先日はランチタイムコンサート@ミューザ川崎を聴きに行った…ということは、その度たびに覗いてみる川崎浮世絵ギャラリに今回もまた。ちょうど新しい展示が始まったところでしたので。夏休みの行楽シーズン(というには暑すぎる日々ですが)を前に「浮世絵で旅する海と山」という内容でありましたよ。

 

 

大きな戦乱の無くなった江戸時代、物見遊山の旅は江戸期の人たちにとって娯楽のひとつになっていた…とは、お伊勢参りの賑わいが思い浮かべられましょう。ただ、誰しも遠いところまで出かけられたわけでもなく、「多くの人は気軽に行ける江戸近郊の行楽地に足を運」んだのであると。「2,3泊程度の小旅行が、江戸っ子たちにとっては、日常から離れて見聞を広めるチャンスだった」ようでして、江戸っ子に人気だった行楽地を浮世絵から探ってみようという企画なのですなあ。

 

まず紹介されていたのは金沢八景でありました。三浦半島の付け根にあたるエリアで、今でこそ神奈川県ながら当時は武蔵国の範疇ですから、至って出向きやすいところだったかもです。ちなみに金沢八景が景勝地として知られるようになるきっかけは「江戸中期・元禄七年(1694年)頃、明から渡来した心越禅師が中国の瀟湘八景になぞらえて選定」したことにあるようで。

 

本家中国の方は元来、洞庭湖とその周辺の風光明媚さを言っているので、金沢八景よりも近江八景の方がイメージは近いような。ま、そっくりな場所というのでなくして、あくまでイメージが近いというだけですが。

 

ただ、金沢、近江いずれにしても、「八景」を構成する要素という要素というのは同じものだったのであるか…と今さらながら。地名の後に「夜雨」「晩鐘」「帰帆」「晴嵐」「秋月」「落雁」「夕照」「暮雪」が付く景観を選定してあったのでしたか…。とまれ、風景画の名手、歌川広重は八景を個々に描くシリーズ画を3種、八景を一望する鳥観図的な作品も3種残しているとか。やっぱり人気だったのでありましょう。

 

続いて、も少し足を延ばせる人たちには江の島が人気だったようですね。6世紀、欽明天皇の頃の創祀と伝わる江の島神社は「鎌倉時代に頼朝が文覚に命じて弁財天を勧進させてからは武士の信仰を集めた」そうですが、江戸期になりますと、弁財天が芸事と金運の神と考えられたところから多くの江戸っ子が押し寄せることに。

 

これも広重が幾種類も描いていますけれど、芸事成就を願ってか、揃いの紋所を染めた日傘を手に、常磐津やら清元やらの人たちが講を組んでわらわら押し掛けるようすが見てとれます。混雑する中で同じグループが迷わないようにと、先頭を行くガイドが巨大なパラソルを持って歩く姿をベネチアなどでも見かけましたが、参加者が皆それそれに日傘を持っていては混雑に拍車をかけることになったでしょうなあ。

 

で、もひとつ海浜リゾートとして紹介されていたのは大磯になりますけれど、これはもっぱら明治期のお話ですな。東海道の宿場ではありましたが、のんびりしたところだったようす。それが明治に入って「治療・保養・レクリエーションを目的とした近代的な海水浴場」の開発が始まると、明治18年(1885年)に大磯もそのひとつとなったと。

 

フライヤーの上の方、明治24年に描かれたという海水浴風景は(見えにくでしょうけれど)真ん中の女性は洋風の海水着を着ているのが何ともモダンな。被っている麦わら帽子も、今でこそ「農作業?」と思ってしまうところもありますが、西洋由来のこれまたモダンな被り物であったようでありますよ。文明開化ですなあ。

 

と、紹介されていた景勝地は海ばかりではありませんで、山岳リゾート的なるところも。ちょいと前のNHK『ブラタモリ』で大山参りの後には江の島の方も周遊して…てなことが出てきましたですが、山の方の第一はその大山でありました。

 

『ブラタモリ』でも大山参りの賑わいを浮世絵で紹介していましたけれど、番組に出てきた絵に見るほどの混み具合は本展展示作品から窺がえませんでしたが、それでもかなりの人出ではありました。と、ここでかの番組を補うように?展示解説にあった大山参りのエピソードをふたつほど。

