松島湾の観光船桟橋から近い五大堂にまず立ち寄ってしまいましたですが、続いては松島青龍山瑞巌円福禅寺、要するに瑞巌寺の境内へと足を進めることに。それにしても、桟橋付近で見かけた人出の賑わいは松島に来て瑞巌寺に詣でる人たちではなかったのであるか(それでは何しに?)と思うほどに穏やかな雰囲気でしたなあ。個人的には、その方がお寺さんを訪ねる雰囲気としてはいいわけですが。

 

 

ともあれ、参道を進んだ先には「臨済宗妙心寺派瑞巌寺専門道場」という木札にあるとおり、禅宗の道場らしく渋い佇まいの山門が現れます。禅宗の専門道場ということでは、埼玉県新座市にある平林寺の方が門としては立派であるなと思ったりするも、こちらは「慶長14年(1609年)、伊達政宗公によって建てられた」山門という「ほおほお、そうですか」という由来があるのでありますよ。

瑞巌寺は九世紀、慈覚大師を開基とする天台宗の寺院、青竜山延福寺(松島寺)として創建され、十三世紀中葉、改めて法身を開山とし、臨済宗(建長寺派)の青竜山円福寺となったと伝えられる。…円福寺は、その後妙心寺派となった。慶長十年(一六〇五)、伊達政宗は、衰微していた円福寺の再建に着手し、寺号を松島青竜山瑞巌円福禅寺(松島山瑞巌寺とも)と改め、四年を費して大伽藍を完成した。

…とは、山門内の説明板にあったところでして、同じく慈覚大師ゆかりにもせよ、山寺(立石寺)がひたすらに天台宗であるのに対して、こちらは禅寺に転化していったのですな。鎌倉期以来、武士の志向が禅寺にあったことにもよりましょうけれど、今の隆盛があるのはひとえに伊達政宗のおかげと言ってもよさそうです。

 

 

ではありますが、山門から続く長い参道の右側を見る限り、山寺を思い出させるのお!という石窟がたくさん見受けられました。こちらでは納骨堂として造られていたようで。

 

 

で、古くから神聖な霊場と目された洞窟群はその後、時は隔たって江戸後期とはなりますが、「西国三十三観音巡拝所」ともされていったという。洞窟前に観音像が並ぶのはそういうことなのですなあ。

 

 

とまあ、かように霊場感あふれる参道沿いに、少々赴きの異なる石碑なども見かけたのですね。ひとつはこちら、その名も「鰻塚」と。

 

 

かなり大きなものだけに、謂われのほどは?と後に検索してみますれば、明治12年の創業以来、地元松島で鰻問屋を営むという若松商店のHPに塚の紹介を発見したのでありますよ。曰く「(大正12年8月16日建立)当時の松島は天然鰻の一大産地で」「(塚の)裏面に寄付をした蒲焼店、問屋の名前が刻まれています」と。

 

ですが、「昭和30年頃から、松島湾周辺では商売が成り立つほどの 天然うなぎが獲れなくな」ったことで、「松島でも同業者の多くが鰻の取り扱いを辞めてい」ったのであるとは、そんな時代もあったねと語り伝える縁になっている「鰻塚」でありましょうか。でもって、「ん?!」と思ったもうひとつがこちらになります。

 

 

これまた大きなものでして、両脇に蒸気機関車?の動輪を従えた中央の塔には「鉄道殉職者弔魂碑」とあありまして、これについても後追いで調べようと試みましたが、どうにも詳らかならず。殉職とありますので、鉄道建設で大きな事故でもあったのかと思ったものの、東北地方に鉄道を敷く際に積み重なった殉職者が碑を設けた当時(1931年)750名を数えたということだけは辛うじて…。

 

 

殉職ならぬ殉難ということでは、「東日本大震災 復興地蔵堂」というのもありましたですよ。左手にあります小さな「この堂宇は、東日本大震災鎮魂慰霊、復興祈願として…地蔵菩薩を安置した」ということで。

 

てなあれこれを見やりつつ参道を進んで行きました結果、ようやっと「ここから先は拝観料700円也が必要ですよ」というエリアの入口に到達いたしました。さて、では中へ…という運びに次回はなってまいります。