2020年6月から22年9月まで東京新聞(と中日新聞)に週一で連載されていた『よもやま邪馬台国』というコラムを興味深く読んでいた時期がありました。連載途中で気が付いたもので、終了後にこれが一冊の本にまとまったと知ったときには「そのうちに読もう」と思っていた次第。

 

にしても、何故「そのうちに」であったかと申しますれば、話の中に出てくる遺跡や資料館、読んでいるとあそこもここもと行きたくなってしまうこと必定だと踏んだものですから、折を見てということに。さりながら、読書遍歴の流れの中で先日に映画『まぼろしの邪馬台国』を見るに及び、「そろそろか」と。

 

これだけ暑い日々にあっては遺跡巡りに向く季節ではないものの、書籍にまとまって刊行されたのが2023年6月で、発掘やら研究成果やらが日進月歩なこともあり、最新事情が様変わりしてしまう前にと手にしたわけでありますよ。『よもやま邪馬台国 邪馬台国からはじめる教養としての古代史入門』という一冊です。

 

 

予め連載に接しておりましたので、読みやすさ一入であることは承知していましたけれど、なんとまあ、とっつきやすい語り口であることか。そも研究者が書いた研究書ではありませんので、だからといってどこぞのライターが思いつきの持説を展開するようなものと違っている。では、どんな内容であるかといえば、版元・梓書院の紹介にはこのように。

本書は、特定の説に偏るのは避け、何につけても「諸説あり」の邪馬台国ワールドを、ありのままに楽しんでいただくことを念頭に取材・執筆された一冊。本文中には、さまざまな説を唱える学者や在野の研究者らが登場する他、邪馬台国をめぐる「よもやま話」というタイトルの通り、取り扱う時代の幅も少し広げ、どこまでが史実か判別し難い伝承や地元に残る伝説なども取り上げる。

魏志倭人伝の記載をそのままに、現代の感覚でルートをたどれば「邪馬台国は太平洋の海の中?!」とも受け止められるだけに、それこそ『まぼろしの邪馬台国』を遺した宮崎康平のように邪馬台国探しに執心する人たちは学者以外にもたくさんいるのでありましょう。

 

大方としては九州説と畿内説があるとはよく知られたされたところで、朝鮮半島が目と鼻の先である九州北部に分があるように思うところが、纏向遺跡の発掘が進むと「やっぱり!」とばかりに畿内説が盛り上がる。その一方で、東遷説というのもあるのだそうですなあ。

 

九州北部に割拠する国々に争いの絶えない状況が続き、これではいけんとシャーマンとして実力が広く知られた卑弥呼をそれぞれの国々が持ち上げて卑弥呼を長とする「倭」連合国が生まれるも、範囲は九州にとどまらなくなって、卑弥呼(のクニ)は大和に東遷することになったてなふうに。

 

かなり著名な研究者の方も提唱されている説のようですが、九州の地の利と大和・纏向遺跡の発掘結果との折り合いをつけるためであるか…?なんつうふうにも思えてしまう気がしないではないですなあ。

 

ところで、この時代(弥生末期から古墳時代初め)のことを分かりにくくしているのは、中国史書が語るところと、後に編まれた『日本書紀』などが語るところとが併存していることでありましょうかね。

 

もちろん神話の語りをそのまんまに受け取ることはできないわけで、どちらかと言えば中国史書の方こそ信憑性のあるように思えるところかと。さりながら中国史書の方も結局は後代の写本頼みなわけで、そもそも卑弥呼が魏に遣いを送ったというのも、景初二年(238年)とあるのは景初三年(239年)の写し間違いではないかと言われていたり。

 

なんとなれば、景初二年段階では魏の朝鮮半島出先機関である帯方郡は乱の最中にあって、ここを経由する使節派遣はとても無理だったろうとされていたりもするわけで。その一方で、神話は神話と切って捨てるわけにもいかず、話はだいぶ作りこんであろうものの、その中には実際の歴史の名残のようなものが紛れ込んでいたりもするのでしょうしね

 

福岡県糸島の平原遺跡(邪馬台国時代では伊都国の範囲)では直径46.5㎝ほどの大きな銅鏡(内行花文八葉鏡)が出土したそうですが、これの外周を測るとまさに「八咫鏡」(と同種の鏡)なのではないかと(「咫」というのは長さの単位だそうな)。

