しばらくぶりで旧新橋停車場鉄道歴史展示室 を覗いてみることに。
明治150年記念企画展「NIPPON 鉄道の夜明け」を、

いささか時期遅れながら、見てこようと思ったものですから。


明治150年記念企画展「NIPPON 鉄道の夜明け」@旧新橋停車場鉄道歴史展示室

明治になって日本でも新橋・横浜間に鉄道が開通し…とはよく知られたところですが、
展示解説は幕末から始まるのですね。


嘉永六年(1853年)、ロシアの提督プチャーチン が艦隊を率いて長崎にやってきます。
この時、旗艦パルラダ号では機関車模型を走らせて見せたのだとか。


これを見てぶっとんだのが佐賀藩士たち。「こ、こんなものが?!」といった印象でしょうかね。
よほど強く印象に残ったのか、後に佐賀藩が自らの手で完成させた蒸気機関車の模型は
人が乗れるほどの大きさで作られていたといいますから、ばかにしたものではないような。


そしてこの佐賀藩での走行実験を目にしたのが

当時はまだ藩校弘道館で学んでいた大隈重信 であったとは。

明治政府になって日本の鉄道建設に尽力することになるのですから、
この時の印象もまた強烈だったのではないでしょうか。


こうしたことの一方で、嘉永七年(1854年)、ペリー二度目の来航時には
蒸気機関車の模型を将軍への献上品として持ってくるのですなあ。
ちなみに機関車以外には、ライフル銃、ウイスキー、電信機、柱時計、海図などが
献上されたそうでありますよ。


横浜の応接所で走行実験が行われますが、
これを報じる瓦版には「帆かけ船のごとくはやし」と。今では少しもぴんとこない例えながら、
海上をすいーっと進む順風の帆かけ船ほどに速い乗り物は無かったでしょうから、
これも最大級のびっくりを伝えているのでしょうね。


衆目に触れる以前にも幕府には「和蘭風説書」を通じて鉄道に関する情報は
天保年間(1830~1844)以降、入ってきていたとはいうものの、
多くの者が蒸気機関車なるもの現物(模型とはいえ)が目の当たりにしたのは
嘉永年間ということになりましょうか。


ですが、時代は風雲急を告げる幕末の動乱期に入り、
国家事業としての鉄道敷設などは脇へ置いておかれたことでしょう。
ようやく明治になって、日本の鉄道建設への指導を求められたお雇い外国人、
英国人技師エドモンド・モレルが明治3年(1870年)に来日することになります。


モレルは単に鉄道建設に関わるばかりでなく、
工部省の設立や工学寮(後の東大工学部)の開設も提言したそうですから、
広く日本の工業化に関わったということなのかもしれません。


モレルのほかにもやはり英国からトレビシック兄弟がお雇い外国人として来日しますが、
このトレビシックの祖父にあたるリチャード・トレビシックは、

軌道上を自走し、 人を乗せて走ることのできる蒸気機関車を初めて作った人物であるとか。


蒸気機関車といえば、すぐにジョージ・スチーブンソンの名前が浮かぶところながら、
初めて作ったという展ではトレビシックの方が早かったのだそうでありますよ。


とまれ、お雇い外国人技師たちの指導を受けながら、日本の鉄道は歩み始めるのですな。
鉄道敷設には、鉄橋が必要になったり、はたまたトンネルが必要になったり。
こうした土木工事も初めの頃は外国人技師の手助けがあって作られるわけですが、
早い時期に作られた構築物は武骨で堅固な造りだったのですかね。


例えば明治10年(1877年)、それまでの木製の橋に代えて、
日本で初めて複線用鉄橋として架橋された六郷川橋梁(多摩川を越える鉄橋)は
大正期になって酒匂川(小田原のあたりですね)の鉄橋として移設され、
最終的には昭和40年(1965年)に撤去されるまで現役だったそうですから。


とまあ、日本が鉄道王国になる礎のお話を知ることのできる企画展なのでありました。