東京・日本橋の貨幣博物館で辰野金吾 没後100年特別展のコ-ナーを見てきたわけですけれど、
常設展示の方も少々つまみ食い。前に見たことあるからなとは思ってましたが、
確か2015年11月のリニューアルオープン前だったものですから。
つまみ食いといいつつ最初の方は比較的よく眺めるわけでして、
そこには日本の貨幣の移り変わりを示す年表があるのですな。
まずもって、683年に銀銭利用禁止のお触れが出されたことが記されておりました。
かつて日本の貨幣の始まりは「和同開珎」と教わったような気がするのですが、
そんなことはその後の研究で古い古い情報となっているのでしょう。
当時の銀銭とは「無文銀銭」といいまして、Wikipediaによれば
「近江朝時代(667年-672年)に発行され、日本最古の貨幣といわれている私鋳銀貨」とか。
私鋳ということですから、公のものではない。そこでこれの使用を禁止して、
お触れと同じ頃に造られた「富本銭」を使うように促したということになりましょうかね。
「富本銭」は銀製ではなくして、銅とアンチモンの合金でできているそうです。
ですが、それでも銀銭の使用はやむことがなかったのでしょう、
709年には銀銭の私鋳禁止、使うだけでなくて造ることも禁じて、
またしても銅銭に一本化を図ろうとしたようですね。
これの背景には708年(いわゆる和銅元年です)に武蔵国から自然銅が朝廷に献上され、
「和同開珎」が造られたということがありますね。元号を「和銅」としてしまうくらいですから、
結構画期的な出来事だったのではありますまいか。
ちなみに「和同開珎」の読み方ですけれど、
「わどうかいほう」、「わどうかいちん」とふたつあるように覚えておりましたものの、
今ではもっぱら「わどうかいちん」に軸が移ってきているとか。
「珎」の文字が、かつては「寶」の略字と考えたりもしたところが、
他にそういう省略事例が見当たらないということで。
ところで、元号まで「和銅」ですから当然に、「和同開珎」は銅銭かと思えば、
当初は銀銭と銅銭、両方あったということなのですな。
使用する側でも、銅の鈍い色より銀の方がありがたみがあるような気がしたのかもです。
もっとも710年には改めて銀銭の使用を禁止しましたので、
私鋳はもとより「和同開珎」の銀銭もそれまでの歴史ということになりましょうか。
もひとつちなみに「和同開珎」や「富本銭」は円形で四角い穴が開いていますけれど、
これは円形が「天」を、方形が「地」を表しているのだそうですよ。
と、時間はいきなり飛びますが、10世紀の半ば以降になりますと
銭貨の発行が停止されていくのだそうです。
米や絹、麻の布などを貨幣代わりとして、12世紀半ばまで続いたとか。
これまた背景としては、国内で貨幣の原材料があまり採れなくなったことが
あるのではありませんですかね。12世紀半ば以降からは再び貨幣が流通しますが、
もっぱら「渡来銭」が使われたそうでありますよ。
理由としては、やはり国内銅の産出量が少なく、造るより輸入した方が安上がりだったことや
国が大規模公共事業をしなかった(国として貨幣を発行しなくて済んだ)ことであると。
この時期には貨幣鋳造が「国」の独自性に関わるものというような、
そうした考えでもなかったのでしょうなあ、きっと。
その後、江戸時代にはもちろん幕府管理の元で通貨政策はあったでしょうけれど、
関東と関西で使われる貨幣が違ったり(関西では銀の重さで量ったようですな)、
納税が年貢米という物納であったりしますから、現代とはずいぶん違う。
今につながるのは明治以降なのでありましょう。
とまあ、ざあっと流れを見ましたですが、それ以外で今さらながらの気付きは
渋沢栄一が作った第一国立銀行、これって国立といいつつ、民営だったですなあ…。
その渋沢の銅像が東京にもあるとして、1万円札の肖像に使われると決まって以来、
ひとが訪れるようになったとは聞いておりましたですが、
日本橋川の近く、常盤橋公園にあったということに、
このほど貨幣博物館からの移動の際に初めて知りました。
折しも手元にカメラがなかったもので写真はありませんが、
なんだかもそっと目立つところに造られていてもいいのではと思ったり。
まあ、ともかくそれは余談ということで。