一度は覗いてみようと思っておりました六本木の写真歴史博物館へ
立ち寄ってみたのでありますよ。
このところINAXライブミュージアム
やらMizkan Museum
やらと
企業博物館のことを書いてましたですが、
この写真歴史博物館も富士フイルムの企業博物館だったのですなあ。
(ちなみにフイルムの「イ」は小さくしないのが正式だそうです)
かつての富士写真フイルムはそれこそ写真用フィルムでは
世界的に大きなシェアを誇っていて、「ああ、大きな会社なんだな」とは思っていたものの、
時代がデジタルに向かうに及んでどうなってしまうんだか…と思っていましたが、
どっこい生きていたのですなあ。多角化の賜物でしょうか。
とはいえ、富士フイルムは「フジカラーで写そ!」というくらいにもっぱらフィルムの会社であって、
個人的にはAXIAというブランド名のカセットテープを使ったりはしていましたが、
博物館内で「富士フイルムの歴史を築いたフィルム&カメラ」というコーナーに展示された
数々のカメラを見て、「そっか、カメラそのものも作っていたんだ…」と。
富士フィルムのカメラといえば「写ルンです」という(良し悪しはともかく)使い捨てカメラしか
思い浮かばないところながら、35mmコンパクトや一眼レフも出していたのですなあ。
もっとも「写ルンです」にしても基本形に加えて、フラッシュが付いたもの、
望遠レンズが付いたもの、レンズカバーが付いたもの、自動露出が付いたもの等々、
発展改良形がたくさん出ていたとは。知りませなんだ…。
もちろん同社が作った映画用の天然色フィルムでもって
日本初の長編カラー映画「カルメン故郷に帰る」が作られたというくらい、
日本の映像関連分野の先駆け的企業ではあったわけですが、
映像用の機材(そういえば「フジカシングル8」なんつう8ミリがありましたっけ)も
製造していたとなれば、写真の歴史を見せる博物館を
富士フイルムが設けたのもなるほどではありますな。
ということで、展示解説には写真という技術の黎明を紐解いたりするものがありまして、
見たものを写し取ると言う点では(フェルメールも使ったという)カメラ・オブスクラなどに触れ、
これを覗いてみよう!といった展示もあるという。
されど、写真といって想起するのはやはり見えたものが何かしらに写し取られて、
しかもいつでもどこでも取り出して見ることができるというものであろうかと。
そうした手法の生みの親がフランスのダゲールという人で、
1839年にダゲレオタイプという銀板写真を考案したそうな。
面白いことには、ライト兄弟後の飛行機
などを始め、一端その道が開かれると、
矢継ぎ早に技術革新が続くのですよねえ。科学とはそういうものなのでありましょうかね。
写し取ったものがそれ1枚きりないというダゲレオタイプに次いで、
かつての写真用フィルムのイメージに近いネガとポジの関係で
ポジ画像の複製が可能なカロ・タイプが登場する。
イギリスのタルボットがカロ・タイプを発明するのは
ダゲレオタイプが発表された、たったの1年後であるというのですなあ。
一方で、1851年には湿版写真というのが登場し、
ダゲレオタイプでは露光に30分以上もかかっていたのが
数秒から2分程度に短縮されたのだとか。
日本に写真術が伝わって、
例えば長崎で写真館を開いた上野彦馬も湿版写真で撮影していたようですから
有名な坂本龍馬の写真のモデルとして龍馬は2分くらいじっとしていたということでありましょうか。
さらに印画紙の改良が写真の複製をより容易にしたということなんですが、
「鶏卵紙」と呼ばれるこの印画紙はその名のとおりに卵白に紙を潜らせて作るものだとか。
この間のテンペラ技法
の話とも相俟って、卵というのは実に大した代物なのですなあ。
とまれ、複製が容易ということはおそらく写真に係る単価が下がることにもなったからか、
「名刺写真」というのが流行ったというのですね。
「どうぞお見知りおきを」と自分の写真を出すのがどの程度流行ったか、
名残りとしては今でも日本で使われる名刺の大きさはほぼ定型ですけれど、
あの大きさがまさに名刺写真の大きさなのだと聞けば、「へえ~」てなものでありますよ。
展示の規模は小さいながら、それなりに興味深くもあった写真歴史博物館なのでありました。
というところで、台風10号の置き土産がもたらしさ暑さの中、
老親のようすを窺いに行ってまいりますので、明日はお休みいたします(ふぅ…)。