネギー、J.P.モルガン、そしてフォードという5人を取り上げて、アメリカの基幹産業の礎を扱った先のドラマの本来のタイトルは『The Men Who Built America』だったわけですが、このほど見てみたのは『The Food That Built America』、邦題としては『ザ・フード ~アメリカ巨大食品メーカー』となっておりましたし。

 

ま、アメリカ食品業界の立志伝といいますか、そういう内容であると想像していたわけではありませんで、つい先日に「食品ロス」のことに触れたことからしますと、さぞや酷いことになっている状況が出てきたりするのかも…という空恐ろしさを予感していたりも。結局は偉人伝みたいなところで、(ステレオタイプな見方ながら)「アメリカ人って、本当にアメリカン・ドリームに憧れているのであるなあ」と思ったものでありますよ。

 

とはいえ、描かれるのは食品業界ですので、そこで成功を収めるというのは大量生産・大量消費に邁進することなわけで、それこそ当時は成功神話だったのでしょうけれど、その流れでずっと経済を回すのは環境やら何やらの点で無理があるてなことになりましょう。そこは敢えて触れずなのかもですが、番組内ではアメリカン・ドリームを成し遂げた先達へのリスペクトが強調されるようなところもあり、「う~む」とも…。

 

まあ、そんなこんなの悩ましさはあるものの、ケロッグのコーンフレーク、ハインツのトマトケチャップ、ハーシーのチョコレート、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドのハンバーガーチェーンなどなどの誕生物語には興味深い点がないわけではない。そもそも、彼らが大量生産を目した背景には、南北戦争が終結して産業革命化が進むと、都市部に大量の人口流入があり、その人たちの食を賄うこともあったそうな。大量生産することそのものには意味があったということで。

 

逸話として面白い点もいくつかありましたですが、例えばコーンフレークはケロッグ博士による独特の治療法が話題(眉唾もの?)の病院で出されていた療養食だったそうですなあ。

 

個人的には子供のころに、ケロッグ・コーンフレークにアメリカというか、新しさというか珍しさというか、そのあたり綯交ぜになったものを感じて、親にねだって買ってもらったものの、結局持て余して叱られた…ということが思い出されるばかりですが、それが他社が類似商品を出したりするほどに売れたのでしたか。こういってはなんですが、よほど食糧事情がよろしくなったのでありましょう。

 

マクドナルドの方はもっとよく知れらた話かもしれませんですね。品数を限って、手早く提供、しかも客の側が自分で料理を運んでいくというスタイルを考案したのはマクドナルド兄弟なるも、彼らは全く全国制覇、果ては全世界制覇など考えてもおらなかったようですな。彼らの店を見て「いける!」と考えた人物に看板と運営スタイルを使う権利を譲ってしまいましたので、今や世界中で見かける「MacDonald's」の看板はマクドナルド兄弟とは無縁のものと。この話はアメリカン・ドリームとは逆の話かもしれませんですね。

 

もひとつ、ハーシーのチョコレートに関しては、アメリカで考えられるほどに日本ではメジャーブランドと意識されていないように思いますですね。むしろマーブルカラーの「M&M's」の方がアメリカのチョコっぽいというか。ですが、MとMという商号の元は、方やハーシー社に、方や「スニッカーズ」などのいわゆるチョコバーで知られるマース社に、それぞれ裏切られた感を持った二人の頭文字であったようで。

 

そんなこんな、歴史の逸話を見てきましたが、改めて思い返してみますと「あんまりアメリカの食品にはお世話になったことはないなあ…」という気がしてきました。おそらく親が新しもの好きでは全くなかったということと、自分が大人になってからはアメリカは憧れの的ではなくなってしまったからでもありましょうか。そう考えると、やっぱりアメリカにはメッキが施したあったか…と(冒頭のドラマに擬えて)思ったりしたものなのでありました。

バッハと言えば古臭く、また有名曲である「主よ、人の望みの喜びよ」などと言われた日には些か手垢が…などと思ってしまうものの、伴奏音型でこれだけ聴かせる曲も珍しいのではないですかね…てなころと、3月のオルガンプロムナードコンサート@サントリーホールを聴いてきた折に漏らしてしまいましたですが、あの有名な旋律を「伴奏音型」と言ってしまったあたり、バロック音楽に対する知識不足を露呈してしまっておりましたなあ。

 

