ちとお休みが長引いてしまいましたですが、両親は老人にありがちな「エアコンなんて必要ない」てな思いにとらわれることなしにガンガン冷やして、いつも以上に元気に過ごしておりました。取り敢えず何より。

 

と、それはともかくとして、帰宅後にまた録画が溜まったTV番組などをちょこちょこ見ておりました中、Eテレ『サイエンスZERO』で取り上げていた「球状コンクリーション」なるものに「!?」となったのですなあ。

 

海の中で死んだ生物の有機物が周囲の物質と化合して、球体状のカプセルのようなものにくるまれてしまう。これが非常に硬いものであるらしく、地盤の隆起などによって海中から陸上に出てくると、廻りの土壌は浸食やら風化やらで削られるものの、球状コンクリーションの部分だけ丸いままその姿を晒すことになるのだそうで。ですので、割って中を見れば、元々の有機物を出した生物の化石が入っている…となれば、天然のタイムカプセルということになろうかと。

 

長い間、球状コンクリーションの出来る仕組みが分かっていなかったところ、ついにこれが解き明かされた…というのが、番組の紹介点のひとつですね。詳しいことは番組でコメントしていた名古屋大学・吉田英一教授の研究室HPにありますので、ご興味があればどうぞ。

 

ところで、世界中で発見されるという球状コンクリーション、おそらくは日本でも見られる場所があるのであるかと思えば、結構あちこちで見られるような。ちなみに最大級のものは日本にあって、中にはクジラの化石が入っているとか…。ジオパークになっている秋田県、男鹿半島では鵜ノ崎海岸というところに丸い岩がごろごろしているそうですので、機会があれば、見てみたいものですな。

 

とまあ、科学の知見、新発見が伝えられた一方で、番組ではコンクリーションの性質を応用した研究を「人類の課題を解決!?」てな触れ込みで紹介もしておりましたですが、これには「うむむ…」と。要するに、頑丈なだけに「放射性廃棄物の封じ込め」ができるんでないのということなのでありますよ。

 

東日本大震災で甚大な被害を受けた福島第一原発のことを、世の中は風化させる速度がやたらに早いのは原発の再稼働ありきなのかと思うところですけれど、実際にはほんのちょっとデブリ取り出しでさえ何年も掛かっているのですよね。

 

一朝事が起これば、もはや人間の手出しの叶わぬことが起こると分かっているのに、核のゴミ処理=放射性廃棄物の封じ込めができれば人類の課題が解決するかのように伝えるありようには、どうしたって「うむむ…」となってしまうわけで。

 

封じ込めた上で地下深くに埋めるのだということですけどね、思い出すのは喫煙者にマナーを促すJTの広告だったりします。結局、こういうことなんでないのですかねえと。

 

 

自然にできる球状コンクリーションを割ると中からは昔々遥か昔の生物の化石が出てくるということですけれど、後々遥かの後の人類(がいるのかどうかは分かりませんが)が「なにやら地中深くに筒状のコンクリーションがたくさん埋まっている」と発掘したらば、出てきたのは大量の放射線でした…てなことになったりしないという保証は誰にもできないことでしょうに…。

2009年とあってはもう16年も経ってしまっておりましたか…。古楽アンサンブル「コントラポント」の名を目にして、「一度聴いたことがあったなあ」と思い出したわけですが、そんなに経っていようとは。

 

ともあれ、そのアンサンブルによる演奏会が比較的近所のJR中央線・武蔵小金井駅前のホールで開催されることを知り、出かけていったのでありました。

 

 

16年前の演奏会@トッパンホールは12月24日の開催で、「17世紀パリのクリスマス」を再現するような内容だったものですから、心持ちがほっこりあたたかになったことを記憶しておりますが、今回のプログラムはマルカントワーヌ・シャルパンティエの作品を集めて「聖母被昇天のミサ」を再現するような構成でありましたよ。聖母被昇天の祝日とは8月15日、奇しくもお盆と同時期であったとは。

 

