ちょいと前に放送されたEテレ『ドキュランドへようこそ』を(録画で)見ていて、始まりのところはちとしみじみと…。「人並みの幸せを手にしたはずの52歳。しかし2人の息子は別れた妻のもとにいて、田舎暮らしを楽しむつもりで購入した家は土台が傾いているのが現実…」というオランダ人のおっさんロヒールは、その年齢になっても自分探しのような、やりたいこと探しのようなことをしていたのであると。

 

老齢ながら健在の父親には、昔から何ごとにつけ、中途半端な取り組み方であったと諦め気味に語られてしまったりもするロヒールですけれど、80億を超える地球の人口のうち、かなり多くの人が「他人事でないぞ…」と思ってしまうかもですなあ(かく言う我が身も振り返りつつ)。

 

ですが、この番組のタイトルは『第二の人生の始め方 グラスに響くメロディー』というものでありまして、思いがけずも一心に取り組めるものを発見して、第二の人生スタート!ということに。子どもの時に出会った楽器「グラスハープ」の魅力を再認識したロヒールは、プロを目指して猛練習を始めるのですが…と話は続いていくのですよね。。

 

こう言ってはなんですが、ロヒールがグラスハープに目をつけたのは奏者の数が少ない、つまりは競争があまり無いということに「勝算あり!」と見たか、「よっしゃぁ!」という一念発起の背景には採らぬタヌキの皮算用的な思惑が働いていたように思えなくもない。父親にしても、些か呆れながら暖かく見守るというスタンスであって、心の中では「どうせまた失敗して…」と考えているような節がありますし、普通に考えると父親氏の見方というのが、ごく普通の受け止め方だろうとも。

 

さりながら年齢の故か、いまさら恥も外聞もないと開き直ったようなロヒール。まずは自作の楽器を改造自転車に積み込んで街中へ繰り出し、ストリートミュージシャンとして演奏を開始するのでありますよ。奏者が少ないだけにグラスハープという楽器もその音色も物珍しいところから、ちょっとした人だかりもできるようになりますと、今度は海外で演奏機会を提供したいと言ってくる人まで現れたとは。

 

ま、そんな上手い話に乗っかったところが騙されて…という流れも今のご時世、ありそうではありますが、ロヒールはちゃんとドバイに出かけて演奏の機会が与えられたのですな。ただし、演奏自体は失敗に終わるのですが…。

 

というわけで、ロヒールの挑戦は(現在進行形で?)続く…という幕切れで番組は終わりますけれど、この話、笑ってばかりはいられない面もありますですねえ。日本には「年寄りの冷や水」といったことわざがありますけれど、あんまり慣れないことをやったところで反って災いが…みたいなニュアンス。ではあるも、これを少々突き抜けたところにこそ「道」は開ける?てなことはあるのかもしれんなあとは思ったところでありますよ。どのみち、失敗しても「今さらだった」ということですので、よく言われるようにやらずに失敗するよりもやって失敗した方がまし的なことでもありましょうしね。

 

ということで、それを我が身に引き寄せてやおらやりたいこと探しを始めるわけでは全くありませんですが、この先、長いんだか短いんだか分からない中で、ちいとばかりの刺激にはなったものでありましたよ。

 

と、ここで話は変わるのですけれど、そも「グラスハープ」という楽器って、「グラスハーモニカ」とは違うものであったのか?ということを、今さらながら知ることになりましたので、ちと書き留めておこうという次第でして。

 

番組の中でロヒールが演奏していた楽器は「グラスハープ」と紹介されておりましたな。大きさの異なるワイングラス(状のグラス)を並べ、中に水を入れて音階を整え、湿した指先でグラスの縁をこすればあら不思議!透明感に溢れた音が立ち上るという具合。

 

という理屈を押さえた上で、「そうなんだよねえ、モーツァルトはこの楽器のために曲を書いていたりするのであるよ」と思っていたわけですが、収録CDの曲目リストを見れば「for glass harmonica」とある。てなことから、完全にグラスハープとグラスハーモニカを混同していたのですなあ。

 