 

神話では天照大神が瓊瓊杵尊に授けた三種の神器のひとつであって、これを縁に万世一系の天皇の歴史が語られていくわけですが、天からの授かりものが要するに天帝(を祀る国、つまりは中国)からの賜りものだったというふうにも考えられるでしょうしね。

 

といいつつ、日本神話のことはほとんど知らないもので、歴史との整合という点では、卑弥呼という人物は神功皇后に擬えているようですな。朝鮮半島との関わりの深さを膨らませて結びつけたのでしょうけれど、神話が語る天皇の歴史となんとか合わせるにしても、卑弥呼の時代とは100年余りも開きがあっては、なかなか得心しにくいところではなかろうかと。

 

ということで、(先にも申したことながら)この分からなさが古代史の魅力ともなっておりますですね。で、ただただ興味本位の素人が遺跡やら古墳やらを実際に目の当たりにして何かしらの発見があるはずのないのですけれど、それでも「行ってみたいものであるな」感がむくむくと湧きおこるのをどうしたものか。またいつかそのうちに(笑)。

暑い最中に熱い演奏。読響の演奏会@東京オペラシティコンサートホールを聴いてきたのですな。メイン・プロはサン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付き」だったものでありまして。

 

 

第1楽楽章の後半(通常の交響曲の第2楽章に相当?)に、じわ~っとパイプオルガンの低い響きがホールを満たすあたり、振動を肌感覚で受け止めるように、オルガンが体感する楽器であると改めて思った次第ですけれど、同行の友人もあの音、というよりあの響きは「家では聴けんのだよなあ」と。

 

よほど作りこんだマイ・リスニング・ルームと超弩級オーディオ・システムを組んだお宅ならばいざ知らず、ごくごく普通の民家に置かれた再生装置では、あの低い響きを体感することは不可能といってもいいですしね。もそっと感じたいとばかり、下手に音量を上げたりすれば結局のところ全体の音が馬鹿でかくなって近所迷惑になるのが関の山なわけで。

 

という具合に、毎度のことながらコンサートホールで触れる演奏に「これだあね」などと思いつつかえってきたわけですが、この先はその後のこと。ひと息ついた後に、朝方に録画しておいたTV朝日『題名のない音楽会』を見ていましたら、なんとまあ、サラ・ブライトマンが登場したではありませんか!

 

ひと頃、さまざまな歌い手が現れてにぎわった「クラシカル・クロスオーバー」なるジャンルの立役者でもありますですねえ。ミュージカル・ナンバーを始め、代表曲は多々ありましょうけれど、分けてもメガヒットを記録した『タイム・トゥ・セイ・グッバイ』(元はアンドレア・ボチェッリの持ち歌とは言わずもがな…)はじんわりと刺激が体中に染み渡るような曲ではなかろうかと。実際、この番組の公開録画の客席では、ブライトマンがこの曲を歌うと涙ぐんでいる方の姿が映し出されたりもして。

 

サラ・ブライトマンの日本公演は一度だけ聴いたことがあります(おそらくは2004年の日本武道館だったような)けれど、こう言ってはなんですが、そのライブの印象よりも番組内で聴かせてくれた歌声の方がよりじわっとくる感があったのには驚かされましたですよ(個人の感想ですが)。

 

それにしても、最初は「まだいたんだ…」てなふうに思ってしまったものの、直に聴いたときからでも20年余りが経過しながら衰えないどころか、それ以上の情感に溢れたパフォーマンスに接して、本当にびっくりしたものです。大したものですなあ。

 

ということで、昼間は読響の演奏を聴いて「ライブに優るもの無し」と思っていたわけながら、夜になってサラ・ブライトマンの歌声に「ライブでなくとも伝わるものは伝わる」と、音楽の形態は異なるにもせよ、そんな思いを抱いたものでありましたよ。

 

番組中、客席で涙ぐんでおられた方、個人的にもおそらくは40年くらい前になりましょうか、ジャズシンガー笈田敏夫がスタンダード曲『マイウェイ』を歌ったライブに接し、何故とも知れず涙が溢れてきたことを思い起こし、「うんうん、そういうことってあるよねえ、何とは言えないけれど頭の中では走馬灯ぐるぐるの状態でしょう」と声をかけたくなったものなのでありました。