会場の小金井宮地楽器ホールがきっちり冷房が効いているから…ということばかりではなしに、暑い最中に行われた演奏会、前回は冬場でほっこりだったですが、今度は心持ちが清々しくなるような演奏でありましたよ。

 

日本にも古楽アンサンブルは多々あって、取り分け「バッハ・コレギウム・ジャパン」といった有名どころが知られるわけですが、そうした大どころとは一線を画す地味さ?を感じるコントラポントながら、さほどに大きなホールでない空間(今回は578席、トッパンホールよりちと大きい規模)で奏でられる響きは都心のトッパンホールで、地味ならぬ滋味豊かなものだったのですよね。

 

近代の大オーケストラによる爆演もそれはそれで心躍るものではありますけれど、異常な気象状況に苛まれる毎日に心身をじわじわと蝕まれているような気のする頃合い、古雅な音色が癒しに通する、いい体験であったと思っておりますよ。

 

それにしても、プログラム・ノートには曲目にしても歌詞にしても詳しく記載があって、どこをどうとってもキリスト教の祝祭ミサであるわけでして、本来はキリスト者にこそ受け止められる内容なのでしょうが、そうした信仰心やら宗教感から離れた者であっても「癒し」を享受できるというのは、偏に音楽の力なのであろうと改めて。

 

近代になってきますと、楽器の用法なども変化していった結果、宗教的な意図でもって作られる音楽作品も非常に大がかりなものになってきますけれど、そうなる以前のバロック期、このあたりにこそ渇いた体にすっと、あるいはじわっと染み入るような音楽世界があるような気がします。酷暑となった夏には打ってつけなのかもしれませんですよ。

 

演奏を堪能した帰りがけ、外にでれば夕方となっても相変わらずの暑さについ、「ふう…」とひと息、吐息をついてしまいますが、この吐息がわずかながらも涼やかになっていた。そんな演奏会なのでありました。

 


 

という具合に酷暑が続いており、東京でも最高気温予想に38℃てな数字が見受けれる日々がありますので、ちと老親の慰問(?)に出かけてまいります。ま、世の中的にお盆休みも近いですのでね。てなことで明日(8/5)から数日(2~3日ですかね)、お休みを頂戴いたしたく存じます。どうぞ、皆さまも熱中症にお気をつけてお過ごしくださいまし。ではまた。

さてと、今回の甲府行きのメインイベント、山梨県立美術館の展示を見に辿り着いたわけですが、もひとつついでのお話を。

 

 

美術館の入口前には彫刻作品が見えておりますけれど、実はこの美術館(と県立文学館も)のある場所は「芸術の森公園」と言われて、園内あちこちに彫刻作品が置かれてあるという。美術館にはたびたび(文学館にも少々)立ち寄ったことがありながら、園内を見て回ったことがありませんでしたので、思い立ったこの時にということで。

 

エミール=アントワーヌ・ブールデル 『ケンタウロス』(1914年)

 

まずは美術館前を飾るブールデルの『ケンタウロス』。大いにロダンの影響を受けたと聞けば、「筋骨のあたりに…?」と思ったりするものの、瀕死状態の場面とあって胴が伸びあがり、首が極端に傾いたあたり、写実を超えた再現を目指したようにも思えるところかと。で、最初にブールデルが登場しましたように、この公園内の彫刻はかなり有名どころの作品が並んでいるようでありますよ。

 

ヘンリー・ムーア『四つに分かれた横たわる人体』(1972-73年)

 

これはもそっと入口近くにあって美術館の顔のようになっている作品ですな。ムーアは横たわる人体をさまざまに造形して、一見したところでは「ん?人体?」と思うも、だんだんと想像が追い付いてくるようなところがありますので、分かりやすい方なのかもですねえ。

 

アンリ・シャピュ『ミレーとルソーの記念碑』(1884年)

 