さりながらグラスハーモニカという楽器は、グラスハープの改良系であって、発明者はなんと!あのベンジャミン・フランクリンであると。この人、本当にいろんなことをしてますなあ。日本でいえば平賀源内のような…と思えば、奇しくもこの二人、18世紀の同じような時代を生きた人たちであったのでしたか。もちろん互いにあいまみえたことは無いわけですが、もしもこの二人が相乗効果を生むようなことがあれば、とんでもない発明品が現出しておったかも…とは妄想です(笑)。

 

で、フランクリンの生み出したグラスハーモニカ(今ではアルモニカと呼ぶようになっているようです)ですけれど、改良点のひとつは楽器としてのコンパクトなまとまりでしょう。足踏みオルガンのような筐体の中に、大きさの違うガラスの器を縁の部分が触れ合わないように横向きに並べて収めてしまった。楽器移動の利便性は極めて高しですな。

 

さらに、足踏みオルガンのようと申しましたが、まさに足踏みペダルでもって(足踏みミシンのような動力で?)ガラスの器の方が回転するので、指を当てるだけで音が出せる。グラスハープでは常に指先の湿り気に気を配っていたところも、自動回転する器は水に触れるようになっているので、この点でも奏者の負担は軽減されたのであると。

 

てなことで、フランクリンによってグラスハープは操作性の良いグラスハーモニカに変貌を遂げたものの、透明感ある音色は魅惑的ながらも、高くきーんとした音は精神に悪影響を与えるてな言説が流布されたこともあって(そう言われてみれば、蠱惑的な悪魔の楽器の音色と思えなくもない)、忘れられた楽器となっていったようでありますよ。

 

もちろんロヒールが手掛けたのは、そんな手の込んだグラスハーモニカではなくして、日本ならば100均で大きさ違いを揃えたといったようなグラスを並べていますので、明らかにグラスハープ。いずれの楽器にせよ、奏者人口は至って少ないわけですが、果たしてロヒールの挑戦のその後はいかなることになっておりましょうなあ。ちと気になるところです。

この間覗いた信託博物館でもって、近隣ミュージアムの案内のひとつとして見かけたのが「金融ミュージアムOtemachi」のリーフレットでして。信託博物館が三菱UFJ信託銀行の企業ミュージアムならば、金融ミュージアムの方はどうやら三井住友銀行の設けた施設であると。

 

経済やら金融やらといった分野に至って弱いことは信託博物館の振り返りでもすっかり露呈しているところながら、それでもついつい立ち寄ってしまった次第でありますよ。それにしても、東京・大手町のビジネス街ど真ん中、高層のオフィスビルの中にあるとは、スーツ姿でもない者(昨今の勤め人の服装がカジュアル化傾向にあるとはいえ)にとっては些か場違い感があって敷居が高いような…。

 

 

三井住友銀行東館(本店のお隣)の2階に「金融ミュージアムOtemachi」あると、吹き抜けロビーにも案内はありますけれど、この空間にカジュアルと通り越してラフな服装で入り込むのは勇気が必要でありましたよ(笑)。

 

ともあれ、厳めしく立哨する警備員の横目視線を感じながら、エスカレータで2階へ。入口から覗いてみれば展示空間はこんな感じになっておりましたよ。

 

テーマのことなる7つの知の柱=モノリスを選びカードに触れていくことで、自分の興味本位での金融知識の旅が始まります。

てな設えで、モノリスなる柱は大きなタブレットのようになっているようで、次々現れてくる大小のカードをタップすると説明文が現れるという仕組み。ひとつ選ぶと紐づけされた関連項目に誘われますので、次々に見てしまう仕掛けなのでありました。

 

「自分の興味本位で」という所以はそのあたりにあるわけですが、Webで何かを閲覧するとAIだかが勝手に「この人はこんなことに興味があるのだあね、ではこれはどう?」みたいに次々出てくる広告みたいで、少々気持ち悪さを感じないでもない昭和世代でありますよ。それに、興味本位で進むとやっぱり得られるところは幅が狭くもなるような。

 