そのことに気づかされたのは先に読んだ『ヴェルサイユの祝祭』でしたけれど、このほどランチタイムコンサート@トッパンホールを聴いてきて、改めて「そうなんだよねえ」と思ったものでありましたよ。

 

 

ピアノ独奏による演奏会のプログラムは武満徹、シューマン、バッハと年代的なバリエーションを設けつつ、大江健三郎の「雨の木(レインツリー)」を通底させるという高遠な思惑?を持たせたものでしたですが、それはともかく(失礼!)バッハの曲で取り上げられたコラール前奏曲『目覚めよと呼ぶ声あり』BWV645(個人的には『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』のタイトルに馴染んでしまってますが…)を聴いて、冒頭のような思いraが湧いてきたのであると。

 

「グレン・グールドのJ.S.バッハ《ゴルトベルク変奏曲》に衝撃を受け、以来バッハの音楽に魅了され続けている」とプロフィールに紹介のあるピアニスト本堂竣哉はバッハ弾きでもあるのでしょう。アンコールには、思いがけずも『主よ人の望みの喜びよ」が演奏されて、一層思いを深めることになったものでして。

 

で、ご存じの方にはまさに今さら…ですけれど、バロック音楽に対する知識不足の中身のこと。Wikipediaの項目「バロック音楽」にある「バロック音楽から古典派音楽への推移を、対位法的なものからホモフォニックなものへの転換と見るならば…」という一節が肝要でありましょうかね。

 

バロック音楽は対位法的なるものであって、その後の古典派がホモフォニック的なるものという点で違いがある。ではまた改めて「対位法」と「ホモフォニック(ホモフォニー)」とを用語解説的にWikipediaから引いてみますと、こんなふうであるのですなあ。

対位法:複数の旋律を、それぞれの独立性を保ちつつ、互いによく調和させて重ね合わせる技法
ホモフォニー:単一の旋律要素のもとに、複数の声部が和声を構築する音楽

バロック音楽の曲によく「トリオ・ソナタ」というのがありますですが、これは複数の最小限、ふたつの独立性ある旋律を調和させながら、かつ底支えに通奏低音が配されているという、まさにバロックに特徴的でかつミニマムな演奏形態であったのですな(もちろん、オルガンなどどではすべての旋律線も通奏低音も一人で操るわけですが)。

 

それにも関わらず、古典派以降のイメージが染みついて、主たる旋律線以外は(和声にもせよ、対旋律にもせよ)あたかも伴奏であるかのように思ってしまい、先にふれた『主よ…』にしても『目覚めよ…』にしても、いわゆる主旋律がコラールによると思い込んだところから、それ以外を単純に「伴奏」と言ってしまったようなわけで…。いやはや、ではありました。

 

ともあれ、そんなことも知らずにバロック音楽をかなり好んで聴いていたわけですが、この後は少々これまでと違った耳の傾け方ができるかもしれませんですなあ。なにより、なにより(笑)。

ちょいと前に東京の下町方面へ出かけたついでで、小さなスポットに立ち寄ることに。場所はJR総武線の錦糸町駅から歩いて少々、錦糸公園の中にある墨田区立総合体育館でありますよ。

 

かつて錦糸公園の中には屋外プールがありまして、もう何十年も前になりますが、子供ながら夏場にはわざわざバスに乗ってプールに遊びに来たりもしたものでありましたよ。今や屋外プールは跡形もあく消え失せて、立派な体育館の中にスポーツ施設然とした(要するに子供の遊び場っぽくない)屋内プールがあるようですな。

 

 

ちなみに、この体育館には地元・墨田区が本拠の東京東信用金庫が得たネーミングライツによって「ひがしんアリーナ」と呼ばれておりまして、こんなところにもおそらくは今でも町工場の多く残るであろう墨田区らしさが感じられるような。

 

ともあれ、体育館の2階、受付フロアの片隅にその小さなスポットはありましたですよ。「名誉区民顕彰コーナー 王貞治のふるさと墨田」という展示施設でして。

 

取り敢えず世の中的には先日亡くなられた長嶋茂雄ロスの状態が続いている(東京ドームには追悼記帳所が6/22まで設けられるということですし)わけで、その最中に王の方の話かよ…となるせいか、覗いてみている人はほとんどおりませんでしたなあ。

 

 

ま、天真爛漫な?長嶋に対して、もの静かで落ち着いた印象のある王となれば、前者の方により人気が集まるのもむべなるかなと思いますが、ともあれ、展示の方を覗いてみるといたしましょう。

