(甲府の話がまだ途中ですが)ちょいと前、『おとなのEテレタイムマシン』で1998年放送ETV特集「最後の舞台~津軽三味線・高橋竹山の挑戦~」が放送されておりましたですねえ。例によって録画を後から見るもので、話題にするのが周回遅れですけれど…。

 

ともあれ、津軽三味線の高橋竹山、全くもって津軽三味線に興味を抱くことのなかった若いころにもその名前だけは聞き知っておりましたな。なんとなれば、東京・渋谷のジァン・ジァンでライブをやったりしていると。つうことは、1970年代から80年代にかけて当時の、畑違いのミュージシャンなどが真価を認めて渋谷に引っ張り出して来、クロスオーバーな活動でもしていたのであるか…と、勝手に思い込んでおりました。

 

それがとんでもない勘違いであって、高橋竹山=生涯一三味線弾きを貫いた人であったと、先のTV番組で知ったような次第。いやはや、もの知らずですなあ。

 

番組では名人と称された竹山の最晩年、死を間近にして思うように弾けなくなってもなお、青森の温泉場の宴会場で演奏に挑む竹山の姿が映し出されていました。痛々しくもありますが、自らの三味線が名人の域にあるといったふうには思ってみることもなく、その日その日が精進のような考えて人だけに、技巧的には上手くもなり拙くもなりするのも、自分の三味線であると思っていたのかもしれませんですね。

 

そんな竹山の姿を番組で見て、も少し何か…と思ったときに見つけたのが、『津軽のカマリ』というドキュメンタリー映画でありましたよ。

 

 

「カマリ」というのは土地の言葉で「匂い」といった意味だとか。竹山自身が「「それを聴けば津軽の匂い(カマリ)が湧き出るような そんな音を出したいものだ」 と語ったことに由来するタイトルのようです。

 

そんなタイトルであることからも、カメラは竹山を追うばかりでなしに、青森・津軽の気候風土やその土地に暮らす人たちの生の姿をも写し込んでいくのですな。かような作りのドキュメンタリーで見たせいもあるのでしょうけれど、竹山の三味線、という以上に津軽三味線といわれる音楽世界は、津軽の気候風土と共にあるのであるなと改めて感じ入った次第でありますよ。

 

暴風雪に曝されながらすっくと立って三味線を弾く…てなことは現実的な演奏の姿ではないでしょうけれど、太棹の重く深い響きはそういった姿を呼び起こしてくるもので。そして、名人と言われた竹山の三味線は、例えばパガニーニのヴァイオリンのような(という喩えが適切かどうかは別ですが)ヴィルトゥオーゾの生み出すものというわけでもないように思えたりも。

 

弟子の方々の中にはよほど技巧的に達者な演奏をされるようすが映し出されもしましたですが、竹山の演奏はむしろ深みであり滋味であり、聴いている側が津軽の風土を勝手にフラッシュバックさせてしまうようなところがあるとでも言いましょうか。ただの巧者とは異なる領域に入り込んでいるのかもしれませんですねえ。

 

では、竹山の音楽がひたすらに津軽のもので…ということではなさそうです。TV番組の中では竹山が世界各地の音楽を聴いていたことが紹介されて、弟子にも外国の音楽を聴けと言っていたようで。

 

先に、竹山が渋谷ジァン・ジァンでライブをやっていたことだけを聞きかじって、クロスオーバーな音楽をやっていたのであるかと勝手な思い込みがあったと申しましたですが、聴こえてくる音楽の外見がクロスオーバーなのでなくして、一見というか一聴、津軽三味線そのものである竹山の音楽の中にグローバルな音楽の普遍性があることを感じ取った音楽人たちがこぞって竹山を支持した…てなところだったのかもしれません。

 

最晩年になって竹山は弟子の中から二代目竹山を指名しましたですが、「何も東京から来た女性に継がせなくても…」てなことから地元青森では襲名を認めない空気があったとか。おそらく竹山の奏でた音楽はいくら弟子として近くにいたとしても同じ音楽は出てこない。それならば、津軽三味線の今後に、初代とは違った形でグローバルな普遍性をまとわせてくれるのが、この人であるかといった感覚を初代が感じていたのかもしれませんですね。いずれにしても唯一無二ということで。