実際、個人的にはついつい企業史の方面に関心が向いてしまい、結局のところ金融の知識なるところは後回しになってしまいましたしね(苦笑)。ですが、三井住友銀行のそもそもを見ていく中で、三井は早くから両替商をやっていたろうけれど、住友の方は?と思えば、実は住友家が泉屋が両替店を開いたのが1662年で、三井の方は1683年だったそうな。ただ、近代の銀行らしい形を示したのは三井、住友いずれも1875年とか。

 

その後の紆余曲折を経た昭和のいっとき、メガバンクに統合される以前の都市銀行としては、同じく財閥系のわりには三井銀行よりも住友銀行の方が羽振りが良かったような(むしろ海外ではMitsui Bankが頑張っていたという気も)。そのあたり、住友銀行が一本立ちの経過をたどったのに対して、三井の方は太陽神戸銀行と合併して太陽神戸三井となり、後に「さくら銀行」に名称変更して「三井」の名前が消えたりもした。にもかかわらず、住友がさくらを合併した結果として三井住友銀行が誕生。あらら、「三井」の名前が復活しておる?!ということに、財閥系のしたたかさを感じたりもしたものでしたなあ。

 

と、企業史をたどりに来たわけでもないのにかかる話になってしまいましたが、一応モノリスでは金融に関する知識を仕入れたりも。ま、子供にも分かるようにやさしい解説が、ともすると物足りない(分を弁えない発言ですが)とも。そんな知識吸収の賜物であるのか、別コーナーに設けられた「金融クイズ」なんつうのに挑んだところ、晴れて全問正解!金融博士の称号を手にしたのでありましたよ(笑)。

 

 

ところで、モノリスという柱の裏側にはそれぞれに金融にかかわることわざや名言が紹介されておりました(よく見れば、モノリスの方には発言者のカードがあって、これをタップすると紹介記事が出てくる)。例えば、このように。

 

 

地球は先祖から受け継いでいるのではない、子どもたちから借りたものだ。サン=テグジュペリ

ともすると、金融と関わりありやなしや?みたいなひと言ながら、蓋し名言かと。ま、社会の経済活動と深い関係を持つ金融だけに、世が唱えるSDGsの方向性などに無関心ではいられないことの現れでもありましょうかね。

 

 

実は金融系のミュージアムということで、訪ねる前はかような展示が主たるところかも?と思っていましたが、この手のものはこの展示ケースだけ。考えてみれば、すぐ近くに日本銀行金融研究所貨幣博物館なる施設もありますし、三井住友銀行としては神戸営業部に貨幣資料室があるそうですので、棲み分けがされているということなのでしょう。

 

ということで、展示スペースは無人で、もっぱら機械とインタラクティブなやりとりをするという「金融ミュージアムOtemachi」、子ども連れの方が楽しめるかなとは思ったものなのでありました。

1937年の古い映画ながら、音楽映画としては夙に知られた『オーケストラの少女』。中学生の頃からいつかは見るだろうと思ってはいたものの、今のようなVODなど無い時代についど機会の無いまま何十年も経過してしまい…。

 

ですがふいと思い立ってみれば、Amazon Primeでお手軽に見られるようになっていたのですなあ。つうことで、何十年ぶりかの宿願(とは大袈裟ですが)をこのほど果たしたのでありますよ。

 

 

まずもって思い違いであったのは、オーケストラの少女・パッツィーは思いのほか子供ではなかった…ということでありましょう。せいぜい小学生くらいの年代と思っていましたが、とんだ勘違いでありました。

 

職にあぶれたトロンボーン奏者の父親のため、また同様の境遇にある父の友人たち、いずれもが何かしらの楽器演奏者なのですが、彼らを集めて新しいオーケストラを立ち上げ、あろうことか当時のアメリカでは最も著名な指揮者のひとり、レオポルド・ストコフスキーに指揮してもらおうことを、たった一人で(とんちんかんなすれ違いによる偶然にも助けられ)実現してしまうのですからね。これもまた、アメリカンドリームの類例とは言えましょうか。

 

だいたい数多の楽器奏者が職にあぶれていたという状況(おそらくは今でも楽器奏者が定職に就くのはなかなかに人数枠の関係で難しいのでしょうけれど)は、映画の中で「そもそもオーケストラが少ない」とされて「それならば新しいオケを」となっていくわけですが、本作の制作された1937年頃には未だ大恐慌の名残冷めやらずだったのかもしれませんですね。

