これまた予て一度は覗いてみようと考えておりました東京都水道歴史館、
ようやっと訪ねることができたのでありますよ。
場所はJR御茶ノ水駅と水道橋駅の中間くらい。
建物の裏側にはかつての神田上水の遺構があることから、この地が選ばれたのでしょうかね。
実はこの遺構のある場所は高台に位置しておりまして、
JR中央線に乗っていて水道橋駅を過ぎ御茶ノ水に向かう左側、長い登り坂が見えますが、
そのあたりの高台を神田上水は通っていたわけです。
それを江戸の城中に引き入れるためには神田川の深い谷を越さねばならない。
そこで水を渡す橋(水道橋・すいどうきょう)が必要になったのですなあ。
駅名に残る水道橋(すいどうばし)はこのあたりにあったということになりましょう。
ところで、水道歴史館の館内展示ですけれど、
江戸から東京へと移り変わる中での水道の歴史が解説されているのですね。
2階部分が江戸期、1階が明治以降ということになりますが、今回は2階部分を中心に。
徳川家康入府前の江戸は海に近い湿地であるために水に恵まれず、
その後の人口増加への対応としても数々の上水道の整備が必要になりましたですね。
ですが、まずはなんと言っても「神田上水」。
NHK正月時代劇「家康、江戸を建てる」
にもあったとおりです。
天正十八年(1590年)徳川家康の江戸入府に先立ち、城下に飲料水を供給するため家臣・大久保藤五郎に上水開設を命じた。藤五郎は小石川に水源を求め、目白台下の流れを利用し、神田方面へ通水させたと伝えられている。
これが小石川上水の誕生であり、その後、随時拡張され神田上水となった。井の頭の池や善福寺池、妙正寺池を水源とした。
これによって江戸城中にもきれいな上水が取り入れられることになったのは
先にも触れたとおり。当時の水道橋を再現したものがこちらの模型になります。
ですが、広重描くところの「東都名所 御茶之水之図」では
橋が全体的に囲われていることが分かります。
将軍の飲み水ともなるだけに厳重警戒だったのでしょうなあ。
江戸に幕府が開かれて日本の中心になりますと、水需要は増え続けるばかり。
これを賄うために造られたのが玉川上水でありますね。
家光が三代将軍となると、「参勤交代の制度」と「大名正妻・嫡子の江戸在府の制度」にょり、諸国の武家が江戸に集まってくるとともに、その生活を支える町人が増え、江戸の人口は増加し、水需要が増大した。
この江戸の都市化に対し、神田上水に加え新たな上水の開設が必要になった。江戸町人、庄右衛門・清右衛門兄弟により、多摩川を水源に承応三年(1654年)に玉川上水が開設された。
約43kmに及ぶ長い水路の建設はさぞや難事業であったろうと思うところですが、
他の上水(青山上水、三田上水、千川上水)はこれの分水であると言いますから、
玉川上水さまさまではありませんか。
こうして江戸市中に引き入れた上水は、
地中に埋められた木樋を通じて市中の方々に供給され、
長屋の裏の共用上水井戸にもつながっていたりするのですね。
ところで、当時の水道料金はどうなっていたのでしょう。
「町方は所有する地所の表間口の間数を基に小間割」で徴収ということですので、
長屋住まいの人たちはおそらく店賃に込々で、大家さんか家主が一括して払っていたのでは。
落語に出てくるように店賃の払いが滞ると、大家さんは収入減どころか実損が出たのかもです。
とまれ、上水の整備で水事情のよくなったお江戸の町ですけれど、
「享保七年(1722年)八代将軍吉宗の治世下に突然」亀有、青山、三田、千川の四上水が
廃止されるという事態が起こるのでありますよ。
確かな理由は不明ながら、一説によれば儒学者・室鳩巣の建言によるのではないかと。
当時の江戸の町を何度も襲った大火。その原因というのが
地下を通す上水のせいで分断された地脈のせいと考えられたからということで。
高台の人たちはなんとか井戸を掘り、
下町・川向うでは水売り業者が活躍することになったとか。
そんな形でなんとか明治まで持ちこたえるようですけれど、
明治の代になってもあまり水事情は好転しなかったようすですなあ。
それどころか、明治19年にはコレラが大発生して12,000人を超える死者が出てしまったという。
これが日本で近代水道の整備を促すきっかけともなったということですけれど、
明治以降のお話はまた別の機会にいたしましょう。