先日は、コロナ禍となって以来初めて劇場で見た芝居が歌舞伎だったことをお話しましたですが、なにごとにつけ「初めて」までの敷居は些か高くとも、それを一端乗り越えてしまいますと、次の機会は結構早く訪れるものですなあ。まあ、芝居見物の話としては大仰な言い回しではありますけれど、このほどその次の機会を得て、下北沢の本多劇場へと足を運んだのでありましたよ。加藤健一事務所公演『夏の盛りの蟬のように』という一作です。

 

 

フライヤーをご覧になって想像の範囲内かと思いますが、時は江戸後期。そして、大きく赤富士が描かれておりますように、真ん中のお年寄りは画狂老人・葛飾北斎、そして寄り添うのは葛飾応為、つまりは娘のお栄ですな。後ろに小さく描かれているのは弟子たちということになりますけれど、蹄斎北馬(Wikipediaには「北斎の弟子の中では筆頭にあげられ…」とあるも、初めて名前を聞きました。芝居の中では、生計のため「ワ印」ばかり描いていたように…)はともかくとして、この芝居でクローズアップされるのは歌川国芳と渡辺崋山なのでありますよ。

 

国芳は歌川門下ながら時の絵師として北斎に私淑していたようですなあ。広重もまたそんな思いがあったところではありましょうけれど、どうも北斎とは馴染みにくいお人柄だったのでしょうかね。この場合、北斎の方が馴染みにくいというべきかもしれませんが、立ち回りとしては国芳の方がうまかったとも言えようかと。

 

ちなみに劇中には北斎が「名所を描くのと景色を描くのとは全く違う。自分は景色を描いているのだ」てなふうに言う場面がありまして、要するに「名所絵」はもういい所と衆目一致する場所を写しただけで、例え名所の代表格である富士を描くにしても自らが「ここぞ」という場所から切り取って見せる自らの作品こそ絵師の腕の見せ所だといったところなのかもしれません。いわゆる「名所絵」で知られた広重に対するあてつけのようにも聞こえるところながら、広重自身、「名所絵」の名をこだわりなく使いつつも、その実、オリジナルな独自視点を追求したわけですから、ともすると北斎にライバル心を掻き立てることになったのでもありましょう。

 

ところでもう一人の登場人物は渡辺崋山。画人としても知られることは、残された作品が国宝指定されていたりすることからもよおく分かるわけですが、果たして北斎との交流がどれほどあったのか。この芝居で見る限りは、北斎を「師匠、師匠」と付き従うのですな。やがては武士を捨てて、一心に絵に向かう所存てなことを告げておきつつも、立場が立場でままならない。しかも、幕末の向かう慌ただしいご時世にあって、蘭学などにも通じた知識人としては「絵を描いていても世の中を変えることはできない」といった思いにも捉われて…。

 

そんな心中をもらす崋山は「ああ、絵を描いても何も変わりはしない!」と北斎に言わしめてしまうのですけれど、これって反語?と思ったり。もちろん北斎自身が知る所ではありませんですが、時を経て「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」(米ライフ誌)にその名を連ねたりしているとは、どこかしらでは間違いなく世の中を変えるような影響を誰かしらに与えているようにも思えるところです。

 

もっともこのことは北斎ならずとも、誰であっても生きている以上は世の中と、他の人々と、瞬時のすれ違いであっても全く関わらずに過ごしてはいないのですから、それこそ「バタフライエフェクト」のような相互の影響は与え、与えられているのではないですかね。もちろん、「バタフライエフェクト」と言ってNHKの番組のように世界を動かすような影響ではないとしても、それでも番組で取り上げられるような人物がどこの誰とも知れぬ人と道旗ですれ違うときに感じた風に、はっ!と何か思いつくことがあったかもしれない。となれば、そのどこの誰とも知れぬ人が実は世界を動かすこと、世の中を変えることに関わっていたことになるわけですものね。

 

と、またしても話はすっかり脇道に入り込んでしまい…(笑)。ですが、芝居の話がこうした思い巡らしを生んだのでもありますから、これもまたひとつの「バタフライエフェクト」であったわけですよねえ。そして、蝶のはばたきのわずかな風は、このページにたどり着いてしまった皆さんのところにもたどりつくでありましょうか…。