 

という状況下ながら、1900年創設のフィラデルフィア管弦楽団を率いていたストコフスキーはカリスマ的に人気を誇っていたのでありましょう。この映画で主人公パッツィー憧れの的に、実在の指揮者が充てられていたわけで。それにしても、ストコフスキー本人が(加えてフィラデルフィア管自体も)出演しているというのは、ストコフスキーらしいところなのかも。少し後のディズニー映画『ファンタジア』にも出てくるわけで。

 

そもストコフスキーがアメリカで広くカリスマとして受け入れられたのは、メディア(露出)が好きだったからなのかも。その点では、カラヤンを思い出すところですけれど、本作でストコフスキーが振るオケのシーン、その楽団を映すカメラアングルが、後にカラヤンが作った映像作品で見たのと「おお、似てる!」と思った箇所があったりも。年代的にはカラヤンがストコフスキーを真似たといえるのかもです。

 

この映画が作られた時期というのは、先に『テイキングサイド』でドイツのカリスマ指揮者フルトヴェングラーが後年振り返って、あの時期に亡命していたら…とこぼしたように、ドイツの文化までもがナチの統制下にあった時代でしたですね。仮にフルトヴェングラーがアメリカに亡命していたとしたら、もちろん深い音楽性を評価する人たちはたくさんいたでしょうけれど、ストコフスキーをありがたがったアメリカの広い大衆層にまで人気が行きわたるものではなかったかもと。

 

どちらかというと、フルトヴェングラーが嫌ったカラヤンの方がストコフスキーに近い?と想像すれば、やはりドイツにあってこそのフルトヴェングラーだったのかもしれんなあと、改めて思ったものでありますよ。事の善悪はともかくとしてですが。

 

当時のアメリカで絶大なカリスマ性を示したストコフスキーですけれど、その実、演奏のありようには毀誉褒貶入り乱れている感もあろうかと。それでも、ストコフスキーがクラシック音楽の敷居を下げて誰にでも入り込みやすくしたとは言えましょうかね。

 

名盤(迷盤?)のひとつに挙げられることのあるチャイコフスキーの交響曲第五番は『オーケストラの少女』の中でもフィラデルフィア管を操って演奏を聴かせてくれていましたですが、晩年に残したニュー・フィルハーモニア管との録音(1966年)を聴きますと、好き嫌いは分かれましょうけれど、外連味に溢れて面白くしようという思いが伝わってこようというものです。

 

 

ちなみにこの盤には、ストコフスキー独自編曲によるムソルグスキーの『展覧会の絵』がカップリングされておりまして、ラヴェル版の演奏が当たり前にもなっていようかというこの曲に新しい光を当てて提示しているのもストコフスキーらしいところかと。そういえばバッハの曲をモダン・オケ用に編曲したりもしてましたですねえ。

 

ともあれ、フルトヴェングラーがドイツに留まってクラシック音楽の保守本流かくありなむとしていた時代、大西洋を隔てたアメリカではストコフスキーがクラシック音楽の大衆化をあれこれの手段で進めていた。おそらく、通好みの線で言えば今でもフルトヴェングラーに軍配が上がるかもですが、全く違うアプローチながらストコフスキーも忘れてはいけん存在ではあろうかと思ったものでありますよ。

 


 

と、先日の入院騒ぎで父親の定期通院が先送りになった分の予約が巡ってまいりました。例によって介助のために出かけてまいりますので、明日(6/24)はまたお休みを。明後日(6/25)にお目にかかりたく存じます。ではでは、そういうことで。

先日に訪ねた「市谷の杜 本と活字館」は大日本印刷の企業ミュージアムであったわけですが、同社がらみの公益社団法人DNP文化振興財団ではグラフィックデザインの専門ギャラリーとして「ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ginza graphic gallery 略称ggg)」を設けているのですな。凸版印刷に「印刷博物館」があり、「P&Pギャラリー」あるが如しでありましょうか。

