ちとこの辺で、宮城県へ出かけるにあたって旅のお供にと考えた一冊のお話などを。
もともと、先々月に出かけた鳥取・三朝温泉でゆっくりと湯治する際のお供に「なにかしら軽いトラベルミステリーでも…」と思い立っていたわけですが、日本全国津々浦々、トラベルミステリーの網を張りまくっているであろう西村京太郎作品なれば、何かありそう…と。さりながら、どうも三朝温泉絡みを見出せず、結局は松本清張の『Dの複合』を頼みとしたのは先にも触れたとおりでありますね。
ですが、今回『奥州宮城仙石線沿線紀行』として振り返りつつある旅のお供とするには、あまりにもぴったりなタイトルの一冊が、やっぱり西村京太郎作品にあったのですなあ。何せ、タイトルは『十津川警部 仙石線殺人事件』であるとは。
青梅の精神科病院で殺人未遂事件が発生した。被害者は入院患者の千石典子。容疑者として浮上した男性が、松島海岸近くで遺体で発見された。殺人事件の捜査を進めていくと、東日本大震災で沈没し、海底から引き揚げられたグズマン二世号の客室から発見された大量のプラチナ事件と繋がり、十津川警部はそこに潜む闇資金の謎を追う。
内容紹介は(発行元・小学館HPにあるにはちと長すぎるので)ebookjapanから引いてみたものですが、闇資金とされるものの裏側には旧日本陸軍が大陸で行った阿漕な戦費調達が絡むという、なかなかに歴史的スケール感のある話なのでありましたよ。さらに、女川(おながわ・石巻の東方)に係留され、ホテルに仕立てられた豪華客船が東日本大震災で金華山沖に沈没、これを引き上げるというのもスケールが大きく、引き上げてみれば二億円相当のプラチナが発見されるというのもまた。
てな具合に、とにかくスケール大きい感が打ち出されている話なのですが、小説としての重厚感が全く無いのはなあ?とも。ですが、これはわざわざ?軽く、いわば読み飛ばしができるように作ったものなのであろうなと、読みながら思い直したのですなあ。以前、湯河原に訪ねた西村京太郎記念館で見たビデオで「新幹線で東京・大阪間の移動、つまりは3時間ほどで一冊読み終えられる」ことを端から目しているらしいことを知ったわけで。
記念館でこのことに触れたときにも「説明しやすい人物造形でもってあまり深く掘り下げることにはあえて紙面を費やさないように(意図的に)やっているのかもしれません」という印象を抱いていましたけれど、今回『仙石線殺人事件』を読んでみて、「新幹線で移動する車中で詠まれる想定だけに、列車の疾走感を損ねてはいけん」と、そんなあたりまで実は作者の意図は及んでいるのかもしれんと改めて思い巡らした次第です。
とかく、人物やら筋やらが描き込まれた重厚作品をこそ本格推理小説(比較的最近読み返したものではフィルポッツの『赤毛のレドメイン家』とか)と捉えるならば、西村作品の薄さ、軽さは「どうなのよ?!」と思ってもしまうところかと。しかしながら、元より熟読玩味を目的としているのでなくして、疾走感ある新幹線の中にあって列車同様の疾走感でもって最後まで一気にもっていく、そのためには可能な限りぎりぎりまで(破綻寸前まで?)細部を削って話を作り上げることが意図されているとすれば、それはそれで熟練の職人技と言えないこともないなと思ったわけです。
ちなみに、『仙石線殺人事件』を手にして東京駅から東北新幹線で仙台へ、そして仙石東北ライン快速に乗り換えて石巻へ向かったならば、およそ3時間余り。石巻に到着することには読み終えていることになるのですから、これを職人技と言わずしてなんとしようてなものかと。
旅のなぐさみと言ってはなんですが、適うTPOのある小説だけに自宅などでじっくり読む場合には、その快速展開の狭間に埋もれている(作者からすれば敢えて埋もれさせている)「一応さらっとは触れてますから、深入りは禁物」という点が気になってしまうことは多々あるような。本書でも、それは随所にみられることでして、それをとやかく言い出すことは可能ながら、実際にあげつらってしまってはむしろお門違いの誹りを免れないのかもしれませんですねえ。
とまれ、600冊を超えるという西村京太郎作品を旅のお供として読むとしたらば、600回の旅、片道一冊としても300回の旅が必要になる計算になりますな。年に5回ほど旅に出ると仮定しても読破には60年掛かることに。だからといって、日頃からちゃっちゃと読んで行ってはおそらく薄めの味わいがさらに薄まり、個々の作品は全く記憶に残らないことになりましょう。やはり、読破などということは二の次として、旅のお供とするのがよさそうですね。