幼い頃から父親に厳しく音楽教育を施されて、

子供なのにこの技巧!てなふうに衆目を集める演奏家に育ち、同時に作曲も。

当時には音楽家が糧を得るのに当然であった宮廷仕えもそこそこに

自立した音楽家としてやっていこうとするも…。


こうした部分だけを追っかけてみますと、

どうにもモーツァルト かなとも思うところなんですが、

実はニコロ・パガニーニのお話。


モーツァルト(1756-1791)が天才と言われ、

神の恩寵を得た(アマデウスの名だからか…)ように受け止められる一方、

ざっくり言うと似たような部分のあるパガニーニ(1782-1840)の方は

悪魔との取引を取りざたされるとは、実に好対照ではありませんか。


音楽の部分を措いといたとして、

パガニーニがかくも悪く言われるのは女誑しであったからというところもありましょう。

(音楽は措いといてと言いましたが、音楽で魅了する要素は排除できないわけですが…)


されど、モーツァルトにしても女好きであったとは言われるところですから、

これまたどっちもどっち感がないではないですが、

「女好き」と「女誑し」には違いで後者がより淫靡なイメージである分、

パガニーニの元には神ではなく悪魔がやってきた…と言われるのかも。


何だかやっかみのネガティブ・キャンペーンのようですが、

ま、こうした話になりますのも、映画「パガニーニ」を見て来たからでありまして。


映画「パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト」


とにもかくにもパガニーニを演じているデイヴィッド・ギャレットの映画でありますね。

何よりも演技でなく、当の本人が技巧鮮やかなヴァイオリンを弾けるというのですから。


虚実をとり交ぜて、当時のパガニーニ・ショック(超絶技巧もスキャンダルも)を

再現したあたりが映画化のそもそもでありましょうか。


最後のところは妙に純愛に目覚めたふうになるので、

少しはパガニーニに肩入れしてやろうかてなことかもですが、

映画ではその年齢差がはっきりつかめないものの、実際のところは

純愛への目覚め方が余りにも遅く、遅まきながら「恋は盲目」状態になったのではないかと。


何しろ英国公演旅行の際に知り合って、

駆け落ちしようとした相手のシャーロットは16歳、

パガニーニ御大は50を超えておったのですから、

「アメリカン・ビューティー」のケヴィン・スペイシーよろしく

瞳がピンクのハートになってしまったのでしょうなぁ。


とまれ、引き離された二人はもはや逢うこともなく、

失意のパガニーニは病床に。

悪魔に魅入られた男もついに改心するも、時すでに遅く…てなふうに、

映画では見えるわけですね。


まあ、それも良しではありますけれど、

前半に置かれるべき(?)女誑しの実像的部分は駆け足で通り過ぎているだけに、

後半の印象(純愛が目覚めたあたり)が強くなるような気がしないでもない。


例えばフランツ・レハールが書いたオペレッタ「パガニーニ」で扱われている

ナポレオンの妹御二人をすっかり誑し込んでしまったような

まったくもってスキャンダラスな部分には触れられていませんし。

(16才との駆け落ちもスキャンダラスながら、こちらは皇帝陛下の妹二人ですものね…)


ところで、こういう超絶技巧 を見せつけられますと、

それはそれで「すげえなぁ!」とは思うものの、「どこまで音楽としていいのか」みたいなこととは

かなり別問題な気がしないでもない。


しっとりとした、それこそ超絶技巧とはおよそ縁のないような曲であっても、

心の琴線を揺さぶる演奏というのはあるわけで、

超絶技巧頼みに終始してしまうと曲芸との違いは紙一重な気がしてきますですね。


これは何も曲芸を軽んじているのではなくして、曲芸にも「ほぉ~」と思うことがありますが、

先のゆったり音楽のしみじみとはやはり印象が異なるわけで。


さてはて、それにしてもパガニーニの本当の本物はどうだったのでありましょうかね…。