いやはや、何やら凄い小説に遭遇してしまったものであるなという印象が。「凄い」という形容の仕方がどうにも安直に過ぎて、我ながら情けなくなる表現ではありますが、角田光代の『方舟を燃やす』を読みながら思ったところでして。

 

 

小説たるもの(とは大袈裟ですが)、何百年も昔に書かれた古典が今でも読み継がれているように、そこには描かれる物語の同時代性はもちろんのこと、いつの世にも通ずるところのあるような普遍性をも併せ持っておりましょうから、その点を含めて評価されることにもなりましょう。

 

さりながら、このお話、1967年生まれの作者と近い世代であれば、あんなこともこんなこともというあれこれが思い出されることとなって、それがまたトリガーとなって読み手が過ごしたその時代を(忘れていたと思っていたことや思い出したくもない、思い出さなくてもいいようなことまで)まざまざと脳裡に蘇らせてしまう。

 

感じた「凄さ」の源はその辺でもありますので、個人的にはちと昭和30年代、40年代あたりに思いが寄りすぎになっているものとも思いますが、話の中で飛び出す、例えば「ノストラダムスの大予言」、「こっくりさん」、「口裂け女」などなどといった言葉はどうしたって時代との結びつきが強いものですしね。

 

とはいえ、読み進めますと登場人物たちがそれぞれに歳を重ねていって、だんだんとリアルタイム現代に近づいていきまして、そこにはまた、その時代らしい空気と時代ごとの悩ましさといったものが書き込まれていて、これまた歳を経た自らのことを省みてしまったりもするのでありますよ。例えば親子関係であるとか、近隣住民同士の関係の希薄化であるとかといったあれやこれや。

 

本書の帯に「あなたは何を信じていますか?」とありますけれど、これは先に時代を席捲した言葉として挙げた「ノストラダムスの大予言」などの昔の話ばかりでなしに、デマやフェイクが広がりやすくなった現代の話として、「どうしてそれを信じられるのか?」と常に自問自答して過ごさなければならない時代の話でもあるわけですね。

 

便利、便利と使いまくっているインターネットに情報は溢れているといいつつ、見ている情報はどんどんと(AIによる傾向分析の結果として)偏っていって、実はとても狭いところしか見ていないのかもしれない。まあ、ソクラテスの「無知の知」ではありませんが、そうしたことを意識しているかどうかだけでも世の送り方が変わるようにも思えるものです。

 

作者が本書を通じて何を言いたいのかも、もしかすると読み手によって変わるかもしれませんけれど、なんにつけ、考えてみることのよすがにはなろうかと思ったものなのでありました。個人的にはもちろんとして。