江戸の世には海外へ出るのも、海外から戻るのも堅く禁じられていたわけですが、
船が遭難して、やむなく外国のお世話になる漂流民は
大黒屋光太夫 やジョン万次郎といった有名な例以外にもたくさんあったということを
「漂流ものがたり」展 @国立公文書館によって知ることができました。
ですが、こうした意図せざる出来事とは別に、意図的に鎖国の禁を破るケース、
要するに密航もまた数多に及んだようでありますね。
多くは外国の先進技術などを日本に持ち帰ろうという意識で出かけていったわけで、
結果的にもそうした密航者の多くが日本に無かったような知識技術を持ち込んで先駆者となり、
「○○の父」などと呼ばれるようになる。
祥伝社新書の一冊、「明治を作った密航者たち」は
そうしたことからついたタイトルでもありましょう。
漂流者で有名なのが光太夫一行とジョン万次郎とするならば、
密航者で有名なのは映画にもなった「長州ファイブ」と新島襄あたりでしょうか。
(吉田松陰は失敗に終わってますのでね…)
新島のように個人で出かけたときには、幸運にも良い導き手に出会って
篤志をもって留学を全うする(漂流者のジョン万次郎もそうですが)ことができたりしたようですが、
団体でもって藩の意向を背景に持ちながらも、幕府の手前、表立って支援できないような場合、
ありていにいって長州ファイブのような場合には旅先でかなり困窮しておったようですな。
(明治になっても、夏目漱石 は困窮しておりますが…)
そんな中で、どうやら薩摩藩が送りだした密航留学生たちは状況が違ったらしい。
時には長州勢に施しをしてやったりしたこともあったそうで、
本書の中ではこんなふうに紹介されておりました。
それにしても薩摩藩は二年続けて二五人もの藩士を海外へ送り出すのだから、いかに海外の知識や技術の導入に熱心だったかが分かるし、しかも渡航費、学費、生活費など留学に要する全額を自前で賄ったのだから、当時の薩摩藩の財力のほどが分かる。
ですが、これを読んだときに思い出したのは「ブラタモリ」なのですなあ。
奄美大島を取り上げていたときのことでありますよ。
薩摩藩に対して特産の黒糖でもって年貢を納めるため、
可能な限りあらゆる場所をサトウキビ畑にしなければならなかった。
その挙句に島の人々は自らを養う食糧にも困るようになり、
蘇鉄を加工して食すことので凌いだ…という話でありました。
薩摩藩の密航留学生が他藩より恵まれていた「薩摩藩の財力」とは
このような略取からも成り立っていたのだろうなと思ったものですから。
と、話はすっかり横道ですが、本書には数々の密航者が紹介されておりますが、
その中で「ほお~」と思いましたのは、ロシアのディアナ号とも関わるお話なのでして。
プチャーチン提督率いるロシア使節がディアナ号 で下田に入港した折、
大地震による津波で大破、修理のために戸田港へ曳航途中で沈没してしまったという話は
何度も触れており、日本の大工たちがなんとかかとか造り上げた代替船で一行は
帰っていったわけですが、このロシア使節が返る折に一緒に国を出た日本人がいたそうな。
橘耕斎(のちに増田甲斎)という人物で、ロシアで仕官し、
ペテルブルク大学で日本語を教えたのだそうなですよ。
そして、いつどうやって欧州に渡ったのか判然とはしないながらも現に欧州にいて、
後に明治となって正規留学生としてやってきた面々の力添えにより
(正規留学生のような学はなくとも覚えられるだろうと)ドイツでビール醸造業を学ぶことになった
中川清兵衛という人がいたり。
日本には無かったビールがやがて流行っていくことは先に「ビールと日本人」 で読んだですが、
帰朝したこの人は開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)の技術者となったのだとか。
いやあ、いろんな人がいていろんなことをした幕末維新でありますなあ。

