またちょいと国立公文書館 を覗いてみたのでありますよ。

「翔べ日本の翼-航空発達史-」という企画展をやっておったものですから。


「翔べ 日本の翼-航空発達史」展@国立公文書館


ライト兄弟による初飛行は1903年、ということは明治36年ということになりますか。

それ以来、航空機は加速度的な進化を遂げて今に至っておりますけれど、

その始まりが明治36年となれば、一応日本も文明開化、

欧米列強に追いつけ追い越せ路線の只中ですから、

当時の日本が空を飛ぶことに着目してもおかしくはありませんですね。


そもそもの日本での始まりは明治10年(1877年)の気球製作であったそうな。

何でも西南戦争で西郷軍に囲まれてしまった熊本城 と連絡をとる方法のひとつとして

気球の実験が行われたそうでありますよ。


気球というとっかかりはモンゴルフィエ兄弟に遅れることおよそ100年ですが、

その後に登場してくる二宮忠八という人が実は大した人物なのですなあ。

鳥の飛行に想を得て「飛行器」なるものを考案したのが明治22年(1889年)、

2年後には飛行実験に成功します。


二宮忠八考案の飛行器二種

さらにその3年後には人が乗れることを想定し、エンジンの入手で陸軍に援助を求めるも

高級品だったエンジンを先の見通せない開発には回してもらえなかったのでしょうか、

二宮の手にエンジンは渡らずじまい。これが明治27年(1894年)でありました。


結局のところ、やがてライト兄弟が有人動力飛行を成功させたと聞き及ぶや、

二宮は自らの「飛行器」構想を断念してしまったそうなんですが、

もし(歴史に「もし」は無いんですが)1894年段階で二宮がエンジンを使用できていたならば

ライト兄弟に先んじていたやもしれない…てなふうに考えてしまったりもしますですね。


とまあ、飛行機開発レースでは遅れをとったわけですけれど、

大正2年(1913年)には「航空技術の発展と民間への航空知識の普及」を目的として

帝国飛行協会(会長は大隈重信 であったとか)が設立されたりする一方で、

翌年に勃発し、日英同盟の下に参戦した第一次大戦では

敵国ドイツの租借地となっていた青島の偵察や爆撃に飛行機を使っていたそうな。


第一次大戦当時の飛行機


つくづく飛行機の加速度的な進化は戦争抜きには語れないのですなあ。

しかしながら、ここ国立公文書館の展示には第二次大戦時の資料は

無かったというのか、端折られていたというのか。


敗戦後、占領下で航空機を飛ばすことも作ることも

日本人自らの手ではできない状態が続きますけれど、

飛ばす方でいえば1951年、ノースウエスト航空に運航委託をすることで

一応、日本航空の看板のもと東京-大阪-福岡線が運行開始。

この第一号機が「もく星」号 (謎の墜落事故で有名)であったのだそうでありますよ。


「もく星」号の出発を見送る人たち


作る方でいいますと、1962年に試作機が初飛行したという「YS-11」。

1973年までに試作機を含めて182機が製造され、今でも運用されているものがあるのだとか。

(Wikipediaによれば、自衛隊の輸送機としてらしいです)


YS-11

一度、全日空の羽田-八丈島線で乗ったことがありますけれど、

プロペラ故に音が大きいのとさほど高度を上げないので眺めがよいのとを覚えてます。

ちなみに同路線は今ではエアバスのA320、当然ジェット機ですね。


まあ、展示をかなり掻い摘んでたどりましたですが、

見てきた史料の中でいちばん「お!!」と思いましたのがこちらです。


東京市飛行場計画

昭和13年(1938年)、羽田に次ぐ第二空港が計画された際に、

その場所とされたのが「東京市城東区南砂町九丁目地先海面」であったというのですなあ。

埋め立てによって空港敷地を作りだす計画で進められたものの、戦争で中断したのでしょう。

ところが戦後も埋め立て続けられ、空港とは似ても似つかにぬ施設になっていくという。


実体はゴミ処理場で、23区のゴミの7割がたを一手に引き受けていたようですが、

その場所が何だって「夢の島 」と呼ばれるのか、近くに住まいながも不明だったのがようやく氷解。

空港が作られ、広く世界と結ばれる夢のような場所だったかもしれないのですものね。


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