ムーアの像の左裏手あたりにちょっとした木立がありまして、その中にひっそりとあるのがこのレリーフ。ジャン=フランソワ・ミレーのコレクションで知られる美術館だけに、ミレーとやはりバルビゾン派のテオドール・ルソーが並んだ記念碑の存在はなるほどですが、元々は「フォンテーヌブローの森の開発計画に反対し、自然保護運動をしたミレーとルソーの功績を称え作られたもの」(と同じブロンズ型から鋳造されたもの)だそうありますよ。

 

フェルナンド・ボテロ 『リトル・バード』(1988年)

 

ボテロという名のとおり?絵画も彫刻もぼってりふくよかに作ってしまう作者にかかればリトル・バードもこのように。取り分け子供向け遊具と間違われやすいのか、「作品にのぼらないで下さい」という注意書きが反って登りたくさせるような気も(笑)。

 

アリスティード・マイヨール『裸のフローラ』(1911年)

 

マイヨールの造形はその顔付きで「あ!マイヨール?」と思ったりしますですね。ボテロの後に見ると、人体の美をそのままに写し取ろうとしている…と思うも、もしろフローラをボテロが作ったらばどんな?という余計な想像が湧いてしまい…。

 

エミール=アントワーヌ・ブールデル『叙事詩』(1917年)

 

もうひとつのブールデルは文学館の前に。『叙事詩』というタイトルから場所が選ばれたのでありましょう。ブールデル作品は結構激しい一面を見せるよねえと思うも、「ポーランドの自由と独立を目指して生涯をささげた詩人ミスキエヴィッチの記念碑の一部」であると知れば宜なるなかなと。

 

オーギュスト・ロダン『クロード・ロラン』(1880-1892年)

 

17世紀に神話画風のタイトルの下、実は風景画を描いてしまったという画家クロード・ロランの姿ということですけれど、ちとモダンに過ぎるような気も。まあ、風景画のステイタスがまだ低い時代に挑戦者であったとは言えましょうから、そのあたりの表出ですかね。

 

…てな具合にあれこれ見て回りましたですが、さほどに広い園内でないものの、作品は他にもまだあって…。とはいえ、折からの日差しの強さが芝生の照り返しで弥増して、暑いの何の!この公園は四季折々に花々を愛でる場所ともなっているようながら、どうにもサルスベリばかりが目に付く季節では、園内を回るのも適当な時季ではなかったようでありました。いやはや。

 

NHKドラマ10で『舟を編む』を見ておりますが、「紙の辞書は今の時代に必要か」と考えを巡らす場面がありましたですね。時代の流れの速さによる修正加筆、はたまた誤植が生じたりした時の訂正などに即応できない紙媒体はデジタルに敵わない…という面は確かにあろうかと。

 

ただ、そうした流れに反論するように、紙の辞書を編集していたその時、その時の言葉のようす、載っていれば新語であっても一般化したのであるなとか、まだ載ってなければ一部の流行にすぎないのかとか、あるいは語釈そのものも「その時にはそう理解されていた」という軌跡が残せるのだといったような話がありました。

 

確かにそっち方面のことも大事でないとは言いませんですが、そうなってくると、紙媒体発行時を生きる人たちのために「言葉の大海原を渡る舟を編む」というのとはちと目的がズレてしまっているようにも思えたり。

 

ではありますが、人々が辿った軌跡を残すという作業(これを一営利企業がやるという判断は別として)、なるほど後々に歴史を知る手がかりになることもあるのだなと、このほど覗いた展示を見ていて思ったものでありましたよ。

 

 

立ち寄りましたのは東京・国分寺市にある東京都公文書館。夏企画展として開催中の「江戸の地誌・絵図~その系譜をたどる」を覗いたわけですが、「系譜をたどる」という部分、これは必ずしも一つの出版物の改訂経過をたどるのではないものの、年代の異なる地図・地誌を参照することで、経年変化をたどることができるのですよね。本来ではないにせよ、辞書の改版にも結果として同じことが言えるような気がしたものです。

 

『寛永九年江戸図 内題;武州豊島郡江戸庄図』(1632年)

 

