ミューザ川崎のランチタイムコンサートに行ってまいりました。湿気が多く、時折ざざぁと激しい雨が降ってくるような鬱陶しいお天気の下でしたですが、フルートとオーボエのデュオ(にピアノ伴奏)という清涼感ある響きの中に身を置いて、しばし忘我の境に。といって、お隣の席の方のようにぐっすりお休み状態とはなりませんでしたが(笑)。

 

 

ともあれ、木管楽器で主役級のフルートとオーボエのデュオとは、相変わらず取り合わせの妙が感じられる企画であるなと思うところ。で、テーマは「珠玉のオペラ」とあって有名どころのオペラ作品、ロッシーニ『ウィリアム・テル』、ビゼーの『カルメン』、モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』、そしてヴェルディの『リゴレット』から夙に知られたメロディーをアレンジした演奏の数々、何とも言えず楽しいものでありました。

 

取り分けピアノを伴わずに本当の二重奏で演奏された『ドン・ジョヴァンニ』の曲では、時折ファゴットくらい入ってほしいような…と思ってしまったりもしましたですが、モーツァルトの時代とその後のロッシーニ、ビゼー、ヴェルディの時代とで、本来の曲を演奏するオーケストラの厚みに違いを想像させるようなところがあったのもまた一興でありましたよ。

 

プログラム・ノートでは今回のデュオ・アレンジがどういった背景によるものなのかはものをすべて窺い知ることができませんでしたが、『リゴレット幻想曲』がドップラーの手によるもので自らのヴィルトゥオジティを披露する意図があったであろう一方で、モーツァルトあたりは特に宮廷やサロンの仲間内で音楽を演奏する楽しみのためにあるアレンジであろうかと思ったり。

 

モーツァルトの頃はもっぱら宮廷やら貴族たちのサロンが音楽演奏の場としてあって、さすがにオペラ全曲をサロンで再現するのは難しいにもせよ、それぞれに得意の楽器を持ち寄ってできる範囲で演奏を楽しむ形があったでしょうし。音楽は自由学芸のひとつとして、歌唱や楽器演奏は貴人の嗜みでもあったわけですしね。

 

これがモーツァルトの後、ベートヴェン以降の時代になってきますと市民階級の台頭があって、ブルジョワたちも(あるいはそうでなくとも)貴族のサロンを真似るかのように音楽演奏の楽しみが広がっていきますですね。宮廷やら貴族やらとの関わりが決して濃くはないであろうシューベルトも、仲間内で集っては演奏を楽しんだことがシューべルティアーデとして、今では音楽祭の名称になっていたりしますし。

 

当然に仲間内がそれぞれに持ち寄った楽器で演奏するとなれば、時に特異な編成になることもあるわけで、歌曲で有名な『鱒』のメロディーを使ったピアノ五重奏曲では珍しくもコントラバス・パートがあったりするわけで。

 

と、いささか余談に流れてしまいましたですが、ピアノのようにたくさんの音を一人で出せる楽器はともかくとも、基本的には単音を奏でる楽器の場合、それを一人で演奏していても楽しくはあるのでしょうけれど、どうしても他の誰かと合奏したくなるのは、何につけ楽器をやる人たちの思いでもありましょう。そうした需要に有名曲のアレンジは応えてきたのでもあろうかと思ったものでありますよ。

 

ま、今回は仲間内の合奏というのでなくして、完全に演奏する側と聴く側とが分かれた演奏会形式であるものの、演奏することの楽しみをふいと思い出させられた気も。たぶん押し入れの奥にあるであろう楽器のひとつも取り出してみますかねえ…という気分。ま、ともするとジャイアンのリサイタルのように迷惑を振りまくだけの結果に陥るかもしれませんが…(笑)。

ちょいと前、先月末のEテレ『古典芸能への招待』で取り上げられた『仮名手本忠臣蔵』の大序を見ていて、「そうだったなあ、赤穂浪士の話は室町時代、足利の世の話に移し替えられていたのだっけ」なんつうことをうすぼんやりと思い返しておったりしたところで、こんな一冊を手にとったのでありますよ。題して『足利の血脈』と。

 

本書は、戦国を語る上で欠かせない「足利氏」をテーマに、7名の歴史時代作家が書き下ろした短篇小説を収録したアンソロジー。…これまで戦国史を語る上で、メインで書かれることがなかった「足利氏」を軸に、この時代の画期となる出来事を時系列で描いていくことによって、“もう一つの戦国史”が浮かび上がる。