 

gggにはしばらく前にフランスのポスター展を見に行ったことがあるも、かなりご無沙汰しておりますので、今はどんな展示が?と思いますれば『アイデンティティシステム 1945年以降 西ドイツのリブランディング』展が開催中と。ちいとばかりそそられて出向いてみたのでありますよ。

 

 

場所は相変わらず外国人観光客で賑わう東京・銀座。中央通りに面したオニツカタイガーのショップ前には長蛇の列が出来ていて、「ここの運動靴がかくも世界的ブランドになっていたのであるか…?」とは今さらながら。ともあれ、雑踏を避けて、六丁目の交差点からひょいと裏道(交詢社通り)に入った老舗画廊もちらほらするあたりに、gggはあるのですな。なんでも大日本印刷創業の地であるとか。

 

 

早速中へと入ってみるわけですが、(第二次大戦後)「民主主義に復帰し、経済的に発展した西ドイツは、日常を視覚的にかたちづくるデザイン・ソリューションの体系的な発展によって、ドイツのイメージを一変させた」というあたり、「コーポレート・デザインの代表的なポスターやビジュアル・アイデンティティの使用例」などなどで振り返ろうというものでありましたよ。

 

 

そも「ドイツのイメージを一変」とあるのは、戦時中はもとよりそれ以前、ナチスが政権を奪取してからはドイツのイメージがナチ・ブランド(?)で一色に染められていたからでもありましょうね。もちろnナチの宣伝戦略を称揚するものではありませんけれど、大衆を操作する術に長けていたとはいえるような。その一方で、ナチ台頭以前のドイツにはデザインの分野で独自の潮流もあったのですよね。

20世紀初め、ペーター・ベーレンスをはじめとするドイツのデザイナーたちは、後にコーポレート・デザインとして知られることになる世界初の例をいくつかつくりだしました。それにつづくバウハウスも、システマチックなデザイン・ソリューションを彼らのカリキュラムに含めました。

 

そんな戦前の作品の一端がこちらですけれど、今から見ればレトロ・モダン感の漂うものと受け止められるも、当時としてはモダンそのものだったのですよね。それが故に、バウハウスの活動はナチによって退廃芸術的とも見られたのでありましょう。

 

バウハウスのあったワイマールは第二次大戦後に東ドイツ領となって、建築・土木工科大学が置かれますけれど、東ドイツは共産主義の下、ある種ナチの方法をも思わせる大衆煽動プロパガンダ的なデザインを作り上げていくのはよく知られるところながら、ここでは別のお話。本展が「1945年以降 西ドイツの…」と括っている所以でもありましょう。

 

 

先に見たレトロ・モダン感漂うところとはまたひと味違うデザインの数々は、スタイリッシュな印象を与えもするのでして、フライヤーに配されたブラウン社のロゴやルフトハンザのマークを見ても感じられるところかと。

 

 

 

今ではロゴなどのコーポレートデザインの独自性を管理することは当たり前に行われていて、ロゴの清刷りを作って紛い物排除に努めたりしますけれど、ブラウン社は1950年代から始めたとは先駆的ではなかろうかと。余談ながら、ブラウン社といえばもっぱら「髭剃りの会社?」となりますが、元はラジオを作っていたそうでありますよ。

 

ブラウン社のロゴを作成したオトル・アイヒャーはその後、1972年のミュンヘン・オリンピックの主任デザイナーを務めることになります。1936年のオリンピックベルリン大会がナチカラーで染め上げられた記憶を払拭するような「前回とは対照的なビジュアル・プログラム」の設計が求められたのであると。

 

 

そのオトル・アイヒャーも創立者のひとりとして関わって1953年に開校したのがウルム造形大学だということで。活動時期は15年ほどと短かったようですが、展示にあった「ウルム造形大学卒業生の作品」を見れば、「ああ、あれもこれも!」と思ったりする。日本人でもそう思うですから、顕著な活躍だったと言えましょうね。

 

 

 

てなことで、戦前戦中のイメージを拭い去ることもあったであろう、戦後西ドイツのリブランディングですけれど、東西ドイツが統一されたのちの1996年、ワイマールの地にバウハウス大学ができて、新たな作品が生み出され続けておるようで。