『寛文十年江戸絵図(新版江戸大絵図)』(1670年)

 

『分間江戸大絵図(新板江戸大絵図)』(1676年)

 

こちらは江戸時代初期、お江戸の市中を描いた地図を年代順に3種並べたものでして、地図だけに細かいところを見てしまいたくなる(が、画像ではちいとも判別できない…)ところながら、差し当たり目を留めるべきは、江戸の町がどんどん拡大していっていることと作図の緻密さが増して行っていることでしょうか。

 

一番上は、いかにも手書きで作った地図という感じである上に、お城などが立体的なイラストで表示されている。こうした地図の作り方は今でもあるでしょうけれど、地図の正確さに頼る実用性とは別の意図で作られるのではなかろうかと。

 

それが44年後の一番下を見る限り、これはどうしたって地図そのものですよねえ。こうした経年変化は、(この時代ではありえませんが)常に上書き改訂が行われていたならば、知ることができない情報なわけです…てなふうに考えたり。

 

ちなみに一番下の精巧な地図を描いたのは遠近道印(おちこちどういん)という、人を食った名前の絵図師であると。当時「開発の進んでいた江戸東部…本所・深川を図の左下、江戸湾海上に組み込むという新機軸を見せてい」たりと、なかなか工夫に富んだことをしている。広げたときに収まりのいい形にしている一方で、「図中の○印・△印を合わせると接合できるという仕掛け」(切り取ればぴったり合わせることができる)も施しているそうな。

 

 

さらにこの遠近道印、大型地図を方形に収まりよく配置したものの、狭い場所では広げて見られない、繰り返し広げると折り目の部分が傷んでしまうてなことが気になったらしく、「自ら製作した図の正確さはそのままに、地図帳に仕立てるという画期的な発明を」も手掛けたのであると(上の画像の真ん中上)。惜しむらくは頁ごとに東西南北がまちまちであったことで、重版出来には至らなかったそうですが…。

 

ただ地図帳の発想は、全体像を把握するよりもむしろ細かい地域の情報を参照するものとして、後の「切絵図」に繋がっていったのでもあろうかと。

 

『東都番町図 全(内題:番町絵図)』(1755年)

 

こちらが切絵図の始まりとされるものですけれど、番町という地域を切り取ることが選ばれたのはもっぱら実用本位の故であるようで。「旗本屋敷が建ち並ぶ番町は、江戸屈指の道に迷いやすい街区」だったそうですのでね。今ならばスマホでマップを見ながら「あっちかぁ、こっちかぁ」とやるところを、江戸期の人たちは切絵図片手に目的地にたどり着いたのでありましょう。

 

ということで、地図は不案内な町を歩く際に欠くべからざる携帯品となっていった一方で、花のお江戸に出てくる人たちへの情報提供として「名所案内」(要するにガイドブックのようなものですな)も刊行されていたとか。

 

 

「江戸最古の絵入り名所案内的地誌と評価されている」という『江戸名所記』(1662年)は、「江戸御城・日本橋・東叡山から始まりけ、計80箇所の名所を挙げてい」るそうな。これが京都の版元から出されたのも徳川の世となった時代のなせるところでしょうかね。

 

 

地誌の方では天保五年(1834年)に刊行された「『江戸名所図会』において集大成を見」たとされるようですが、これに対し「編さん開始から足かけ40年をかけて行われた精緻な調査と考証、挿絵の高い写実性」と説明があったのを見て、「ああ、辞書編纂みたいだ」と思ったものでありますよ。ということで、ドラマ『舟を編む』を思い出しながら、興味深く見てきた展示なのでありました。

 

 

信玄ミュージアム@甲府の常設展示室を眺めて、もっぱら武田信虎と躑躅ヶ崎館のお話にばかりで終わってしまいましたので、続きを少々。といって、特別展示室の方は撮影不可で画像はありませんので、展示を振り返りつつ、武田神社にも(以前行ったことはあるのですが)立ち寄ったというお話でして。

 

 