版元・PHP研究所HPにはかような本書紹介がありまして、7人の書き手によってともすると室町時代を通観するような仕上がりでもあるか?と思えば、実は文字通りの「もう一つの戦国史」であったと。なんとなれば、話の中心は関東、要するに鎌倉公方、古河公方(加えて堀越公方、小弓公方も)の物語だったのでして。

 

どうやらそもそもがプロジェクトものとして企画された一冊のようでして、企画協力に挙がる栃木県さくら市は最終的に小弓公方系の足利家が江戸時代を通じて領した喜連川藩の所在地であり、巻末にはご丁寧にも「喜連川足利氏を訪ねて-栃木県さくら市歴史散歩」なる一文まで添えられているという。町おこし本といってもいいのかもです。

 

そんな経緯からは当然なのか、歴代の関東公方が大活躍…かと思えば、これまでにも数多の本を読んできましたように、室町期の関東情勢は複雑怪奇なものですので、そこに一本筋を通す役割は喜連川の地を本貫とするさくら一族なる忍びの衆になっている。ひたすらに古河公方に寄り添う影の存在として。

 

ですが、栃木県に忍者の里があったのであるか?という点では「栃木県 忍者」で検索しても、日光江戸村のアトラクションしか出てこないので、おそらくは本書用に作られた存在なのかもですね。ですので、そうした影の存在が歴史の所々に顔を覗かせて引き起こされる事々は、結果として歴史の一面を語るようでいて、思い切りのフィクションなのでしょう。そんな話だったら面白いてなところで作った筋立てで。

 

ですので足利義輝弑逆やら織田信長謀殺やらになってきますと、「よくまあ、作ったな」という以上に「やりすぎじゃね?」感もあるところながら、始まりの古河公方誕生から最後の喜連川藩誕生まで時系列でて歴史の流れを押さえていく7編、それぞれに面白く読ませてもらった次第ではありました。

 

ただ、残念ながら本書を読んで「どれどれ、栃木県さくら市の歴史探訪に行ってみようか」とまでなるのはよほどの好事家か日本史に深入りしている人ではなかろうかと。さくら市の町おこし的な根っこの趣旨に適うかどうかは微妙な気がしたものではありますよ。

信州の諏訪湖畔にある北澤美術館を訪ねて、特別展『万国博覧会のガレ』を見てきたという話の続きになります。パリ万博の開催ごとに作品を出品し、高い評価を得てきたエミール・ガレですけれど、フランス以外の開催にまで出張っていくことはなかったのでしょうか、そのあたり特段の説明はされておりませんでしたけれど…。

 

ガレがガラス部門でグランプリを得た1889年パリ万博の次に開催地となったのはアメリカ、シカゴの博覧会でしたですね。で、ガレの出品しなかった1893年のシカゴ万博で「国際舞台に初登場」を飾ったのがドーム兄弟であったと。

 

 

これはシカゴ万博出品モデルのひとつということですが、ずいぶんと渋い作品のような気も。ドーム兄弟は元よりガラス工場を持っていたものの、「1891年に、新たに装飾工芸ガラスを制作する部門を設置した」(Wikipedia)そうですから、ガレに比べるとかなり後発ではありますけれど。

 

さりながら、シカゴに続くブリュッセル万博(1897年)ではガラス部門で金賞を受賞するほどに評価が高まってきており、装飾性と個性を磨いたドーム兄弟はブリュッセルでも不参加だったガレをやきもきさせる存在になっていたのかもしれません。ちなみにこちらは1895年作の扁壺『ロレーヌ公ルネⅡ世』、ガレもドーム兄弟もロレーヌ愛が強いですなあ。

 

 

ともあれ万博を通じてガラス工芸界は競争激化の様相となるわけながら、ガレももちろん黙ってはおらないのでして、「1900年に開催される次の万博に備え、…誰にも真似のできない高度な技法」を生み出していったとか。例えばガラスの象嵌装飾「マルケットリー」(1898年特許取得)はそうした技法のひとつだそうで。

 

 

「熔けたガラスの表面に、あらかじめ文様の形に整えた色ガラス片を埋め込み、再び過熱して素地にならし込む装飾法」ということでして、そのマルケットリーで作られたこの「オダマキ文台付花瓶」は1900年パリ万博の出品モデルであるということです(ブロンズ製の台座もガレ作と)。

 

