さて、山梨県立美術館で開催中の特別展『ポップ・アート 時代を変えた4人』の展示を振り返っておるわけですが、アンディ・ウォーホルに続く二人目はロイ・リキテンスタインということに。

 

個人的な興味対象としてはウォーホル以上にリキテンスタインなのでして、どうもウォーホルに付きまとう商売っ気といいますか、そのあたりが些か鼻についてしまいましてね。といって、リキテンスタインにしても、ウォーホルの『ブリロ・ボックス』を鳥取県立美術館が入手したほど直近の話ではないものの、1995年に東京都現代美術館がリキテンスタイン作品を6億円でこ購入したことが大きな話題となったことがありましたっけ。

 

おそらくは作家本人が自らの作品の高騰を思い描いていたのではなかろうと思いますが、ポップアートを取り巻く状況がアート投機的なところを結びついてしまっている点で、変わりがないとも言えましょうけれどね。

 

とまれ、東京都現代美術館が所蔵する『ヘアリボンの少女』のように、リキテンスタインと言えばアメリカン・コミックの一コマを切り出してきて、そのままに描いたもので取り分け知られる存在でありますね。本展フライヤーで左下に配されているものが、まさにリキテンスタインで。

 

 

オハイオ州立大で美術の修士を得た後、各地で教鞭を執ったというリキテンスタイン。ウォーホルがデザイン系であったのに対して、出自としてはファインアート系であったかと思うところですけれど、その点、あるものをあるがままに描いた古典的な静物画を思えば、漫画のコマをあるがままに描くのが常に「果たしてアートであるのか…」と問われたりするも、発想としては静物画などと同じなのかなと改めて。

 

ただ、静物画をあるがままにと言いましたですが、実のところものを配置するレイアウトや画面を切り取るアングル、あるいは見え方に至るまで、画家の思いがあらゆる点に入り込んでいる。決して単純に「まんま描く」ということでもないのですよねえ。実はリキテンスタインもまた、この点でもやっぱり同じであったと考えさせられることに。

 

オリジナル?であるコミックの一場面が作品と並べて展示されているものもあり、解説の指摘を参照しながら見比べて見ますと「なるほどなあ」と思ったものでありまして。これまで、コミックの一コマそのまんまと思い込んでいたところが、リキテンスタインが大画面のキャンバスに描くという大きさの違いのみならず、コマ枠(キャンバス)の形もコマの中の配置(トリミングの仕方やどこをどう強調して描くか)もそのまんまではないという。

 

コミックの戦闘シーンが続く場面から切り取った作品の展示解説に曰く「(忠実な)再現の一方、…本来の緊張感ある戦闘場面からの脱コンテクスト化がなされている」と。コミックの方は物語を語っていく場面場面として描かれているわけで、そこには当然にして流れがある。対して、リキテンスタインの方は一枚のタブロー(あるいは版画)として完結した作品であることが求められておりますよね。そこには、相当に作者の意図が入り込んでいるのでありますよ。

 

パッと見で見比べても、両者の違いを見てとることができる(ま、展示解説に助けられてますが)。何かしらをキャンバス上に再現する、絵画という芸術のありようをリキテンスタイン作品に見た思いがしたものなのでありました。

 

そうしたところに思い至りますと、後にコミック場面とは違う題材を描くようになった時に手掛けた「牛」の連作やら、ピカソ、ゴッホなどなどの先行作品を独自に再現した作品やら、見た目の画風は従来とはかなり異なるような気がするも、発想はやっぱり同根なのだろうなあと思えてくる。

 

さらに、画家としてはそれまでに個性を発揮してきた画家たちの影響から離れたものではないということも。コミック場面を見ているときには考えてもみなかったですが、全体を見通していきますと、そこにはピエト・モンドリアンやフェルナン・レジェ、カンディンスキーやジャン・デュビュッフェらの「既存芸術の影響」があったのであるかとしみじみと。

 

ということで、本展がクローズアップする4人の作家の、二人目を見てきたわけですが、次には最後に残り二人をまとめて思い返すことにいたしましょうかね、ひとつの話でちと引っ張りすぎてますので(笑)。