 

ひとつは「納め太刀」のことでして、えっちらおっちら江戸から大きな太刀を担いでやってきた江戸っ子たち、奉納を終えると「前年納めたものと取り換え、持ち帰って護符とした」そうですが、大山阿夫利神社の神職の方はそうは言っていなかったような…。

 

もひとつは神社参拝に先立って滝に打たれる水垢離のこと。「参拝者は滝に打たれながら己の犯した罪を大声でざんげしないと天狗にさらわれる、と信じられていたそうです」とは、これまた番組では触れられておりませなんだ。歌川国芳描くところの『大山良弁瀧之図』は、そんな解説に触れて見てみれば、確かに大きな口を開けて何か叫んでいるっぽい人たちが見てとれましたですよ。

 

なんだか長くなってしまいましたが、最後にもうひとつの山岳リゾート、箱根のことを。ここのアドバンテージは何より温泉が豊富に湧いていることでありましょうね。で、箱根七湯と呼びならわされた温泉場のそれぞれは、みな箱根関所の手前にあったことがポイントのようで。つまりは箱根の湯治には通行手形無しで行けたということで。

 

で、その箱根七湯ですけれど、それぞれに客寄せの点では商売敵ながらも共存共栄の精神もあったのか、温泉場ごと名所絵に仕立てた団扇絵を作っていたとは。いずれも、景色を広重に、人物を国貞に依頼したシリーズ絵のようになっておりまして、スタンプラリーならぬ、団扇絵集めラリーでも行われていたのであるかと思ったりも。

 

団扇絵のことはちょいと前にも触れたですが、いわば販促品たる宣伝うちわに当時名うての絵師二人の共作作品を配するとは何とも贅沢なことではなかろうかと。団扇絵がたくさん海外流出したのもむべなるなかと思ったものなのでありました。

JR中央本線の上諏訪駅から北澤美術館サンリツ服部美術館と、ふたつの美術館を訪ねたわけですが、も少し駅に近いところに諏訪市美術館というものも。立ち寄ろうとしたところ、あいにくと展示替えで休館中だったもので、「さて、いずこで昼飯をとろうかいね…」と思いながらぶらりとしたあたり、余談として少々。

 

思い返せば…というほど遠い昔ではない昨秋に同じ2館を訪ねた際には、北澤美術館のカフェでランチとしたですが、また今度もでは工夫もないので…とは思うも、近辺には昼食処が見当たらない。やむなく…といってはなんですが、前回も立ち寄ることだけはしたタケヤ味噌会館のお世話になることに。

 

 

看板にはみそ汁、コーヒーくらいしか書かれてありませんが、信州味噌ラーメンが食せることは先に立ち寄った先に気付いておりましたのでね。陽気的には酷暑の中で「ラーメンか?!」と思わなくもなかったですが、一度は試してみようということで。当然に建物の中は冷房が効いておりましょうしね。

 

 

会館2階の食事処は「信州味噌ラーメン 竹屋本店」という看板だけに味噌ラーメン一点推しのメニューでしたですね。味噌ラーメンというと、赤味噌がっつりの「こんなに塩分摂っていいのかしらん」系をお好みとする方々もおいでとは思いますが、個人的にはここのような白味噌あっさり、旨味で勝負の方がありがたい。実においしくいただきましたですよ。

 

で、同じフロアには前回見たとおりに味噌の製造工程を解説するパネルが展示されていたりするわけですが、これの繰り返しは避けるといたしまして…と、この時、も少し奥に「ギャラリー」なるものがあることに気付いたのでありますよ。

 

その部分だけ照明が落ちて暗い室内が垣間見えるばかりながら、入口脇には「入ってはいけんよ」とは書かれておりませんし、むしろ「入ると照明が点ります」的な案内も。いささか恐る恐るながら、入り込んでみた次第です。

 

 

企業による美術コレクションのギャラリーと考えれば、先に訪ねた北澤、サンリツ服部という美術館と同系ながらも、学芸員を置いてそれらしくというところもまでのことはしておらないのでありましょう。ただ、「ほおほお、こんな作品が」と思ったりするものに遭遇したりしたという。

 

 

 