先日、ギンザ・グラフィック・ギャラリー(ggg)を覗いた折、ちょいとばかり足を延ばして久しぶりに旧新橋停車場鉄道歴史展示室を覗いたのですが、ちと他のことにかまけて、話があとさきしましたでうねえ。

 

ともあれ、『日本海縦貫線100年展~知られざる大動脈~』という企画展が開催中だったものでして。鉄道の何々線が〇〇周年てな展示があちこちであって、全部はとても見に行けないものの、タイミングさえあえばついつい(笑)。

 

 

しかしまあ、日本海縦貫線とは聞きなれない用語ではありますが、だからこそ「知られざる大動脈」なのでしょうけれどね。フライヤーの説明には「北陸本線・信越本線・羽越本線・奥羽本線とそれぞれ異なる目的で建設された各線が、一体化することで「日本海縦貫線」として機能し、東海道・東北ルートと並ぶ日本の鉄道の骨格を形成する鉄道ルート」とありまして、言わばこれの呼称(正式な路線名ではないものと思われます)が「日本海縦貫線」であるようで。

 

現在はもっぱら貨物輸送に利用されて、最長距離としては九州・博多の貨物ヤードから北海道・札幌までを結んで、超長距離貨物列車が運行しているようでありますよ。旅客輸送の方はそこまで長くはなくとも、かつて臨時列車として一世を風靡した「トワイライトエクスプレス」(大阪・札幌間)がこの路線を走破していたと。

 

名前だけは「TWILIGHT EXPRESS 瑞風」に引き継がれているも、もっぱら山陽本線・山陰本線を行ったり来たりする運行のようですから、日本海縦貫線を走り抜けた本来とはずいぶんと異なる代物になっておりますけれどね。

 

と、ここで思い浮かぶのは日本海縦貫線と言いながらも、上に見た通過路線を見ますと「あらら、山陰本線が入っとらん?」となりますなあ。そもそもから言って日本海縦貫線の構想は江戸期の北前船に代わる輸送手段の構築にあったそうですけれど、大阪と東北・北海道を結ぶことが肝要であって、必ずしも山陰地方は寄らなくもいっかな…ということかも。山陰本線は今でも非電化単線区間があったりしますものねえ、「本線」と言われつつも。その一端を鳥取県の倉吉駅で、昨年(2024年)垣間見ることになりましたなあ。

 

それでも敦賀に鉄道を通すこということだけは、明治の早々、鉄道草創期にすでに決定事項だったようで、かなり早い時期に敷設工事が行われている。最初は敦賀と琵琶湖畔長浜の間で、琵琶湖自体は舟運に頼み、その後また鉄道で京・大阪だったらしい。その後には東海道本線とつながるわけですが。

 

このあたりさらりと触れておりますが、琵琶湖の北端から日本海沿岸の敦賀へ、大きな地図で見る限りさほどの距離ではなさそうなものの、この区間の鉄路敷設は難儀を極めたらしいですな。今では車道に転用されている柳ケ瀬トンネルの開削が、明治日本の技術では大変な難工事であったらしい。考えてみれば、琵琶湖の北の山々はずいぶんと北寄りながら、日本海と太平洋とに注ぐ川の分水嶺だったりするのですし。

 

太平洋に注ぐ川は琵琶湖経由で流れるので、河川法上では琵琶湖は川(の一部)となる…とは、これまた昨年大阪・枚方市に訪ねた淀川資料館で知ったわけですが。

 

ところで、先には山陰本線のローカルなさまを思い浮かべましたですが、一方で新潟から先、羽越本線とこれに続く奥羽本線の区間、これまた「本線」とはいえ、何とも言えない鄙なものとなっておりますなあ。一度だけ、秋田から青森まで特急いなほで移動したことがありますけれど、秋田駅で列車を待つ間、待合室のTVから流れてくる演歌の歌声がとてつもなくしっくりきてしまった、てなこともありまして。

 

ま、関東の者としてはこの北へ北へと走る路線のことにもそっと触れたいところながら、こちらのあたりは7月19日以降の後期展で取り扱われるようす。もう一度行ってみる?ま、そこまでしなくても…と、少々の惑いを感じる『日本海縦貫線100年展』なのでありました。