 

王貞治は、1940(昭和15)年5月20日、向島吾嬬町(現・墨田区八広三丁目)に父・王仕福と母・登美の次男として誕生しました。

ご存じのとおり、実家は「五十番」という中華料理店を営んでいたわけですけれど、余談ながら中料理店に「何々番」という屋号が多いのはなぜでしょうかね…。今は廃業してますが、小学校の同級生の家が「中華 一番」だったりもしたもので。

 

それはともかく、幼少の砌、貞治少年はひ弱だったそうですが、「兄・鉄城の導きによって、業平小学校の4年生ではじめた野球」に魅了される頃には元気なわんぱく少年になっていたとか。

 

 

本所中学の時代、貞治少年は「高校生主体の少年野球チーム」に入り、エース兼5番打者として数々の大会で猛打を振るい、注目を浴びたそうな。活躍の舞台は隅田公園とともにここ、錦糸公園の野球場であったそうですから、やはりその地に顕彰コーナーがあるのは納得のいくところですなあ。

 

 

で、展示ではこの後、早実に進んだ王貞治が見せた甲子園での大活躍を紹介するわけですけれど、これには都立高の受験失敗があったからこそという点、ここでは触れられてはおりませなんだ。地元エリアでは元は東京府立第三中学校であった都立両国高校(ちなみに府立一中は日比谷高校、府立二中は立川高校)に次ぐ進学校とみられていた都立墨田川高校を目指して、合格しておればおそらくその後の「世界の王」の存在は無かったというと、大きな人生の岐路だったはずなのですが…。

 

とはいえ、生涯の師となった荒川博との出会いは中学時代(当時の荒川は毎日オリオンズの選手)だったそうですから、墨田川高校に進んでもやがては野球の道に引き戻されることになったかもしれませんけれどね。

 

 

甲子園優勝投手でもありますから、ピッチャーとしての期待はあったろうものの、巨人に入団してバッターに転向、入団三年目に師匠の荒川がコーチとして巨人になってきてからは、王の代名詞・一本足打法が誕生し、プロ4年目にして本塁打王と打点王を獲得、その後のホームラン量産体制が確立したのだそうでありますよ。

 

 

現役引退後も、監督してダイエーホークス(当時)を優勝に導き、第1回WBCでは日本代表監督としてやはり優勝を果たすことになるわけですが、巨人一筋で来た長嶋とは別の光を残すことになったとはいえましょうか。

 

 

仮に長嶋がいなかったとすれば、現役引退後の王と巨人の関係はもそっと深いものになっていたかもしれませんですが、長嶋がいなかったならば王の現役時代の活躍もどこまであったろうかと思ったり。個性の違いはあれど、互いにライバルとして切磋琢磨した面はあったでしょうからねえ。

 

長嶋が太陽だとするなら、王は月の光を輝かせている。月の光は太陽がなければそもそも無い…とまではいいませんですが。ともあれ、昭和のひと時代が懐かしく思い出される展示コーナーでありましたよ。

先日読んだ吉村昭の小説『夜明けの雷鳴』では、主人公の医師・高松凌雲らを随行に、将軍の名代として徳川昭武が出向いたパリ万博(1867年)のようすを紹介しておりました。まあ、丁髷帯刀の特異な姿の東洋人は、当時のフランス人から見れば「蛮族が来た!」くらいの印象でしたでしょうか。

 

それだけに、駐日フランス領事あたりがしきりに持ち上げて幕府からも万博に日本の品々を出展するよう持ち掛けたのに対して、いざがパリに来てみるとフランス政府筋の人たちはなんとも尊大なふるまいであったようで。この点、ひたすらに記録に当たって書く吉村昭だけに、実際そうであったのだろうと思ったりするところです。

 

ですが、このフランスの尊大さといいましょうか、いったいどこから来ているのかと考えてみれば、始まりは太陽王とも呼ばれたルイ14世に行き当たるのかもしれませんですねえ。おりしも『ヴェルサイユの祝祭  太陽王のバレエとオペラ』を読んでいて、そんなふうに思ったものでありますよ。

 

 

次から次へと戦争をして、どんどん領土を拡大、天下にフランスありの印象を植え付けたルイ14世(在位1643~1715)ですものねえ。さりながら、文化的な面ではどうか。当時の文化先進国はどうみてもイタリアだったわけで、音楽の面でも同様かと。