上は先に北澤美術館でも涼をもらった奥田元宋の『山湖清澄』、下が元宋の師匠であった児玉希望の『水辺雨霽』(って、最後の文字、ちゃんと表示されましょうか…)。児玉希望には色彩豊かな印象を持っていたのですけれど、この水辺の雨がまさに晴れんとしてきている空気感、これはまたいいですよねえ。

 

 

こちらは美術作品コレクションというよりも、創業家と個人的なつきあいでもあったか、立ち寄ったおりにか、「先生、ぜひひとつ揮毫を」なんつう求めに応じ、遊び心を交えて筆をとったものでもあろうかと。描いたのは陶芸の人間国宝・荒川豊蔵だそうですし。多治見市美濃焼ミュージアムを訪ねたときにも荒川がものした掛け軸が飾ってありましたっけ。

 

 

これまた似た類の展示品ですな。そういえば諏訪の出身であった作家・新田次郎が寄せたのが上の色紙でして、「ふるさとに自慢がひとつ竹屋味噌」と。で、下はもう、タケヤ味噌の看板ともいうべき女優・森光子が「ひと味ちがいます」と。ま、そんなタケヤ自慢のコレクション(?)を並べたギャラリーの締めくくりは当然に?こんな作品になりましょうかね。ラーメンついででしたが、そこそこ楽しめるギャラリーでありましたよ。

 

読響演奏会@東京オペラシティコンサートホールに出かけてきたのでありますよ。メイン・プロのリムスキー=コルサコフ『シェエラザード』は炎暑の最中、ちと熱すぎるのでは…などと思っておりましたが、確かに重厚な始まりではあるものの、むしろヴァイオリン・ソロの冷たい涼感とでも言いますか、シェエラザード姫の心のうちに秘められた青い炎にゾクッとしたりも。ま、怪談ではないですけれどね(笑)。

 

 

ところで今回プロの目玉のひとつは、「世界的名手が奏でる至福のモーツァルト」とフライヤーにもありますとおり、ベルリン・フィル首席のオーボエ奏者アルブレヒト・マイヤーがモーツァルトのオーボエ協奏曲を披露することでしたですね。

 

モーツァルトのオーボエ協奏曲といえばK.314だと思えば、さにあらず。ただ、他にオーボエ協奏曲を作っていたとも聞き及ばず…だったわけですが、ここで取り上げられたオーボエ協奏曲ヘ長調K.293についてはプログラム・ノートにこんな紹介が載っておりましたよ。

…オーボエ協奏曲ヘ長調は、1778年秋の(マンハイム)再訪時に着手された。おそらく宮廷楽団のオーボエの名手フリードリヒ・ラムのために書かれたと推測されるが、オーケストレーションは50小節、オーボエ・パートは70小節まで進んだところで放棄され、未完のまま残された。

要するにK.293の作品番号を持つものは断片と残されたに過ぎないのでしたか。もっともそのままで演奏会にかけるのはとてもとても…であるはずですから、曲名に添えて「G.オダーマット補筆版」とあるように、スイスの作曲家ゴットハルト・オダーマットが断片をもとに第一楽章を構成し、第二、第三楽章は新たに作曲したのであると。

 

果たしてどんな具合になっておろうか?と興味津々で聴き始めたわけですが、最初はいかにもなモーツァルト…であるのは当然ですなあ。最初の数十小節は自身の手によるのですから。さりながら、だんだんと「おやぁ?」と思うのもまた当然ではありましょう。進んで、第二、第三楽章となってきますと、これはもうオダーマットの完全な創作となれば、なおのことです。

 

どうなんでしょう、オダーマットが後半をつくりだすにあたって、モーツァルトらしさを意識はしたでしょうけれど、どうしたって本人の個性は入り込みましょうね、きっと。それだけに、モーツァルトっぽいフレーズのお尻だけひょいと捻って「あら?」てな感じを受けることもままあったような。

 

今や「らしさ」を追求するのであれば、生成AIにモーツァルトのすべての楽曲データを学習させて、続きをいくつか作ってね!とコマンドすれば、おそらくたちどころに幾種類かのバージョンで結果が提示されるのではないですかね。「らしさ」の追求という点では、人が試みる以上に「らしさ」のある曲が出来上がるかもしれない。

 

ことモーツァルトのこの曲に限らず、極端な話、シューベルトの未完成交響曲を完成させてしまうとかいうことも生成AIにはお茶の子問題ではありましょう。もちろん、それを命じる人がいるかどうかが分かれ目ですけれどね。

