昨今の映画は本当に実話ベースのものが多いのであるなと思うところですが、これもまた。『潜水艦クルスクの生存者たち』という2018年作品でありますよ。
ロシア海軍の原潜クルスクは北方艦隊の演習に伴って出航するも、不良の生じた魚雷が艦内で爆発、他の弾頭にも誘爆が及び、バレンツ海の海底に沈没してしまうのですな。隔壁に守られた艦尾に逃れた生存者は118名の乗員中わずかに23名ということに。
と、ここまでのところでは(原題が単に『Kursk』であるのに対して、邦題の)『潜水艦クルスクの生存者たち』に「なるほど」となるところながら、ここから先、このタイトルが意味するところは痛ましくも皮肉なものとなるのですなあ。この初期段階では「生存者たちは確かにいた」わけで。
こう言ってしまいますとネタバレともなりましょうが、そもそも実際にあった事故であって、救助された生存者は一人としていなかったという結果に至っていることからすれば、あたかも「生存者たち」がいたかのようなタイトル付けには疑問符も付こうかと。
さりながら映画の中で、初期段階に確かに生きていた彼らは、例えていうなら『アポロ13』で人の手の届かない宇宙空間に放り出された乗組員たちがありったけのサバイバル能力を発揮して難局を凌ぐにも似た行動を、やはり海底という閉ざされた空間の中で必死に試みていたことが描かれます。その点では「生存(していた)者たち」に焦点を当てたと見えるタイトル付けも無い話ではないと思えてもくるところでしょうか。
もっとも『アポロ13』の方は地球に帰還を果たしたのに比べ、海底に沈んだ彼らは全て還らぬ人となってしまった。空気が無いという極限状態は宇宙も海の中も似たようなものですけれど、海底は宇宙よりも遠かったとも言えましょうか。
ただ、結果的に海の底を宇宙よりも遠いものとしてしまったのは、当時のロシア海軍・ロシア政府にあるのでしょうなあ。そもそもどうしてなのか、自国での救難活動が後手後手ですし、他国からの救難援助の申し出には国家の威信もあり、また軍事的な機密性の高い原潜に近づく口実を与えたくないという思惑もあり、ロシア自前のポンコツ潜水艇が何度もドッキングを試みるもそのたびに失敗して、時間を無駄遣いしていたわけで。
首脳部としては「クルスクの沈没はむしろ無かったことにしてしまいたい」とでも思ったのでしょうか、乗組員家族に対する状況説明のために開かれた会合では、「もとより海軍軍人たるもの、常に国家に命を捧げる心構えで作戦遂行に当たっている」てなことを、しらっと言ってしまうお偉いさんが出てくるあたり、端から助けるつもりはないと言わんばかりではないですかね。
当然に激高した家族たちが海軍の無策を責めるわけですが、制止を振り切ろうとして女性に対しては何やらの首筋に注射をして黙らせてしまうといった映像、どこか違うところでも見たような…という場面ですなあ。
早くから手助けのために近海でスタンバイしていた英国海軍差し回しの潜水班にゴーサインが出されたのは相当時間が経過してからで、それまで生きていたはずのクルスク乗員たちは潜水班が近づいた頃にはすでに艦尾にも及んだ浸水に沈んでしまっていたのである…となりますと、情報隠蔽のために意図的に放置されたのではなかろうかと思えてくるのですよね。
で、事故(というより事件というべきか)が起こったのは、かかる経緯から想像するにソ連時代?とも思ってしまうところながら、実は2000年8月の出来事なのであると。現在の大統領が最初に大統領に就任した時期だったのですなあ。
いったいロシアはどうなっちゃんてんの?と思ったりしますが、こうしたことが起こりうる国家体制や政策がある一方で、国内ではその人を選ぶ人たちがいるのですよね。ソ連崩壊後に生じた混乱(取り分け経済的に?)故に、世界的には評価されるところのあるゴルバチョフが国内では極悪人状態であるのと裏腹に、自国内での多数への恩恵(その陰では少数の切り捨て。クルスク乗員たちも?)の故に現職大統領は国際的の評価とは別に人気が高いというなのでしょうか。
こんなふうに(誰にも分かるであろうところながら)名前を伏せて書いていますと、似たようなことはロシアばかりの話ではないような…と気付くことに。日本もそうしたあたりにへばりついて行くしか道はないのですかねえ…。国家あってこその国民てなことが言われたりしますが、民はただの民でも生きていくのでしょうけれど、寄らば大樹と言われるような拠り所に安心したいというのもまた人間ということなのでしょうか。う~む…。