それにしても、「万博でグランプリを獲得した者は、次からは審査員となるのが通例」だったとなれば、ガレは1900年パリ万博では審査員に回ってもおかしくなかったところ、新しい技法をもって挑戦したのには、(展示解説にはありませんが)やはりドーム兄弟とのライバル心があったのではないですかね。

 

間違いなくドーム兄弟は出品してくるであろうところ、ガレが審査員として高評価を与えるのも癪ですし、逆に評価を低めるようなことがあるとそれはそれで批判されたりもしましょうし。だからといって、勝敗ある場へ参戦して、先達のガレが負けるわけにもいかない。実に難しい状況の中、結果としてはガレ、ドーム兄弟ともどもグランプリ獲得なったようで。

 

 

ドーム兄弟の方もこんな清々しい作品を出品したのですから、双方痛み分けの同時グランプリもむべなるかな。されど、ガレの内心は微妙だったかもしれませんですねえ。なにしろ、「準備につき込んだ膨大な費用を回収できず心労が重な」たともいいますし。

 

そして、「1900年万博の賑わいが過ぎ去る頃からガレは病におかされ、療養の末に、1904年9月23日ナンシーで58歳の生涯を閉じ」ることになってしまったとは、ガレにはもう次に万博は無かったわけで、つくづくパリ万博と共に歩んだ生涯だったような。

 

時を経て改めてパリで博覧会が開かれたのは1925年、別名「アール・デコ博覧会」とも称されるだけに、ガラス工芸はルネ・ラリックの時代へと移っていたのであろうかと、しみじみ思うところでありますよ。

 

先に中国映画の『ワンセカンド 永遠の24フレーム』を見て、チャン・イーモウ監督の映画愛が云々…と申しましたですが、インドの映画『エンドロールのつづき』の方はこれはもう、パン・ナリン監督自身の昔を振り返った、それこそインド版『ニュー・シネマ・パラダイス』でもあろうかと思ったものでありますよ。

 

 

インドの田舎町に暮らす少年サマイは一度だけ家族で出かけた映画を見、夢のような世界にすっかり幻惑されるのですな。さりながら、駅に停車する列車に売るチャイ作りをしている父親(ちなみに車両に声をかけて売りさばくのはサマイの仕事…)はうらぶれ感に苛まれているものの、もともとバラモン階級の出身であるという誇りだけを頼りに暮らしているふう。気位だけは高く、サマイが映画に魅了されたとみるや、映画のようなものに関わってはいけん!と息子に申し渡すのですな。

 

このあたり、人に芸能を見せるような商売が低い身分のものと考える風潮がかつてのインドにもあったということになりましょうか。日本でいえば、新内流しといった街頭芸を見るような感覚であるのかも。

 

ですが、映画に取りつかれたサマイは学校をさぼって映画館に潜り込み、たたき出されることがあってもくじけない。いつしか、映写技師と仲良しになって映画を見放題になるのですな。さらに、サマイの映画熱は冷めやらず、友達とつるんで映画作りまがいのような遊びを始めたり、さらには巡回上映用のストックフィルムを盗み出して、仲間内で映画上映会を開催するまでに。

 

もちろん、一切の機材は映写室の出入りで目にした機械を見よう見まねで手作りしたものなわけですが、子どもながらそこに傾ける情熱のほどが強く印象に残る部分ではなかろうかと。

 

思い返せば、ホームビデオといったものも発明されていない昭和のひと頃、友人の中にも8mmフィルムカメラ(おそらくは父親のものだったのでしょう)でもって映画作りのようなことをやっている連中がいましたっけ。

 

あいにくとその中から今日の大監督が誕生し…なんつうことはないですが、日本のどこかしらには同じようなことをしていた若者から、例えば「ぴあフィルムフェスティバル」(これ、まだ続いているのでしたか?!)などを通じて世に出、実際に映画監督になったような人たちもいたのでありましょうねえ。

 

最終的には熱意にほだされる形で父親もサマイの思いを受け止めて、映画作りの勉強ができるよう、町を送り出してやることに。現実にはその少年が後にこの映画を撮ることになる監督として活躍するようになるのですから、まあ、「好きこそものの上手なれ」を絵にかいたようなものでしょうか。ただ、子ども時代に好きだった何かしらがあったとして、それがその後の「上手」として名を成すに至るといった物語は、ごくごく少数にしか当てはまらないのが現実であるわけですが。

 