 

どこかで誰かがいろんな試みをしていて、もしかすると結果が動画で見られるてなこともあるのかもですが、それが大きく話題になるわけでもないのは、いくら「らしさ」を装っても機械が作った「らしさ」以外の何物でもない、といって「人が作ってこそ」感覚があるのかもしれませんですねえ。

 

結局のところ、創造性といったものまでがヒトから奪われるのを良しとしない、というか胡散臭く感じるような意識が働くのかもしれません。ブラインド・テストでもしてみれば、おそらく区別はつかないでしょうけれどね。

 

ま、ヒトが作るにせよ、Aiにやらせるにせよ、残念ながら未完で残されたものを完成させるのは、もはや別物を作るといったことと同じなのだと考えた方がいいのでしょうなあ。それだけにタイトル表記の仕方を、今回のようにオダーマット補筆とするのでなくして、モーツァルト/オダーマット作曲のオーボエ協奏曲とでも言ったらいいような。バッハ/グノーの『アヴェ・マリア』と言うがごとくに。

 

失礼ながら、オダーマットって誰?となるよりも「モーツァルト作曲の…」とした方が受けがよいということはあるにせよ、添え物表記では多くの部分を作った作曲家が浮かばれませんし、これがモーツァルトなのだと思い込むのもまた違うことですしね。

 

ただ、AIが作り出したものだったらどうなのであるか。もはやAIによる創作物は当たり前の状況になりかかってもおりましょうから、そのうちにAIがペンネームをもって、作曲家然とした?あるいは作家然とした名前を名乗って(名乗らせて)作品が発表されるようになるのかも。初音ミクのような存在(?)はもう十年以上も前からあるのですしね。

 

ともあれ、そんなふうになっていったとき、作り手はともかく受け手にとって「いい」と思えればそれでいいとなりましょうか。どうなのでしょうねえ…と、演奏会のお話からすっかり離れてしまいましたですが、すぐさま答えの出せそうもない問題に沈思するところなったものでありましたよ。

ということで、信州諏訪のサンリツ服部美術館を訪ねて、もうひとつの展示室で開催されている『響き合う陶磁器の色 三彩と五彩』展を覗くことに。いささか門外漢ながら、中国陶磁の世界ですなあ。

 

 

ま、どの程度の門外漢かと申しますれば、展覧会タイトルにある「三彩」というのは有名な「唐三彩」のことであるか?そして「五彩」とは寡聞にして聞いたことがない…という程度ですのでね。その程度のところで感じた印象と気付きを備忘に努めておこうかと。


そも唐三彩というもの、7世紀末から8世紀前半となれば中国は唐王朝の時代…とは当然でしょうけれど、長らく日本では大陸由来の品々を唐物(読みは「からもの」ですが)として珍重するも、その「唐」は要するに中国を指していたてなことがあるもので。ま、ここで「唐三彩」は正しく唐王朝の時代のやきものであったと。

 

「白化粧を施した後に色釉と透明釉を掛けて焼成することで、より鮮明な色を生み出してい」るということですが、解説を見る限り、どうやら三彩と言って「三色に塗り分けられている」てなことではないようですな。フライヤーの一番下に配された画像が、唐の時代、8世紀の「三彩荷葉鳥文三足盤」ということながら、どう見ても三色にとどまらない色合いを呈しておりますし、その上に見える馬の像も同時期に作られた「三彩馬」だそうですし。

 

では、五彩と言われる方はといえば、単純に五色を使っているものというわけでもなく、また色数が多いということを言っているのでもなさそうでありますね。フライヤーの右上にあるのが17世紀、明代の「五彩楊柳観音図平鉢」ですけれど、色数から言ったら下の三彩の方が多いようですものね。

 

年代的には技法として三彩の発展系に五彩があるものと思われますが、決定的な違いはむしろ絵付けの方法の違いのようで。五彩の方は「素地に透明釉を掛けて焼成した後、さまざまな色の上絵具で文様を描いて焼き付けた」ものということですのでね。

 

日本では取り分け(早い話が門外漢でも)景徳鎮の窯がよく知られていて、赤を基調としたものは「赤絵」、さらに金彩を加えると「金襴手」と呼んで珍重された由。ただ、フライヤー右上の五彩作品は景徳鎮窯ではなくして、もそっと南、漳州窯(現在の福建省)の産であるそうな。

