千葉県佐倉市を一日めぐった街歩きの後は成田へ移動して一泊し、その折の夕食では珍しくも酢飯のうな丼を食した…と、このことだけは先んじてお話しておりましたなあ。で、一泊した翌日のお話となるわけでして、朝早々、8時台にJR成田駅西口を出発するバスに乗り込み、竜角寺台2丁目という停留所で下車したところから始まります。

 

時刻表どおりに行けば20分ほどの乗車時間ですが、成田市を離れてお隣の印旛郡栄町に入っておりますが、バス停のあたりは広く宅地造成された閑静な住宅街(都心地域の閑静さとは少々意味合いが異なりますが)の只中という印象。ですが、住宅街をなす一角とはバスの通って来た道を隔てた反対側にはこんもりした木立が広がっているのですなあ。まずはバス停から歩いて10分ほど、たどりついたのはこんな施設なのでありました。

 

 

「体験博物館 千葉県立房総のむら」ということで、上図の真ん中辺にあたる「房総のむら」自体がどんなところであるかは後ほど触れることになろうと思いますが、周辺部、特に右側や下半分のエリアには前方後円墳や円墳、はたまた方墳を示す印がざくざくとあるではありませんか。龍角寺古墳群として知られておるということなのですな。千葉県HPの歴史・文化紹介ページではこのように。

印旛沼の北東岸、印旛郡栄町酒直・龍角寺から成田市大竹にかけて所在する、古墳時代後期(6世紀)から終末期(7世紀)の古墳群である。
現在確認されている古墳の総数は115基あり、県内でも有数の大規模な古墳群のひとつである。印旛沼に面する台地の縁辺部には6世紀の円墳や前方後円墳が並んでいるが、その中央部の、現在千葉県立房総のむら風土記の丘資料館の周辺には、やや大規模な円墳や前方後円墳がみられる。7世紀の古墳は台地のやや奥に偏っており、とくに北東寄りの一角は7世紀代の方墳が集中している。

一応、周辺の古墳群は「房総のむら」の有料入場エリア外になってますので、まずはこの古墳の森を散策してみることにしたのでありますよ。でもって、いざ分け入ってみますと、あっちにもこっちにも古墳の表示が次から次へと出てくる。総数115基とは「なるほどねえ…」と。

 

 

 

「〇号墳」と示される表示の形が古墳の形を表しているようですな。それにしても、単なる雑木林の散歩道と思しき周囲が本当に古墳だらけなのですなあ。ただ、古墳に対する畏敬の念とでもいいましょうか、そこここに「古墳には登らないでください」と注記がありましたが、小ぶりなものは「多少盛り上げっているようであるな…」と、歩きながら眺めやるばかりであったものの、後には登れないことをひどく残念に思う瞬間も出てくるわけで。墳丘に登る人みな、古墳がいにしえびとのお墓であることに何も頓着していないでもないのでしょうけれどねえ…。

 

 

と、53号墳はちと墳丘に近寄れるようで。発掘の際に出土した石棺を開口したまま公開しているということでして。

 

 

解説に曰く、石棺は「筑波山系産と考えられる雲母片岩をもって箱式に組立てられてい」ると。昔々の霞ケ浦は現在よりも遥かに大きな内海だったようですので、筑波山で切り出した岩を舟で運んできたのかも。もしかすると、印旛沼までも水路ばかりを伝って運べたのかもしれませんなあ。

 

といいますのも、この龍角寺古墳群は印旛沼を見下ろす下総台地の際に造られたものですのでね。ただ、案内板にあった「印旛沼の見える遊歩道」というルートをたどっても、いっかな印旛沼は見えませんでしたですが…。

 

 

「向こうに見えるのが印旛沼です」と言われても、木々が繁って(すでに落葉もしてますが)見通しは無いもので。とまれ、冬の朝の清涼な空気の中をひとしきり散策してから、古墳群の詳細解説を求めて「風土記の丘資料館」へと向かったのでありましたよ。