風邪の具合は二日ほど臥せって起き上がれる程度になりました。コロナの場合には(三度かかった経験からして)手酷い抜けの悪さに悩まされたものですが、それに比べれば格段にましだとはいえましょう。で、取り敢えずは何事もなかったように、旧に復して…。

 

2025年3月は、初めて日本でラジオ放送が行われてから100年として、特にNHKでは「放送100年」の看板であれこれの特番がありましたですねえ。と言って、見ていたのはもっぱらテレビになりますけれど、放送開始当初のラジオ番組はどんな内容だったかが紹介されたりもしてました。ラジオ放送開始以前、広くあまねく情報伝達する場合には文字に頼っていたものと思いますので、それに代わるものとしてどんな番組を取り上げたらいいのか、その時代(1925年・大正14年)なりに考えられた編成がなされていたのでありましょう。

 

このラジオ放送の開始からテレビ放送の開始(1953年)、そしてFM放送の開始(1957年)などなどを通じて、情報を得るチャネルはどんどん増えていきましたですが、おそらくこの傾向は情報の受け手にとって歓迎すべきものと考えられていたことでしょう。このことは、90年代に入って「ピ~ひょろろぉ」という音ととにも一般家庭でインターネットが利用されるようになり、ブロードバンドだ、高速化だという段階でも、得られる情報量が増えることを疑問なくありがたがってもいたような。それが今ではどうなっておりましょうかねえ…。

 

果たして「放送100年」の特番扱いであったかどうかは分かりませんですが、先月半ばにNHKスペシャルで放送された『創られた“真実” ディープフェイクの時代』あたりを見るにつけ、行きつく先はこんなところになってしまっておるのであるなあと思ったものです。

 

フェイクという点では映像のみならず、言論部分でも何をどう信じるか、それによって立場が大きく変わってしまう。そうした傾向の中では、昨日は「白」と言われていたものが、今日は誰もが「黒」と言っている…みたいなことも起こるのですよねえ。イラン映画『英雄の証明』を見ながら、そんなことを考えたりしたものでありますよ。

 

 

折しも今日は4月1日、エイプリルフールとしてもてはやされているうちは、他愛のない笑い話で済んだようなウソ、フェイクがある人の人生を左右してしまったりもするわけで。

 

全体的な流れの中では、現在の即時性に富み、容量の大きい情報のやりとりができていることを「便利になっているのだ」と考えるのが一般的なのかもしれないものの、便利と引き換えのあれこれの面倒には目をつぶるしかないてなことなんでしょうかね。

 

考え方はひとそれぞれで、そのことに「違うだろ!」みたいなことまで言うつもりは毛頭ありませんですが、先の番組や映画を見ながら「やっぱり、スマホは持ちたくないねえ」と。

 

とりあえず今でもガラケーで事足りていると思っている(何しろ使うのはSMSとカメラ機能、万歩計くらいですし)からでもありますが、最近はガラケーの充電池のようすが怪しくなってきているので、どうしたものかなとは思ったりしてはおりますけれど…。