 

日本では景徳鎮との区分けのためか「呉洲赤絵」と呼ばれたそうですけれど、近くの港町、汕頭からヨーロッパに向けても盛んに輸出されたことから、彼の地では輸出港の名をとって「スワトウ・ウェア」と呼ばれるようです。あたかも有田焼が伊万里港から出荷されたが故に「伊万里焼」として知られるが如しではありませんか。

 

ともあれ、世界中に出回ることになったやきものだからでしょうか、フライヤーの鉢ひとつとっても、一目で「ああ、チャイナな…」という印象が残ります。こう言ってはなんですが、昭和の時代の中華そばのどんぶりの色合いを思い出すといっては語弊があるかもですが…。

 

詳しいわけでもないのに興味本位で常滑に行ってみたり、美濃焼やら瀬戸焼やらの土地土地を訪ねたりはするも、中国陶磁の方のことも少しずつ吸収しつつ過程にある今日この頃と言えるかもしれませんです、はい。

信州諏訪湖畔に2つの美術館を訪ねたのですけれど、ひとつは先に特別展『万国博覧会のガレ」を見た北澤美術館、そしてもうひとつはこれから話の出てまいりますサンリツ服部美術館。で、この2つの美術館というのが、湖畔の周回道路に面して隣あっている、間には路地がひとつあるだけなのですな。

 

そんな立地ながら、北澤の方はガラス工芸と現代日本画、サンリツの方は西洋近代絵画と茶道具てな具合にコレクションの棲み分けがなされている、見事なくらいに。訪ねる方はそのバリエーションが楽しめて何ともラッキーな気がしますですよ。

 

で、北澤の方のメインコレクションであるガラス工芸を堪能した後、同館所蔵の現代日本画の展示室も当然に眺めてきましたですが、「北澤コレクション名品展 夏」と銘打った展示は、暑い暑い夏に一服の涼をもたらすもので、ほっとひと息つくのに最適な空間でありました。

 

「魁夷の青」とも言われるだけに東山魁夷の『白夜』には冷涼な空気感が漂うのはもとより、これに対して「元宋の赤」と言われた奥田元宋の作品は、昨秋ここの美術館で見た紅葉の景色に感嘆したものでしたけれど、夏のイメージとしてピックアップされた『晨輝』もまた心惹かれるところでありましたよ。よほどポストカードを買おうかと思うも、どうしても現物の色が印刷には出ないのですよねえ…。

 

とまあ、岩絵具が見せるきらきらも清水のほとばしりのようであるなと日本画を堪能したその足で、今度はお隣のサンリツ服部美術館へ。こちらはこちらで西洋近代絵画のコレクションから「水のある風景」と題した展示が行われておりました。

 

 

こちらの方も暑い夏に因んで水のイメージをふんだんに。ではありますが、先に日本画を見て涼感を得たのに比べますと、やはり油絵はいささかの暑苦しさを伴ってもしまうような。元々、さほど暑くない?ヨーロッパで作られた油絵の技法だけに、寒いところで暖かさをありがたがるところもあったでしょうからねえ。もっとも、昨今のヨーロッパの夏も侮れないものがあるようですが…。

 

ともあれ、アルベール・マルケやキース・ヴァン・ドンゲン、そしてラウル・デュフィといった有名どころと、ここでしか出会えない邂逅があるのも楽しみですけれど、白い画面が特徴的なジャン・フサロ、以前たましん美術館で「!」と思ったポール・アイズピリの作品などは、予期せぬ出会いがしらといった感じ。これもまた楽しからずやではありませんでしょうかね。

 

というところで、サンリツ服部美術館ではもう一つの展示室では茶道具ならぬ、中国陶磁の展示があったのですけれど、そのお話はまた次回にということで。

 


 

 

と、お話の途中ではございますが、毎度毎度の父親通院介助に出向きますので明日(7/18)はお休みを…って、通院の付き添いはこの間行ったばかりでは?とも。そうなんですが、実はその折、ドクターが体調不良(医者の不養生といってはなんですが…)で休診となってしまい、通院予約が先延べされてしまったという…。ま、経緯はともかく、また明後日(7/19)にお目にかかりたく。ではでは。