いやはや、何やら凄い小説に遭遇してしまったものであるなという印象が。「凄い」という形容の仕方がどうにも安直に過ぎて、我ながら情けなくなる表現ではありますが、角田光代の『方舟を燃やす』を読みながら思ったところでして。

 

 

小説たるもの(とは大袈裟ですが)、何百年も昔に書かれた古典が今でも読み継がれているように、そこには描かれる物語の同時代性はもちろんのこと、いつの世にも通ずるところのあるような普遍性をも併せ持っておりましょうから、その点を含めて評価されることにもなりましょう。

 

さりながら、このお話、1967年生まれの作者と近い世代であれば、あんなこともこんなこともというあれこれが思い出されることとなって、それがまたトリガーとなって読み手が過ごしたその時代を(忘れていたと思っていたことや思い出したくもない、思い出さなくてもいいようなことまで)まざまざと脳裡に蘇らせてしまう。

 

感じた「凄さ」の源はその辺でもありますので、個人的にはちと昭和30年代、40年代あたりに思いが寄りすぎになっているものとも思いますが、話の中で飛び出す、例えば「ノストラダムスの大予言」、「こっくりさん」、「口裂け女」などなどといった言葉はどうしたって時代との結びつきが強いものですしね。

 

とはいえ、読み進めますと登場人物たちがそれぞれに歳を重ねていって、だんだんとリアルタイム現代に近づいていきまして、そこにはまた、その時代らしい空気と時代ごとの悩ましさといったものが書き込まれていて、これまた歳を経た自らのことを省みてしまったりもするのでありますよ。例えば親子関係であるとか、近隣住民同士の関係の希薄化であるとかといったあれやこれや。

 

本書の帯に「あなたは何を信じていますか?」とありますけれど、これは先に時代を席捲した言葉として挙げた「ノストラダムスの大予言」などの昔の話ばかりでなしに、デマやフェイクが広がりやすくなった現代の話として、「どうしてそれを信じられるのか?」と常に自問自答して過ごさなければならない時代の話でもあるわけですね。

 

便利、便利と使いまくっているインターネットに情報は溢れているといいつつ、見ている情報はどんどんと(AIによる傾向分析の結果として)偏っていって、実はとても狭いところしか見ていないのかもしれない。まあ、ソクラテスの「無知の知」ではありませんが、そうしたことを意識しているかどうかだけでも世の送り方が変わるようにも思えるものです。

 

作者が本書を通じて何を言いたいのかも、もしかすると読み手によって変わるかもしれませんけれど、なんにつけ、考えてみることのよすがにはなろうかと思ったものなのでありました。個人的にはもちろんとして。

ちょいと前に放送されたEテレ『ドキュランドへようこそ』を(録画で)見ていて、始まりのところはちとしみじみと…。「人並みの幸せを手にしたはずの52歳。しかし2人の息子は別れた妻のもとにいて、田舎暮らしを楽しむつもりで購入した家は土台が傾いているのが現実…」というオランダ人のおっさんロヒールは、その年齢になっても自分探しのような、やりたいこと探しのようなことをしていたのであると。

 

老齢ながら健在の父親には、昔から何ごとにつけ、中途半端な取り組み方であったと諦め気味に語られてしまったりもするロヒールですけれど、80億を超える地球の人口のうち、かなり多くの人が「他人事でないぞ…」と思ってしまうかもですなあ(かく言う我が身も振り返りつつ)。

 

ですが、この番組のタイトルは『第二の人生の始め方 グラスに響くメロディー』というものでありまして、思いがけずも一心に取り組めるものを発見して、第二の人生スタート!ということに。子どもの時に出会った楽器「グラスハープ」の魅力を再認識したロヒールは、プロを目指して猛練習を始めるのですが…と話は続いていくのですよね。。

 

こう言ってはなんですが、ロヒールがグラスハープに目をつけたのは奏者の数が少ない、つまりは競争があまり無いということに「勝算あり!」と見たか、「よっしゃぁ!」という一念発起の背景には採らぬタヌキの皮算用的な思惑が働いていたように思えなくもない。父親にしても、些か呆れながら暖かく見守るというスタンスであって、心の中では「どうせまた失敗して…」と考えているような節がありますし、普通に考えると父親氏の見方というのが、ごく普通の受け止め方だろうとも。

 

