どうも西伊豆ではごくごく普通に読んだのとは異なる読みを持つ地名に
たびたび出くわしますですね。


これまでに立ち寄ったところで「大瀬崎 」は「おせざき」、「松江 」は「すんごう」、
そして次に訪ねる「戸田」は「へだ」であります。
今回は通り過ぎただけでしたが「三津浜」(みとはま)というのもありました。


で、この戸田というところがまたしても砂嘴の地形でありまして、
(大瀬崎でも井田でも砂嘴には触れましたので、さらっと行きますが)
戸田港を囲うように御浜岬が張り出している…となれば、
風浪対策万全の天然の良港とはこういうところでありましょうか。


戸田 御浜岬


と、ここで戸田に立ち寄りました目的地はと言いますと、
この張り出した砂嘴の先端の方に神社…もやはりありますが、
戸田造船郷土資料博物館でありました。


漁港を目の前にした町を過ぎ、
ぐるっと回り込む形で砂嘴の先端部分を目指しますと、やがて木立の中に看板が!


戸田造船郷土資料博物館の看板


でも、この朽ち果てたふうは「つぶれちゃってんじゃないかな…」と思わせるに十分かと。
しっかり開館してましたですけどね。


では、ここにいったいぜんたい何があるのかと申しますれば、
幕末にロシア使節を乗せて来航したディアナ号に関する資料があるのですよ。
…と言って、ピンとこない方もおいでかと思いますので、ちと説明を。


時は嘉永七年(1854年)、日露間に和親と通商の条約を結ぶべく
ロシア使節・プチャーチン提督が来航しておりました。


プチャーチン提督胸像@戸田造船郷土資料博物館



提督始め総勢およそ500名を乗せた軍艦ディアナ号が伊豆は下田港に碇泊しておりましたが、
折悪しく起こった大地震による津波に襲われ、船底を大破するなどの

甚大な被害を受けてしまいます。


プチャーチン提督から幕府への願い出は戸田の港で修理をせよとのお達しとして許可され、
戸田への回航することになりますが、今度は駿河湾の強風に煽られ、

今の富士市沿岸まで流された挙句、敢え無く沈没してしまうのでありますよ。


このままではロシアに戻れないと、代わりの船の建造を願い出たプチャーチン。
幸いにしてこれも許されたものの、500名もの人数を乗せてきたディアナ号のような船を
当時の日本では造れる技術もなく、取り敢えずは一部がロシアに返って救援船を呼ぶための
スクーナー(小型の洋式帆船)を造ることにしたそうな。


そこで、ロシア人と戸田の船大工、それに伊豆近辺の大工がより集まって、
設計図も何もないところからスクーナーを作り上げることになりますが、
そのプロセスは至難の連続。


何しろ言葉が通じないばかりか、寸法を測るにも

あちらはメートル法、こちらは尺貫法てなことを始めとした数々の違いがあったことを乗り越えて

出来上がったスクーナーを、プチャーチン提督は「ヘダ号」と名付け、感謝を示したのだとか。


そしてヘダ号造船の技術は、
洋式船の建造を試行していた幕府や水戸藩(石川島造船所を設立した)にも受け継がれるなど
後の造船大国・日本の道を開いていった…ということであります。


こうした経緯があらばこそ、ここに「造船」と名のつく博物館ができており、
入口前には田子の浦の漁民が引き揚げたというディアナ号の錨が展示されているわけです。


ディアナ号の錨@戸田造船郷土資料博物館


館内には、ディアナ号やヘダ号の模型も置かれており、こちらの写真はヘダ号ですけれど、
いかにも洋風な船体になっているのは、古来日本の造船技術にはなかった竜骨を組んで
作り上げる手法をとっているからでありますね。


ヘダ号模型@戸田造船郷土資料博物館


その他にもヘダ号建造に纏わる史料やロシア人たちの遺留品、
そしてその後の日露、日ソの交流などに関する資料が数多展示されておりましたですが、
何とここにも登場したか!と思うのが、江川太郎左衛門英龍


幕府の代官として、代船建造の取締役に任命されていたのだそうですよ。
出来る人に仕事が集まってしまうのは、世の習いでありますなぁ。


ところで、この造船郷土資料博物館は、駿河湾深海生物館を併設しておりまして、
「ここから入るの?」という中途半端に狭い入口を抜けると、奇妙な生き物の標本がたくさん。


日本一深い湾である駿河湾でもって、

戸田の漁師たちは深海の魚類なども捕っていたのだそうです。


博物館を出た後に町の方へ戻って食事をしたんですが、

深海魚料理なるものを供するお店もちらほら。
多少の興味はそそられましたが、いかにも奇妙な姿の標本を見た後ではちょっと…。

せいぜい深海の巨大生物のひとつ、タカアシガニをいただくのが精一杯でありました。


で、またか?!ではあるんですが、やっぱり博物館が砂嘴の先っぽの方にあるとなれば、
やっぱりその突端までは行ってしまうわけですよ。

そして、そこで目にするのはやはり富士のお山。


戸田御浜岬より望む富士


プチャーチンも代船の仕上がりを気に掛けつつも、富士を眺めやったことでしょう。
日本人には秀麗な姿と見える富士山が果たしてプチャーチンらロシア人の目には
どのように映ったでありましょうかね…。