山梨県立美術館のお話を先延ばしにして恐縮ながら、このほど甲府で訪ねた場所のひとつのことを。予て「信玄ミュージアム」なる施設が、信玄時代の武田氏の本拠地、躑躅ヶ崎館跡(現在の武田神社)の隣接地に開館していたとは聞き及ぶところで気には掛かっておりましたが、2019年の開館からしばらくしてコロナ禍に見舞われたことは言わずもがな。

 

ま、武田神社には以前に行ったことがあるし…てなことで、ついぞ訪ねるのが先送りになっていましたが、ようやっとこの際にということで覗いてみたのでありますよ。

 

 

館内は常設展示室(入場無料)と特別展示室(大人300円)とがありまして、まずは常設展示室へ。さすがに無料とあって、ひたすらに解説パネルが立ち並ぶといった印象。武田氏自体は長く続く系譜であるも、甲斐府中(甲府)を舞台に活躍した信虎、信玄、勝頼の武田三代のことが紹介されておりましたよ。

 

 

ところで甲府を舞台に活躍…と言いましたですが、その場所に躑躅ヶ崎館という居館(後の時代には城が作られるところが、古い時代の名残でしょうな)が設けられたからこそ、この地が甲斐国府中、すなわち甲府と呼ばれるようになったわけですから、それ以前はどんな地名であったことか。

 

甲府駅からまっすぐに緩い坂道を上り詰め、やがて神社の鳥居に至る現在の武田通りの両脇は、いわば城下町的な整備がされたとなれば、信虎がここに居館をと想定した当時は何にも無い場所だったのかもです。

 

 

躑躅ヶ崎館以前、武田氏の本拠はもそっと石和温泉に近いところにある川田館であったそうな。ただ、ここは想像するだに全くの平地であって、周囲の見晴らしは良さそうですが、些か守るに堅固とは言えないような。躑躅ヶ崎へ移転を断行する永正十六年(1519年)当時、甲斐の統一を視野に入れていた信虎にとって「三方を山が囲い、西に相川、東に藤川が南流する天然の要害」こそ居館にふさわしい場所と考えたのでありましょう。

 

同時に、「有力国人衆の集住が断行され」て、味方として旗色をはっきりさせた者たちを城下に置く、その集住スペースの確保をも満たす場所であったわけですな。

 

さりながら、信虎が設けた躑躅ヶ崎館は、嫡男晴信(信玄)によって駿河へ追放された2年後の天文十二年(1543年)火災の影響を受け、再建は晴信の手に委ねられる。晴信には晴信の思惑、戦略があったでしょうから、信虎時代を果たしてどれほど偲ぶことができましょうかね。

 

もっとも、信玄の手による居館も息子の勝頼が新府城に拠点を移すにあたって破却され、武田滅亡後には織田、豊臣、徳川と続く天下人たちによって躑躅ヶ崎館後は様々に手を加えられていったようですが、最終的には現在の甲府駅の近く(上の地図の最下方)にある一条小山に改めて甲府城が築かれるに及んで、放置される運命に。

 

そんな経過ながら、引き続き行われている発掘調査では異なる時代時代の特徴なども浮き彫りしてきているようですね。「現在残る館跡には豊臣氏時代の加藤光泰の改修による遺構が多いと推定されてい」るのだそうでありますよ。

 

こたび立ち寄った施設を冒頭で「信玄ミュージアム」と言い、あたかも武田信玄メインと見えたところながら、実のところは甲府市武田氏館跡歴史館の通称とすれば、館跡の発掘紹介こそが展示の本分というべきなのかもしれませんですね。

 

 

ちなみに甲府駅ある銅像といえば、南口にあるどっしりとした武田信玄像が夙に知られるところですけれど、現在の甲府市につながる街並みの基礎を築いた武田信虎の像も、躑躅ヶ崎館跡へとまっすぐに道が伸びる北口で見ることができる。顔の向きとしては駅の反対側を向いているようで、信玄像を背後から睨み据えている恰好なのかもと思ったりしたものです。