 

時に、コロナ禍前の2019年に出かけたのがワイマールを含む旧東ドイツの町々だったものですので、やおら「また行きたいものではあるなあ」という思いが、展示を見ながら沸々と湧き起こってきたですが、世に戦争・紛争がなくなったら…とまでは言えませんが、少なくともウクライナと中東に一定の収まりを見ない限りはどうも出かける気が挫かれてしまいますなあ。全くもって個人的な思いではありますが、つい蛇足を申しました…。

続くときには続くもので、ここ数日でTOPPANホールミューザ川崎と、ランチタイムコンサートに出かけましたけれど、今度は東京オペラシティコンサートホールの「ヴィジュアルオルガンコンサート」を聴いてきた次第です。

 

ま、ここ数日を振り返る以前から気付いていたことではありますが、平日の昼間の開催とあって、集う年齢層の高いこと高いこと。当該イベントが取り分け無料であったり、かなりな安価であったりすれば尚のことですなあ。平日昼間に自由がきくのは、年金暮らしということにもなりましょうからねえ(と、その点では他人のことをとやかく言えた義理ではありませんが…)。

 

ですが、申し込むにあたって(全員が全員ではないにせよ)些か安直に過ぎるのでは?と思ったことも。実際、先日に近隣施設で開催された、グリーンランドを紹介する「多文化共生講座」(映画上映とお話)でも後ろの列から聞こえてきたご高齢のご婦人ふたりの囁き交わしとして、「どんな映画が上映されるの?話によったら寝てしまうかも…」とは内容を知らずに申し込んだのであるか?てなふうに。

 

もちろん年齢を問わず、知識欲を満たしたいてな思いを否定するわけではありませんので、一概に「だったら申し込むなよ(人数に限りがあるんだから)」てなことを言うつもりはないものの、聞こえた囁きからは前向きな印象が無かったもので、そういうことなら…と思ってしまったのでもありまして。

 

また、オペラシティのオルガンコンサートでも、しばらく前にホワイエで「取り敢えず申し込んでおいて、都合が悪くなったら来るの、やめちゃえばいいのよ。どうせタダなんだから」てなことも聞こえてきましたですねえ。もちろん、申し込んだからには具合が悪くなろうとなんだろうと参加せよと言うものではありませんけれど、「とにかく申し込んでおく」てなのはどうなのであるかなあ…と。やっぱり人数に限りがありますので、申し込み満席で来られないとなる人もいるわけですしね…。

 

昨年覗いた美術講座でマクラに使われた笑い話として、「老人にこそ教養と教育が大事…」(今日用がある、今日行くところがある)というのがありましたですが、放っておくと空白になりがちな行動予定を埋めんがために「とにかく申し込んでおく」ということだとすると、果たして動機としてはいかがなものであるかなあ…とは思ってしまうところでして。

 

折しもこの日の東京オペラシティコンサートホールの「ヴィジュアルオルガンコンサート」は(うかうかしていると予約段階で満席になってしまうこともありながら)、自席の一列前にごっそりと空きが出ていたりするのは、思いがけず到来した熱波にあきらめた人が多いのであるかなあと。ま、それはそれで無理して来て、救急搬送されたりする覚悟をせよと言っているのではありませんですが…。

 

と、ちいともオルガンコンサートの話に至っておりませんが、パリの教会の現役オルガニストというフランス人奏者が登場した今回、多彩な音色が特徴でもあるパイプオルガンではありつつも、わりと音色の選択が「いかにもオルガン」といったものでしたなあ。

 

もっとも、このいかにもオルガンらしい音色というのは、昭和を生きてきた日本人らしく?ハルモニウムの、というよりもそっとはっきり言えば幼稚園の園庭で先生が弾いていた足踏みオルガンの音を思い浮かべているのですけれど。

 

プログラムとしてはフランスの作曲家作品が多かったですが、最初と最後に演奏されたバッハを聴いていて、この間遅まきながら思い至ったバロック音楽らしい対位法に耳を傾けて、俄か知識の浸透を図ってきたものでありましたよ。やはり老人には教養も大事ということで…(笑)。