静岡市美術館で開催中の展覧会は「巨匠の眼 川端康成と東山魁夷」というタイトルながら、
先には結果的に川端康成 のことだけしか書かずに終わってしまいましたので、
やはり東山魁夷のことも書いておきませんと片手落ちになってしまいますですねえ。


川端と東山の二人には深い交流があったそうでして、

その辺りがこうした展覧会の企画に繋がるのでしょうけれど、
どちらかと言えば、川端が東山作品を買っていたのではないかと。

(実際購入もしたですが、評価していたという意味で)

東山作品の画集に寄せた文章の一節で、川端はこのように書いているのですね。

人々は東山さんの風景畫に、日本の自然を身にしみて感じ、日本人である自分の心情を見出して、静かなやすらぎに慰められる。清らかないつくしみに温められる。いづれやがて、今日よりもなほ、東山さんの風景畫は、日本の自然の美しい魂と見られ、東山さんは日本民族古今に貴寵の風景畫家と仰がれるであろうと、私は信じる。

文豪にここまで言われる東山魁夷の絵画でありますが、
展覧会を覗いた当日にあった講演会でその作品の特徴として
ひとつには平明でわかりやすい表現、ひとつには落ち着きのある色彩といった点が

挙げられていました。


確かに分かりやすいですよね。

およそ見る者を選ばず、誰にもすうっと染み入ってくるようなところが

東山作品にはあるのではないかと。


有名な「道」なぞは

まっすぐに長く続く道(実際には奥で右へカーブしていますが)と地平線、それしかない。

極端にいうと(講演会で言ってたことですが)一本の直線と二等辺三角形に

置き換えられてしまうのですから、平明の極みともいえそうです。


また、落ち着きのある色彩という点では、ごちゃごちゃと色をあれもこれもと使わずに、
同系色の濃淡といった微妙な違いで大きな画面全体を構成していますものね。


東山魁夷「北山初雪」(部分・本展フライヤーより)


で、そのいずれの点をとっても、

ともすれば単調で何の変哲もない景色にしかならなそうなものなのに、
情感に訴えて飽かず見せるものとして仕上がることは、もはや東山マジックといういうべきやも。


ところで、これは(ちと意外なことだったんですが)東山は必ずしも写実に徹したものではなく、
実は「心象風景」とも言うべきものを描きだしていたのだそうですね。
講演会では「徹底した自然観察から生まれた心のかたち」「心を通して濾過したもの」と

言ってました。


ですから、本当の風景というよりも景観の理想郷的なものとも思えてくるわけでして、

それでこそどこかであって、どこでもない、それでいて日本的情感を湛えて日本人に、

というよりおそらくは日本人でなくともですが、響くものに仕上がるのでありましょう。


と、心象フィルターを通して描くとなれば、それでは素材たる景観は

まずまずくらいの景色であればどこでもいいでは…とも思ってしまいそうですが、

そこはそれ、当然に「そんなもんじゃない!」わけですね。

東山自身によれば、こういうことだそうです。

絵になる場所を探すという気持ちを棄てて、ただ無心に眺めていると、相手の自然のほうから私を描いてくれと囁きかけているように感じる風景に出会う。

まずもって素材となる風景と作者の心が共振するようなところから始まるのですなあ。

この辺の響き合いには相当な目利きであることが必要なんでしょう。


昨秋、「緑響く」という作品の原風景である長野県の御射鹿池 に行ってみたですが、

当然に目利きでない者が見たところで、「ここがあの作品の舞台?」と思ったり、

「同じような灌漑用の池はそこここにあるのに、何故ここ?」という程度の感想しかないわけで、

そんなふうにしか思えないのは、この辺りの違いなのだなと気付かされたのでありますよ。


先に静岡県立美術館を訪ねた折に

日本の景色はどうも油彩に馴染まないようで…みたいなことを書きましたけれど、

翻って東山魁夷が日本画の手法で描くヨーロッパの景色はどうなの?と。


実のところ、予てこちらの方には違和感を感じたことがあまりなかったものですから、

これをどう考えようかということであります。


まあ、作品の多くが(あるいはたまたま目にしたのがそうだっただけかもですが)

ドイツや北欧 の森や湖ではあるものの、どこの景色だという以上に

普遍的な景観として描かれているからだろうと思ってましたが、

当たらずといえども遠からずでありましょうかね。


こうしたことに思いめぐらせながら展示作品を見ていったですが、

残念ながら展示には下絵やスケッチが多く、結果どんなふうに仕上がったのかには

やや欲求が満たされない気もしたものです。贅沢とは思いまけれどね。