とはいえ、そういう事例は(失敗例に対してほんの僅かな数であったとしても)子供たちには夢を見る事例として知ってほしいように思いますですね。いつかの段階で、道はいくつにも枝分かれする将来が待ち受けるとしても。

ちょっくら足を延ばして、また信州・諏訪の美術館へ。昨秋にも訪ねてはおりますが、展示も変わっておりましょうし、季節も異なる。JR中央本線の上諏訪駅から歩くと少々かかるものですから、取り敢えず諏訪湖畔にある美術館にたどり着くと、まずは湖畔に出て木陰でひと息ついた次第ですが、湖の様相は季節でずいぶんと違うものであるなあと。

 

 

秋にはただただ、鏡のような湖面が広がるばかりだったのですけれど、夏はかくも水草(?)に覆われていようとは。ま、かるがも親子がすいすいというのも、季節感でありましょうかね。

 

と、しばし諏訪湖を眺めて休息ののち、初めに訪ねたのは北澤美術館でありますよ。折しも開催中の関西万博にあやかってか、『万国博覧会のガレ』という特別展が開かれておりました。ガラス工芸をメイン・コレクションとしている美術館らしいところですね。

 

 

展示されておりますのはエミール・ガレとともにドーム兄弟の手にもよるアール・ヌーヴォーの作品、そしてその後、アール・デコの時代を象徴するルネ・ラリックが少々といった具合で、これは同館の基本的な設えでもありましょう。

 

 

それでも今回は、万博との関わりを中心に解説されている点が興味深いところ。これを見ていきますと、なんだかガレは万博とともにあったのであるか…と思ったりしてものでありますよ。

 

ロンドンで開催された初の万国博覧会に遅れること4年、1855年に第1回目のパリ万博が開かれた際、エミール・ガレ(1846年生)は子供だったわけですが、このときは「高級ガラスと陶器の企画販売業を営」んでいた父シャルル・ガレがガラス&陶器部門に出品し、佳作を得ていたとか(ちなみにブランプリはバカラ)。その後も万博の度ごとにシャルルの出品・受賞は続いたようです。

 

そんな万博と縁ある事業を営む父親とともに、エミールが万博会場を目にしたのは1867年の第2回パリ万博だったそうで、このときにジャポニスムの風はエミールにも吹いたようですな。今さらですけれど、ガレのアール・ヌーヴォー作品として夙に知られる題材は草花や虫だったりすることからして、そもジャポニスムの影響なのであるかと思ったり。美人画で知られるあの喜多川歌麿にも『画本虫撰』(えほんむしえらみ)なんつうのがあるくらいですし。

 

 

で、こちらはエミール・ガレが自ら初めてエントリーしたという第3回パリ万博(1878年)の出品作品であると。父親に倣って万博での成功を夢見、またジャポニスムを吸収した独自作品というわけですな。ただそこにはさらにひと工夫あったのがガレたるところでしょうか。本作には「微量のコバルトで薄青色に発色させたガレ社オリジナルのガラス素地」が用いられているそうな。これを称して「月光色ガラス」とはネーミングの妙もあって大きな反響(ガラス部門と陶芸部門で銅メダル)を呼んだそうです。

 

 

続く第4回パリ万博(1889年)でもガレは大活躍。ガラス部門で初のグランプリ、陶芸では金メダル、(1884年頃から手掛け始めたという)家具部門でも銀メダルと受賞したそうな。さりながら、ガレの名前ではガラス工芸で知られるものの、陶芸作品もあったのであるか…と思うものの、そも父親が陶器も含めた事業を行っていたのですから、無縁のものではなかったのですな。

 

 

万博出品作とは記されていませんでしたけれど、ガレが伊万里風の意匠を取り入れて作ったもの。用途としてはインク壺なのだそうで。これもまたジャポニスムを意識しつつ独自性を出して一品かと。

 

ところで、万博での評価はその後の事業を左右する影響力があったことをよく知っていたガレは(といってガレだけではないのしょうけれど)、こんな出品案内のカードを作っていたということでありまして。

 

 

会場内のどのあたりに出展ブースがあるのかを告知していますので、体のいいチラシということになりまな。そんなこんなで思い至るところは、当時時の万国博覧会は今の見本市にも近いものであったかと。今さらですけれどね。

 

とまあ、万博を舞台に快進撃を続けるエミール・ガレに対してこの後ほどなく大きなライバルが出現。ドーム兄弟の登場となってくるところですけれど、ちと話が長くなってきましたので次回に続く…ということでご容赦を。