これまでに凸版印刷が手掛ける印刷博物館には何度か立ち寄ったことがありました(そのうちの何度かはトッパンホールの演奏会ついでですが)。が、業界トップに並びたつ大日本印刷の方にも資料館のようなものがあるのではなかろうかと思っていたのですよね。

 

銀座にグラフィック・ギャラリーを持っているとは知っておりましたけれど、本社のある市ヶ谷に「市谷の杜 本と活字館」なる施設があるとは、先ごろになってようよう新聞で見かけたのでしたか…。ですので、都心のサントリーホールに出たついでに覗いてみたのでありますよ。

 

 

聳えたつ本社ビルの手前、レトロな洋館風の佇まいを見せているのが本と活字館でして、そもそもは大日本印刷の前身会社が1926年(大正15年)に建てた印刷工場の表玄関というべき建物とか。

 

 

「戦時中の空襲にも耐え、ずっとこの地にあり続けました」という紹介は、ことのほか印象的なような。何せ、市ヶ谷だけにすぐ近くには防衛省(かつての陸軍省)があるものですから…。ともあれ、中へ入ってみましょう。

 

 

先に大日本印刷の前身会社が云々といいましたですが、元々は秀英舎と日清印刷という二つの会社が1935年(昭和10年)に合併してできたのが大日本印刷であると。ですが、元の会社のひとつ、秀英舎の「秀英」というところに「ん?!」と。お隣のコーナーですぐに謎解きはされるのですけれど。

 

 

そうそう、フォントの名称でしたですねえ、「秀英体」。秀英舎の秀英でしたか。基礎的な活字書体として現在は数多くあるデジタルフォントにも影響を与えたという秀英体。それだけにこの施設が「本と活字館」という名称で、本の制作過程を紹介するに展示は「作字」から始まることになるのでしたか。

 

 

それにしても、印刷技術はグーテンベルクが15世紀半ばに活版印刷術を発明して飛躍的に進歩したわけですが、以来500年にもわたって活字造りが続けられてきたことになりますな。印刷が便利になったとは思っても、活字造りの大変さまでには余り思いを致したことはなかったような。「1文字ずつ、原図を描いて「型」をつく」ることから始まるのですものねえ、大変な作業でしょう。

 

 

描かれた原図を基に、活字パントグラフ(母型彫刻機)という機械で活字の原板?を作るそうですが、機械の肝心要の部分に寄ってみますとこんな具合です。

 

 

今ならばコンピュータ利用でささっと…てなふうにもなりましょうが、コンピュータの無い時代ですから精密加工技術の極みで作り出していたのでしょう。にこだわりを見せている由縁だったのですなあ。

 

母型ができると実際の活字を「鋳造」する段階に。であったとか。その際に肝心なのが活字の高さを均一にするということ。「高すぎると文字がつぶれ、低すぎるとインキがつかずに文字抜けの原因とな」ってしまうということで(ちなみに、普通「インク」といいますが業界用語的には「インキ」だそうです)。

 

と、ここまでの活字作りは印刷作業の下準備ですな。実際の印刷に掛かる最初には「文選」という作業があると。いわゆる、活字拾いですな。

 

 

熟練の職人さんの文選を見て、活字拾いをやってみようコーナーみたいなのがありまして、なんとはなし、単純作業だし簡単なんじゃあないかという想像はとんでもない誤りでしたですよ。とにかく活字の量が膨大で、「使用頻度ごとに区分され、文字種・部首順に棚に配列され」ているとはいえ、見つけるのに時間がかかり過ぎてあっという間に降参!です(苦笑)。

 

で、拾った活字を印刷物のページの形にくみ上げる作業が「植字」ということで。サンプル、1ページ分として仕立てのがこちらになります。

 

 

「印刷すると余白になる行間や文字間も、すべて金属で埋め尽くし」、1ページ分まとまると崩れないように外枠をタコ糸で縛るのだそうでありますよ。

 

 

版ができたら、いよいよ「印刷」。「校了した組版を、8ページや16ページなどの複数ページ分を印刷機に組み付け」ると。これは次の工程になる「製本」にも関わる点でしょう。こちらは、その「製本」の作業自動化に力を発揮した糸かがり機だそうで。

 

 

「印刷した用紙を折ってページ順に並べた「折丁」の背に糸を通し、1冊分の本を縫い合わせる機械です」ということですが、どうにも縫製工場の機械としか見えませんですなあ。「糸かがり綴じは上製本に多く用いられ、開きやすく、耐久性のある本ができ」るのであると。

 

 

てなことで、本のできる工程を興味深く見て回ってきたですが、実はこの施設は2階にも展示があるのですなあ。お次はそちらの展示を振り返ることにいたしましょうね。