そも武田神社は甲斐武田氏の本拠として知られる躑躅ヶ崎館の跡地にある、とは先にも触れたとおりですけれど、神社の境内に入るにはまずこの朱塗りの橋、神橋を渡ることになります。武田氏の居館であった当時の主郭中心部に現在の本殿・拝殿が設けられていますので、あたかも濠を渡り越して城跡に踏み込むがごとしの印象です。

 

 

橋を渡った先にある医師団の両側には高く石垣が積んでありますけれど、いかにもお城然としている分、信玄らの古い時代のものではなくして、豊臣・徳川支配時代に組まれたものかもしれませんですね。

 

 

余談ながら、鳥居をくぐったすぐ右側には「太宰治の愛でた桜」という解説板が。美知子夫人との新婚時代をしばし甲府で過ごした太宰は『富嶽百景』などの有名作を残したわけですけれど、甲府住まいの散歩の途中にでも立ち寄ったのですかね。『春昼』という一編で、ここの桜に触れているそうでありますよ。と、太宰はともかくとして、石段を上がって参道をまっすぐに進めば、拝殿に至ります。

 

 

土地土地に自慢の?お殿様というのがいて、駿府では今川ではなしに徳川家康でしょうし、肥後熊本では細川でなくて加藤清正とか。甲斐国でも武田氏滅亡の後に甲府城に寄ったお殿様は何人もおりましょう(その一人が柳沢吉保だったり)けれど、やっぱり武田信玄なのですよねえ。領国支配の拠点が今の甲府駅近く、甲府城に移った後も信玄ゆかりの場所は何かとありがたがられて…と思えば、実はこの神社、わりと新しいのですよねえ、思いのほか。

大正四年(一九一五)大正天皇の即位に際し、晴信公に従三位が追贈され、これを機として山梨県民はその徳を慕い、官民が一致協力して、社殿を造営、大正八年(一九一九)四月十二日、鎮座祭が盛大に齋行されました。(武田神社内解説板)

甲府城が造営されると、おそらく躑躅ヶ崎館跡は顧みられることが無くなっていたか、さはさりながらなんとなく遺徳を偲ぶ風はあって手つかずの土地になっていたか、とにかく新しいわりに神社の領域がかなり広いのでありますよ。それだけに、なんとか昔々を思うよすがのようなところもちらりほらりと。

 

 

 

本物の富士山を借景にした庭園とは何と贅沢な!ですけれど、この主郭庭園の看板近くに昔のよすがのひとつがひっそりとありましたですよね。

 

 

葉っぱが茂って分かりにくいですが、清水が湧き出しておりまして、神社の説明板に曰く「一説によると信玄公の御息女誕生の折、産湯に使用した事に因り「姫の井戸」と名付けられたと云い…」ということで。ほとんどの参拝者は「姫の井戸」の向かいにある水琴窟にばかり目を奪われて、こちらはスルーだったようですけれど、「飲用可能」ということでしたので、試しにひと口ごくりと。なるほど癖の無い水とは思いましたが…。

 

もうひとつのよすがは、拝殿・本殿のある主郭を西側、かつて躑躅ヶ崎館の時代には西曲輪と呼ばれた場所ですな。今ではただの雑木林のように見えますけれど、わざわざ信玄が嫡男・義信の婚姻に際して増築したそうな。専用の出入り口もある新たな曲輪に義信を置いて甲府盆地の広がりを眺めさせ、武田家当主となる意識醸成を図ったのでもありましょうか。

 

 

ただ、歴史が物語るのは信玄から義信へ、うまい具合に継承が行われたわけではないということですなあ。なまじ濠で区分けて独立感のある西曲輪を設けたがために、信玄排除の密謀を企てやすくなってしまったのかとも。

 

 

てなことで、武田神社にはもそっと武田氏居館としての名残りが感じられるところはあるようながら、あまりの暑さに熱中症を危ぶんで早々に退散することに。信玄の時代には、甲府もかほどの暑さに悩まされることもなかったのであろうなあ…などと思いつつ…。