石巻湾に通じる水路に沿って行きさえすればたどり着けるものと思い込んでいたサンファンバーク。さりながら、実際には登り坂をずんずん進まねば到達しない山の上だったわけで、海に開けた眺望が得られる場所にあったのですな。

 

で、海側の見晴らしもちらりと先に触れたところながら、サンファンパーク、正式には石巻市サン・ファン・バウティスタパークは「慶長遣欧使節の歴史的な偉業をたたえ、市民の文化活動の向上に資し、合わせて市民の憩いの場を提供するために設置され」たという施設だけに、見下ろせば慶長遣欧使節を乗せて太平洋を渡ったサン・ファン・バウティスタ号(の復元船)が眼下に望めることが目玉でありましょう。

 

 

これを見下ろすためにわざわざ高台に公園を造ったのであるか…とも思うも、見えてきた船がいささか小さいような気がするのは、もちろん離れたところから見ているからでもありましょう。ですが、その実は現在の船の周りに大きく船の形が描かれておりますとおりの大きさ、原寸大で再現した船がそこにはあったのですなあ。

 

「慶長遣欧使節の月浦出帆380年にあたる1993年に進水した」(サンファン館HP)という現須代の復元船は、東日本大震災における津波被害も併せ、老朽化を維持しかねるようになり、2021年11月に解体が始められたのであると。それ以前は船内に入り込んでつぶさに見て回ることができたようでして、元々は「解体前にぜひひと目!」と思っていたのが叶わず。1/4スケールで再建されるとは聞いていましたけれど、「こんなに小さくなってしまって…」と秋風が吹き抜けていく気分がしたものでありますよ。やっぱり、思い立ったが吉日を大事にせねばいけませんなあ。

 

と、船の解体が始まって以来、宮城県慶長遣欧使節船ミュージアム・サンファン館も休館していたわけですが、(先にも触れたとおり)今年2024年10月26日、晴れてリニューアルオープンと相成った次第でして、「ならば、行ってみよう!」と今さらながらやってきたのでありますよ。

 

 

ヒルトップにある公園からは少々下る形で、ミュージアムの入り口は設けられています。斜面のへりを利用して造られているのですな。ともあれ、館内へと足を運んでみるといたしましょう。

 

 

まずは「伊達政宗と国づくり」という展示解説から始まりまして、まあ、使節を送り出したのが政宗ですので当然といえば当然でしょうかね。今回は青葉城などにも寄らないくらいに仙台スキップの旅ではありますが、全く触れないわけにもまいりますまい…といっても、幼少期に片目を失った独眼竜と言われたことや秀吉との確執(小田原遅参とか)はよく知られたことかと。ここでは、遅れてきた戦国大名・伊達政宗の所領の変化を見ておくといたしましょうかね。

 

 

上の図で色付き部分全体が天正十七年(1589年)頃までの最大版図ということになります。永禄十年(1567年)出羽国米沢城に生まれた政宗が(母親の実家である山形城主・最上氏はともかく)周囲を切り従えていったようすが偲ばれますですねえ。それにしても、最大版図の帝国を築いたのは20代そこそこであったとは。

 

会津蘆名氏を破った政宗は自らの帝国の本拠を会津若松の黒川城に移しますが、向かうところ敵は南にありと見たのでしょうか。敗れた蘆名は常陸の佐竹を頼って行きましたし、それ以上に天下取りの大業には南西へ向かわねばなりませんしね。といって、天下の大勢はすでに秀吉が握るところとなっていて、政宗の目に余るふるまいは天下人の勘気を蒙ることになる。結果、せっかく手に入れた会津は取り上げられて米沢に逆戻りさせられ、さらにはもっと北辺にあたる岩出山城まで退場させられてしまうのですなあ。

 

なんとか仙台まで戻ってこられたのは、関ケ原で家康側に与して会津上杉を抑えたからですかね。それにしても62万石、よくもらえたものです。ですが、政宗にしてみれば、大坂やら江戸の都合で自らの領地をどうこうされるのは、さぞや面白くなかったでしょう。時代も背景も異なりますが、その昔のアテルイとヤマト王権との関係を思ったりしてもしまいましたですよ。

 

 

そうはいっても、紆余曲折を経て時代は徳川の世と定まっては、さすがの政宗も大人しく仙台藩の経営に邁進し…とは表向きであったのでは。内心ではまだまだ覇者たりうる余地を探っていたのではと思ったり。その術のひとつが、慶長遣欧使節だったのではなかろうかとも思うところですが、さてさて、ミュージアムの展示解説で使節のようすを振り返るのは次回に…ということにいたしましょうね。