 

ルイ14世の時代よりも100年くらい後のオーストリアの話にはなりますけれど、その頃でも音楽の本場はイタリアであって、神聖ローマ帝国、つまりはハプスブルク家の宮廷楽長にはイタリアからアントニオ・サリエリが招聘され、ウィーンでもって自作のオペラ(イタリア語ですな)を次々に生み出していたりもしたのですものね。

 

そんな状況ながら、ルイ14世の野望?は音楽面にも及んでいたのですな。ルイ14世のバレエ好きは夙に知られるところで、自ら舞台に上がることもたびたびとか(ただ、当時は宮廷内の余興として王が踊っても不思議ではなかったようですが)。それだけに、文化先進国から入ってきた新しい音楽劇たるオペラには大いに興味をそそられるも、イタリア・オペラの「フランス化」を図る、つまりはフランス固有のオペラを作り出そうとしたようで。

 

王の傍らにあってこれに尽力したのが作曲家のジャン=バティスト・リュリであったと。リュリもイタリア人ですので、てっきり本国である程度知られた作曲家をお雇い外国人として招いたのであるか…と、思っておりましたら、これがリュリという人、至って苦労人だったようですな。フィレンツェの職人の家の出ながら、運と自らの才覚を頼りに太陽王の宮廷楽長まで上り詰めたのであるそうな。

 

リュリが王の好みに適うことを意識しつつ行ったオペラのフランス化は、もちろんフランス語で上演される音楽劇であると同時に、バレエのシーンが多く盛り込まれるようになっている。フランス・オペラのバレエ重視は伝統としてその後にも受け継がれる個性となって、200年ほど後にワーグナー『タンホイザー』をパリで上演するにあたり、バレエのシーンを加えたりしているのはよく知られた話ですし。

 

ともあれ、リュリの時代は音楽史でバロック音楽の時期とされますので、その頃のオペラはいわゆる「バロック・オペラ」と一般に言われる(本書では必ずしもそう呼ぶのが適切ではないことが紹介されていますが、取り敢えず)わけですけれど、近代的なオペラ以前、冒頭に必ず置かれたプロローグがかなり重要な要素であったそうなのですね。

 

音楽的にもストーリー展開の上でも、プロローグは必ずしも必要でなさそうな内容ながら、その後に展開されるお話が、例えば英雄を扱っていればそれがルイ14世のことなんですよということを暗示するというか、見ている誰にも想像が付くように前もって示す要素があったのであると。場合によって、そこで「王様、万歳」的な称揚も行われていたようで。まさに王様のためにこそ作られた曲であったわけでありますよ。

 

ですから、何百年も経ってから音楽として鑑賞するには忘れがちですけれど、作品ごとに制作された時期の時事ネタがらみであったりして、例えば『アルセスト、またはアルシードの勝利』(1673年)はこんなであったと本書には。

このオペラでは、ルイ14世がフランシュ=コンテ(現在フランス東部のスイスとの国境近くの地域)の戦いに勝利してこの地方をフランスの領土としたことを祝う祝祭として行われたものである。プロローグは、セーヌ川のニンフ(水の精)が英雄の帰還を待っている場面から始まる。

とまあ、そんなことを知ってみますと、当然にリュリのオペラ作品を見て(聴いて)みたくなるところですけれど、手元にはあいにくとリュリ作品のCDが数少ないもので、器楽の曲集を1枚、久しぶりに取り出しみたという。

 

 

スペインの古楽奏者ジョルディ・サヴァールによる『太陽王のオーケストラ』なる管弦楽曲集です。バロック音楽というと、なんとはなし「雅」な、ということと同時に「鄙」なイメージを抱いておりましたですが、本書を読んだ後だからでしょうか、ヴェルサイユの豪華な設えなどを思い浮かべつつ(といっても訪ねたのはもはや数十年前ですが)、「絢爛豪華な王の音楽」という印象が強まったものなのでありました。

先ごろ訪ねた「JICA地球ひろば」の展示では世界に現前する課題としてさまざまな項目が挙がっていたわけですけれど、その中で「食」の問題はヨソサマの問題とばかり行っていられない身近さが感じられるものではなかろうかと。

 

 

「食」に関して問題提起されるポイントはいろいろありましょうけれど、ここでは良し悪しはともあれ、現在の「食」はグローバル規模で繋がっていることと大きく関わっておりますな。