さりながら年齢の故か、いまさら恥も外聞もないと開き直ったようなロヒール。まずは自作の楽器を改造自転車に積み込んで街中へ繰り出し、ストリートミュージシャンとして演奏を開始するのでありますよ。奏者が少ないだけにグラスハープという楽器もその音色も物珍しいところから、ちょっとした人だかりもできるようになりますと、今度は海外で演奏機会を提供したいと言ってくる人まで現れたとは。

 

ま、そんな上手い話に乗っかったところが騙されて…という流れも今のご時世、ありそうではありますが、ロヒールはちゃんとドバイに出かけて演奏の機会が与えられたのですな。ただし、演奏自体は失敗に終わるのですが…。

 

というわけで、ロヒールの挑戦は(現在進行形で?)続く…という幕切れで番組は終わりますけれど、この話、笑ってばかりはいられない面もありますですねえ。日本には「年寄りの冷や水」といったことわざがありますけれど、あんまり慣れないことをやったところで反って災いが…みたいなニュアンス。ではあるも、これを少々突き抜けたところにこそ「道」は開ける?てなことはあるのかもしれんなあとは思ったところでありますよ。どのみち、失敗しても「今さらだった」ということですので、よく言われるようにやらずに失敗するよりもやって失敗した方がまし的なことでもありましょうしね。

 

ということで、それを我が身に引き寄せてやおらやりたいこと探しを始めるわけでは全くありませんですが、この先、長いんだか短いんだか分からない中で、ちいとばかりの刺激にはなったものでありましたよ。

 

と、ここで話は変わるのですけれど、そも「グラスハープ」という楽器って、「グラスハーモニカ」とは違うものであったのか?ということを、今さらながら知ることになりましたので、ちと書き留めておこうという次第でして。

 

番組の中でロヒールが演奏していた楽器は「グラスハープ」と紹介されておりましたな。大きさの異なるワイングラス(状のグラス)を並べ、中に水を入れて音階を整え、湿した指先でグラスの縁をこすればあら不思議!透明感に溢れた音が立ち上るという具合。

 

という理屈を押さえた上で、「そうなんだよねえ、モーツァルトはこの楽器のために曲を書いていたりするのであるよ」と思っていたわけですが、収録CDの曲目リストを見れば「for glass harmonica」とある。てなことから、完全にグラスハープとグラスハーモニカを混同していたのですなあ。

 

さりながらグラスハーモニカという楽器は、グラスハープの改良系であって、発明者はなんと!あのベンジャミン・フランクリンであると。この人、本当にいろんなことをしてますなあ。日本でいえば平賀源内のような…と思えば、奇しくもこの二人、18世紀の同じような時代を生きた人たちであったのでしたか。もちろん互いにあいまみえたことは無いわけですが、もしもこの二人が相乗効果を生むようなことがあれば、とんでもない発明品が現出しておったかも…とは妄想です(笑)。

 

で、フランクリンの生み出したグラスハーモニカ(今ではアルモニカと呼ぶようになっているようです)ですけれど、改良点のひとつは楽器としてのコンパクトなまとまりでしょう。足踏みオルガンのような筐体の中に、大きさの違うガラスの器を縁の部分が触れ合わないように横向きに並べて収めてしまった。楽器移動の利便性は極めて高しですな。

 

さらに、足踏みオルガンのようと申しましたが、まさに足踏みペダルでもって(足踏みミシンのような動力で?)ガラスの器の方が回転するので、指を当てるだけで音が出せる。グラスハープでは常に指先の湿り気に気を配っていたところも、自動回転する器は水に触れるようになっているので、この点でも奏者の負担は軽減されたのであると。

 

てなことで、フランクリンによってグラスハープは操作性の良いグラスハーモニカに変貌を遂げたものの、透明感ある音色は魅惑的ながらも、高くきーんとした音は精神に悪影響を与えるてな言説が流布されたこともあって(そう言われてみれば、蠱惑的な悪魔の楽器の音色と思えなくもない)、忘れられた楽器となっていったようでありますよ。

 

もちろんロヒールが手掛けたのは、そんな手の込んだグラスハーモニカではなくして、日本ならば100均で大きさ違いを揃えたといったようなグラスを並べていますので、明らかにグラスハープ。いずれの楽器にせよ、奏者人口は至って少ないわけですが、果たしてロヒールの挑戦のその後はいかなることになっておりましょうなあ。ちと気になるところです。