 

 

結果として、日本の食料自給率は左上のグラフに見るように右肩下がりで推移しているわけで。2022年段階で38%であるという日本の食料自給率が、1965年段階では73%であったとは、この間に日本人の食の多様化がどんどん進んでいったこともありましょうけれど、なんだか減反政策と関わりがありそうな気がしてしまいます。ちと、上の解説パネルの左下部分をクローズアップしてみましょうかね。

 

 

これ(1975年と2020年の比較)によれば、日本の農地面積は607万haから435万haへと確かに減少している一方で、米の消費量の比較では112㎏/年から50.9㎏/年と半減していると。これだけ米の消費が減っているのだから農地面積が減少しても…なんつうふうに思ってしまうところながら、農地=稲作の田んぼではないわけで、減反政策には米から他の作物への転換も含まれているはずですし、現に今、統計上で米の消費が減ってきたといっても米不足という形が立ち現れているのをどう考えようかいね…と思うわけです。

 

と、この話は今現在の時事的話題とひどく近しいところなだけに敢えてここでは深入りしませんですが、もう一つ、別の観点で「食」の問題として提起されていた点がありましたですよ。一番上の写真で(見てとりにくいですが)手前のテーブルには、こんなフライヤーが置かれていたのでして。

 

 

消費者庁が配っている「食品ロスを減らしましょう」という告知でして、食料自給率が低い=輸入に頼っているわりには、無駄にしてしまっている食品が非常に多いのですよと(ま、日本だけの話ではありませんが、それはそれとして。だからいいとはなりませんでしょうし)。

日本では、まだ食べられるのに廃棄される食品、いわゆる「食品ロス」は472万トン(農林水産省及び環境省「令和4年度推計」)。 これは、世界中で飢餓に苦しむ人々に向けた世界の食料支援量(2023年で年間370万トン)の約1.3倍に相当します。 また、食品ロスを国民一人当たりに換算すると"おにぎり1個分(約103g)の食べもの"が毎日捨てられていることになるのです。(消費者庁HP)

ですが、無駄なことをしているのは、例えばコンビニの恵方巻とか作っちゃったけど消費されずに廃棄なんつうのが多いのではないのかいね。個人的には買ってきた食べ物を捨ててしまうというのはそうそうあることではないような…と思えば、現実はそうではないようで、「食品ロスの約半分は家庭から」(消費者庁フライヤー)出ているそうなのでありますよ。

 

捨ててしまう理由としては「食べきれなかった」「傷ませてしまった」「賞味・消費期限が切れていた」というのがトップ3ですが、どうも背景には買いすぎがあるのではと(個人的には大容量とか、およそ買わないものでして)。

 

ともあれ、食品廃棄には副次的にゴミの問題も生じることになりますですね。ゴミ問題に関わるとなれば気候変動にもつながってくると、意識の広がりに言及しているのが、読み終えたところのちくま新書の一冊『私たちは何を捨てているのか』でありました。

 

食品ロスを出すということは、生産や輸送で温室効果ガスを排出してきた食品を無駄にし、生ゴミの埋め立てや焼却の過程でも温室効果ガスを発生させるため、二重に気候変動に加担することになる。

個人個人のレベルでは、例えば(消費者庁フライヤーの裏面にもありますが)「消費期限」と「賞味期限」という期限表示をきちんと理解して、食べられない段階に至っていない食品を廃棄に回さないようにするとか、そもそも買い込みすぎないとか、できることは限られているようにも思いますが、それでも日々の積み重ねではありましょう。

 

一方で、リサイクル率の改善(ゴミの分別してるし…というだけではどうやら済まない状況の詳しくは本書で)だったり、自治体や国での取り組み方にも努力が必要なのですけれどね。本書には他国の事例が紹介されていて、やればできないことではなかろうにとも。それなのに、政府予算の使いどころが妙な方向にばかりいってはいませんか…てなことを言い出すと、時事ネタ深入りになりますので、ほどほどに。

 

とにかく、食を守る、地球を守るというと大風呂敷にもなりましょうけれど、それが日々の自分たちの食を守ることにつながるのであるなあと、改めて考えた次第なのでありましたよ。

 


 

というところで、またまた例によりまして父親の通院介助の日となりますので、明日(6/10)はお休みを頂戴いたしまして、明後日(6/11)にまたお目にかかることになろうかと。ではでは。